第75話:お菓子狂いのハイダ

 ハイダが生まれて初めて食べたお菓子はパンケーキだった。

 まだ王妃が厨房に入り、頻繁に料理をしていた頃、その最初期の話だ。

 食事など食べて死ななければ何でも良いのに、わざわざ手間暇をかけて毒を抜いたり柔らかくしなければ食べられないなんて、なんと脆弱な生き物なんだろう、とあきれた思いで王妃を見ていた頃の話だ。

 ハイダは一族の中で一番体が小さく、一番魔力も低かった。だからどうせ死ぬなら少しは役に立ってから死ねと魔王城に追いやられた。

 一族の思惑とは違い、変わり者だった魔王はハイダを殺さなかったからそれは族長達の誤算だったろう。

 不況を買う事もなくかといって興味を抱かれる事もなく、ただの掃除婦として日々を過ごしていた。

 このまま人生を終えるのだろうな、とぼんやり思っていたところに王妃が嫁いできた。

 王妃はハイダよりも小さく、細く、弱く、魔術は使えないどころか魔力そのものが無かった。

 魔王はなぜこんなに死に易い人界人を娶ったのだろうと首をひねった。

 力もなく、夜になったら必ず眠らなくてはならないし、身体能力もそれほど高くない。ほとんどの魔界人と比べて劣りに劣っている。

 ちょっとした事で死んでしまうからと陰に日向に護衛が付いた。

 ここまでして生かす意味はあるのかと日々疑問に思っていた矢先、王妃が倒れた。

 すわ暗殺か病かと城中が上へ下への大騒ぎになったが、原因はただ食事を取らなかっただけ、というハイダには理解のできないものであった。

 よくよく見れば、確かに王妃は初めて見た時よりも痩せ、小さくなっているようだった。

 本当に弱い、よく魔界ここで生きていこうと思ったものだ、と呆れを通り越して感心してしまったくらいだ。

 けれど、たぶん、それはハイダにとっての幸運だった。口にすれば叱られるだけではすまないので、誰にも言うつもりのない事だが。

 魔界の食材も調理法も王妃に合わないとわかってから、厨房に王妃が立つようになった。

 王妃の故郷から食材を買い付け、それを王妃自身が料理する。

 荒くれ者の揃った厨房で上手くやれるものかとハイダにしては珍しく心配していたが、それはいらぬ心配であった。

 厨房に入った王妃はそれまでの弱弱しさはどこへやら、生き生きと調理を始めた。

 王妃にはとても持てない、厨房備え付けの包丁も使う事なく、嫁入り道具として持ってきたという、ちんまりとした、それで本当に食材を切れるのかと疑わしくなるような、小さな小さな刃物で驚くほど正確に、素早く食材を切り分けていった。

 厨房にいた者は全員が、動きもせず王妃の姿に見入っていた。

 頼りない包丁と、小さな鍋達。嫁入り道具ばかりを使って料理は完成した。

 小さな王妃用の皿に載ったそれらはやはり少ない量だったが、なんとも言えぬ良い匂いがしていた。

 人垣のあちらこちらで生唾を飲み込む音がする。もちろんハイダもその一人だった。

 王妃は久方ぶりに食べる故郷の料理に気付かなったらしい。食前の祈りを手早く済ませ、いそいそと湯気の立つ料理を口に運んで行った。

 その時の王妃の表情かおをハイダはおそらく一生忘れないだろうと思う。

 陛下の傍にいなくても、この方は、こんな風に笑う事ができたのかと、ハイダはその時に思い知ったのだった。

 小食の王妃が順調に食べ進め、周りがどんどん前のめりになっていき、王妃をぐるりと囲む壁ばかりになった頃、王妃はようやく周囲の様子に気付いたらしい。

 よだれを垂らさんばかりの、否、垂らして自分を覗き込んでいる魔界人達を見て、あの時の王妃は一体何を感じただろう。

 それを思い出すと未だにハイダは喉の奥が焼けるような感覚がする。

 きっと怖かったのだろう。青褪めて、慌てた様子で、席を立った王妃は少し待つ様周囲に言って、王妃のために用意された小麦粉をほとんど使って、パンケーキを作った。

 これが、ハイダが初めて食べたお菓子だ。


「どうぞ食べてください!」


 わたしばっかり食べててすみません、お口にあうといいんですけど、と言いながら差し出された皿達には丸くて、薄茶色の、甘い匂いに我慢しきれず、遠慮する周りになど構う事なくハイダはそれにかぶりついた。

 その時の衝撃と言ったらない。

 ふわふわとした噛み心地、口内に広がるシロップの甘さは生まれて初めて味わうものだった。

 すぐさま皿を空にしてしまったハイダはまだ食べていない者に向かって、食べないならください、と周囲を見回したが、ハイダの様子を見ていた者達は遠慮などかなぐり捨て、我先にとパンケーキを食べていった。

 ああもっと食べたかったのに、と肩を落とすハイダに王妃が笑いかけた。


「ハイダさん、良い食べっぷりでしたよ。パンケーキは簡単に作れますし、また材料をいただいたら作りますね」

「かんたんに、つくれる、のですか?」


 パンケーキを味わった幸福感に浸ったままのハイダが舌足らずに尋ねれば、王妃は大きく肯いた。


「小麦粉と卵と牛乳があれば作れますよ。砂糖とかバターもあればもっといいんですけど」


 砂糖もバターも少なくなっちゃったからなあ、と残念がる様子の王妃の両手を取って、ハイダはぶるぶると体を震わせた。


「小麦粉とはどんなものですか、卵はニドヘグの卵でも構いませんか、牛の乳の代わりにジャルの乳でも良いですか、砂糖とは、バターとは、どうやったら作れますか」


 人界の食材は貴重で、ハイダにはとうてい手に入れる事などできないが、魔王城近くの森ならば散策くらいならいくらでもできる。

 王妃の作ったパンケーキの味には敵わないだろうが、似た様な味にはなるのではないか。

 そう考えて興奮の止まらないハイダにぽかんとした王妃は、けれどすぐに笑い返した。

 きっとそれは、花の開くような、と形容するに相応しい微笑みだったに違いない。疎いハイダにはわからなかったけれど。

 ただ、自分は得難いものを見たのだというのだけはわかった。


「良いですね、それ!」


 ハイダの手を握り返した王妃が、上下に手を振る。


「魔界の食材でも使えるものを探しましょう!」

「はい!!」


 目を丸くしている周囲にはやはり構わず、ハイダはこの方に一生ついて行こう、と決めた。

 使える食材が増え、作れる菓子が増える度にハイダはその思いを新たにしている。


「王妃様。私、必ずお菓子作りの極意を掴んできます!」


 小さくなっていく魔王城を見つめながら、そしていつか絶対に自分の菓子を食べて笑顔になってもらうのだ、と人界に向かう馬車の中でハイダは新たな決意を胸に刻んだ。


「それはいいが人の話を聞け……」

「お疲れ様です……」


 人界へ向かうにあたっての注意事項を丸々聞き流されていた事に気付いたホルガーはぐったりとした様子で項垂れた。

 同乗者のカチヤは今までとこれからのホルガーの苦労を思って慰めた。

 御者は監督役にならなくてよかった、と心底思った。


「待っててくださいね、リオネッサ様ー!」


 ハイダはやはり通常運転だった。

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