第306話 バトルオブアルキエルモ⑥

 耳につく笑い声と共に下から振り上げられた、とても大ぶりな錨の重撃。

 自分の息が切れていなければ、それともマオリィネのように上手く受け流せていたならば、あるいは反撃を打ち込む隙にできたのかもしれない。

 だが、戦いにたらればはないのだ。


「あぅ――ッ!?」


 掌に走った痺れに、手からミカヅキが離れて宙を舞う。

 それでも強い衝撃は殺しきれず、ボクは立ったまま後ろへ滑り、最後は崩れるように膝をついた。

 ありったけの力を出していた身体は冷めることなく、乱れた呼吸は肩を上下させるばかりで戻らない。

 そんな自分を、黒い影が覆った。


「くふふ、残念だったね。けど、楽しかったよ、猫ちゃん」


 見上げた先にあったのは、最初から変わらない含み笑い。息を切らした様子もなく、余裕ぶっている様子に腹が立つ。

 おにーさんのリベレイタになる前の自分なら、自分が弱かっただけだとすんなり受け入れただろう。奴隷や若いリベレイタ、それも毛無のキメラリアなんて、誰も助けてくれないならまだしも、囮にされて捨てられても不思議ではないのだ。今は生きているのは単に運がいいだけで、明日は自分の番だろうかなんて、まるで他人事のように思ったりもしていた。

 けれど、今は違う。

 戦うことが仕事で、それしかできないことは変わらない。けれど、今日が自分の番だったから仕方ないなんて、絶対に認めたくない。

 ボクは、昔よりずっとずっとわがままになったのだろう。ボクがそうすることを、あの暖かいお家は、騒がしく楽しい家族は、その中心にいるおにーさんは、心の底から許してくれるのだから。


 ――諦めたく、ない。


 光を遮って振り上げられる黒い錨。最初滑らかだったはずのそれは、ミカヅキの斬撃を受け続けたことによって無数の傷を刻んでいる。

 心のどこかでどうしようもないことくらいわかっているのに、ボクはどうしても悠然と力を籠める熊女から目が離せない。

 神様、と咄嗟に名前も思い出せない存在に、心の底から祈ったのは久しぶりだった。そうして救われたことなど、今まで一度もなかったから。

 毛深い腕に力が籠ったのがわかる。ボクは咄嗟に腕を顔の前で交差させたものの、錨の直撃を受ければ身体ごと潰されるだけで何も変わらないだろう。

 何かが割れるような音が聞こえたのは、ちょうどその瞬間だった。


「――ほぇ?」


 交差した腕の向こう側に見えたのは、ゆっくり流れる時間の中でキラキラしたものが宙を舞い、黒い塊が落ちていく不思議な光景。

 死ぬ直前に見る景色は美しいのだと、どこかで誰かが偉そうに語っていた覚えがある。語っていた奴が生きている以上、馬鹿馬鹿しい話に過ぎないのだが、この時はもしかしてと思ってしまった。

 それもほんの一瞬。


『当たっ……た?』


 震えるような声。そして視界の片隅に映った小さな影に、ボクは軋む体へ力が籠もるのを感じた。

 いつだったか、ボクがおにーさんにしたように、ボクを守ってくれた人がいる。

 武器がなくとも戦いは終わっていない。そんなやり方をする人と、ボクは過ごしてきたのだから。


「ッ――てぁあああッ!!」


「ぶべッ!?」


 跳び上がりながら全力で振り抜く固く握りしめた拳。

 それは錨を落としたまま呆然としていたキムンの顎に突き刺さり、大柄で重い体をわずかに宙へ浮かせた。

 あっぱぁ、とおにーさんは呼んでいたように思う。人種が相手ならば、頭を揺すって失神させられる強力な一撃だとも。


「あいててて、どれだけ硬い顎してるんですかコイツ」


 息を入れながら、ぶん殴ったほうの手をビビビと振る。まるで岩でも殴りつけたかのような感覚だった。

 とはいえ、流石にこれは効いたのだろう。なんとか上体を起こした熊女は、それでも視界がぐらついているらしく、頭を手で支えようとしてグゥと鈍いうなり声をあげる。

 彼女の手首からは赤黒い血が流れ、それが宝石らしき飾りの砕けた腕輪を汚していた。


「やっぱり飛び道具か……オレの、楽しみを、邪魔するのはぁっ!」


「全力でぶっ叩いたのにまだ立ちますか。その頑丈さは認めてあげますけど、くふくふ言ってた顔が崩れてますよ」


 怒気を孕んだ息を吐きながら立ち上がったキムンに、先ほどまでの余裕は見られない。その様子をフンと小さく鼻で笑ってやれば、彼女は眉間の皺を一層深めて牙を剥いた。

 無論、ボクの体も足の震えが止まらないくらいに限界ではある。だが、あの鬱陶しい含み笑いをひっぺがせたことを思えば、それだけで気分的には最高だ。


「この……たかが腕の1本くらいで、オレに勝ったなんて――!!」


『サンタフェ』


 彼女の叫びに紛れ込んだ、低く冷たい男の声。

 それがキムンの名前だったのかはわからない。ただ、ザラザラした音の混ざるそれを聞いた途端、今にも飛びかかろうとしていた熊女が体を硬直させたのは事実だ。


『こちらの準備が整った、遊びの時間は終わりだ。後退しろ』


「っ……へぇ? 後退ねぇ? 腕輪やられちゃってるから、こいつらに背中向けるのは無理じゃないかな――ッぅ!?」


「よくわかってるじゃないですか。誰と話してるのか知りませんけど!」


 拾い上げたミカヅキを横薙ぎに振えば、サンタフェとやらは体を反らせて髪の毛を散らす。

 錨さえなければ、この刃を止めることなどできはしない。それもどこにつけているのか知らないが、ムセンと話しながら拾わせてやれるほど、ボクは優しくないのだ。

 ミカヅキが空を斬り地面を削る音は、その会話相手にも聞こえているだろうし、ならばサンタフェが置かれている状況も理解できるはず。

 だが、ボクの耳に届くその声は揺らぐことなくひたすら淡々としていて、全く感情を感じさせないものだった。


『迎えなら既に送ってある。それとも、キムンの本能とやらを言い訳に全てを失うか?』


「その迎えが何か知らないけど、間に合えばいいねぇ!?」


「不利なことをわかってもらえたようで、何よりです」


 ミカヅキの縦振りを躱して、サンタフェは拳が届く間合いへ詰めてくる。

 だが、彼女は良くも悪くもキムンなのだろう。力任せな格闘はそれだけで適当な武器より強力だろうが、大振りで技のない殴り合いなど、おにーさんとの組み手を思えば遊びと変わらない。

 顔を狙ってくる蹴りを屈んで避けつつ、片手を軸に体を回して毛深い足を蹴るように払う。

 力があろうとなかろうと、手足のどれもが地面から離れればもはや関係ない。大柄な彼女は一瞬宙に浮き、そのままドスンと尻もちをついた。


「いってぇ!? な、何さ今の動き――あ」


 キョトンとした顔を見下ろしながら、逆反りの刃を上段に構える。


「楽しませていただきましたよ、熊さん」


 さっきとは真逆の状態に、ボクは薄く冷たい笑いを零す。向こうに助けてくれる飛び道具はない。

 風を切ってミカヅキは唸る。世界の流れがゆっくりになることはなく、きっとサンタフェにもさっきはこう見えていたのだろう。

 ただ、舞い上がった土煙を前に、ボクはムッと耳を伏せることになったが。


 ――地面の手ごたえだけ。肉を斬った感覚がない。


 これまでの経緯から、まだ何かを隠していたのかもしれないと思い、咄嗟に地面を蹴って距離をとる。

 しかし、土煙の向こうからは何も現れることはなく、殺気も気配も感じられなくなったために、消えてしまったのかと本気で思った。

 少し離れた岩の上に、その小さな影を見るまでは。


「アステリオン……ですか?」


 一瞬目を疑ったのは言うまでもない。

 小柄で非力な方の犬が、表情ひとつ変えないまま巨体のキムンを片腕で担ぎ上げて、こちらを見下ろしているのだから。

 一方、狭い肩に乗せられている方のサンタフェは、僅かに目を見開きはしたものの、すぐにあの含み笑いを浮かべて体を揺らした。


「くふ、くふふふ――ホントに間に合わせちゃったよ」


「なんだか変な奴ですけど、武器も持ってないような犬が1人増えたくらいなんですか!」


 ミカヅキを構えて走り出す。ここであのサンタフェとかいうのを逃す手はないのだから。

 相手が何であれ、敵ならば手を抜くつもりはない。頭ではそう考える。

 だが、こちらを見ているかどうかさえ分からない瞳で、身動き1つしないそいつに斬りかかった時、背中をゾワゾワする何かが駆け上がった気がした。

 斬ろうとするな、守れ。そんな感覚に救われたといっていい。

 咄嗟に前へ出したミカヅキの刀身に伝わる衝撃。気が付いた時、ボクは弾かれるように後ろへ飛ばされていた。


「ケホ……な、なんですか、今の?」


 吹き飛ばされている時間が長かったからだろうか。ボクは無理矢理に空中で体を捻り、何とか足で地面を抉りながら勢いを殺すことができた。

 だが、ミカヅキを支えていた手は震え、もはや全く感覚がない。折れていないのが不思議と思えるほどだった。

 それも受け止めたのはたかが小型犬による打撃のはずであり、ここでサンタフェの声が聞こえてこなければ、しばらくは夢だと思って信じられなかっただろう。


「アステリオンでこれかぁ。このところちょっぴり疑ってたんだけど、ルイスは嘘をついてなかったんだねぇ」


『気が済んだなら、直ちに戻れ。その場所にもう用はない』


「はーいはい。じゃあ悪いけど送ってほしいんだけど、その前に――猫ちゃーん! 聞こえてるー!? そーろそろ時間切れだと思うから、動けるんならお仲間を助けに行ったほうがいいよぉ!」


 わざわざ大声を出さなくても、ボクの耳はムセンの音までちゃんと聞こえている。とはいえ、キムンにはケットの耳の良さを判断しろ、というのは無理があるだろう。

 とはいえ、訳のわからない力を持つアステリオンに守られておきながら、しょうもないハッタリで追撃を躊躇わせようとするとは流石に思えず、ボクは深く息を吸い込んでから叫ぶように応じた。


「どういう、ことですかぁっ!」


「いやぁそれがねぇ!? オレってば、最初にミクスチャとかの手綱をぜーんぶ乗っ取っちゃったからさぁ! アレすると指輪じゃ上書きできなくなるらしいし、言ってる間にアンゼンソーチとかいう硬直も解けて野生に返っちゃうと思うんだー! 悪いけど、後始末よろしくー! そんじゃまた今度ねー!」


 サンタフェが一方的にそう告げると、アステリオンは示し合わせたかのように岩から飛び降りて走り出す。それも、ミクスチャと変わらないほどの速さで。


「ホントになんなんですかアレ……あんなの」


 人型をしたミクスチャじゃないか。

 あまりにも恐ろしくて、そう言葉にすることはできなかった。

 近づいた瞬間に見えた、感情もなく、言葉も発さず、生きているかどうかさえもわからないほど冷たい顔。男か女かすらわからなかったのに、それがどうしてか自分やアポロニアと重なって思える。

 そんな恐ろしい想像に支配されかかった時、ボクを現実へ引き戻したのはムセンの音だった。


『ファティ! 聞こえる!? 返事をして!』


「あ、はい。ボクは大丈夫です。シューニャのおかげで助かりました。ケガもかすり傷ばっかりで大したことありません」


『……よかった』


 安堵したようなシューニャの声に、感情と体温が戻ってきたように感じる。

 ぷはぁと大きく息を吐けば、熱くなり冷たくなりを繰り返してこんがらがっていた頭の中が幾分落ち着いた。

 それも、ほんの一瞬だけだったが。


『なんだったんスかねぇ、あのアステリオン……同族とは思えない動きだったッス。それに、ミクスチャもなんでか急に固まったまま――』


「っ!? アポロニア、今すぐそいつら潰してください! もうすぐ動き出しますよ!」


『へ?』


 耳障りな唸り声が辺り一帯へ轟いたのは、その直後だった。

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