第67話:にくきうもんだい
魔王は悩んでいた。
胃痛が悪化しそうになるくらいに悩んでいた。
他者から見れば「なんだそんなことか」と笑われる程度のささやかな悩みであったが、悩んでいた。
己の肉球についてだ。
肉球。
それは魅惑の柔らかさを持つもの。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに。
肉球。
それはいつでまでも押して触って撫でて堪能していたくなるもの。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに。
肉球。
それはリオネッサが愛してやまないもののひとつ。
魔王は己の手のひらをじっと見下ろす。そこには肉球が存在していた。
リオネッサが気にいっているものだ。よく触らせて欲しいと頼まれる。その時のリオネッサは夢中になって肉球を触っている。
その度に魔王は胸を締め付けられる思い出それをな眺めていた。
半分はときめきで、もう半分は罪悪感で、だ。
なぜ罪悪感を感じているのかといえば――
「魔王様? どうされました?」
「いや、なんでもない」
書類を書く手が止まっている魔王を気にしたアルバンに声をかけられ、再び万年筆を動かし始めた。
万年筆とは最近バルタザールが開発したものでペン軸に淹れたインクがなくなるまで書き続けられる。大量に書類がある時に非常に便利だ。
しかし人界でリオネッサと共に選んだガラス製のペンも使いたいので、書類仕事以外にそちらを使っている。主に日記を書く時などだ。
黙々と署名をしている己の指が目に入る。肉球はない。書き仕事の時は邪魔になるのでしまっているのだ。
……しまっているというか、実の所魔王にはもともと肉球がある訳ではなかった。
まだリオネッサが嫁いで来る前。
見合いを終えて、文通を続けていたころ。
久方ぶりに会えた時の出来事だ。
その日の魔王は浮かれていた。
久々に愛しいリオネッサに会えるだからそれも当然の事だろう。
手紙を通して交流を深めたという自信もあった。
会えるのを楽しみにしていますというリオネッサの言葉を後生大事に胸にしまい込み、魔王は待ち合わせ場所を訪れた。
魔界と人界を隔てる境界近くの魔界領にそれはあった。
リオネッサとの見合いが決まってから急遽作った人界の建築様式を真似て作った小さな家。
見合いからはや数か月。
執務の間を縫って花を植えたり、調度品を増やしたりと手を加え続け、少しは居心地が良くなったのではないだろうか。
本来なら見合いの日にそうあるべきだったのだが、と沈む意識を無理矢理浮上させる。これからリオネッサに会うのだから暗い顔をしている場合ではない。
リオネッサの住むラシェからこの場所まで約一週間。今回も護衛を頼んだアルバンの位置からするとじきにこの場所へ辿り着くだろう。
そわそわとリオネッサの到着を待つ魔王はあっちへおろおろ、こっちへおろおろと落ち着きなく門前を行き来していた。
そして待ち人が来た時の幸福感と言ったら!
見合いの時より数倍緊張がほぐれた様子のリオネッサと話すのは楽しく、二百年近くを生きてきた短い人生の中で一番幸福な時間であるとその当時の魔王ならば断言した事だろう。
二人の話題は多岐に渡った。手紙では伝えきれなかった事がいくつもあったのだ。
魔王は自分の育てた花や自慢の温室、最近読んだ書物の事を話し、リオネッサは作物を育てるコツや掃除の効率的な手順、最近作った料理について話した。
あの散々だった見合いと比べればなんという進歩であろうか。
傍に控えていたアルバンなどは涼しい顔で二人を見守っていたが、内心は滂沱の涙を流していたほどだあった。
「ヴィーカと猫派か犬派でケンカになっちゃったんですけど、けっきょく最後はどっちもかわいいってことで落ちつきました」
「そうか、それは良かった。どちらも見た事はないが君達姉妹の心をそれほどまでに奪うのだ、きっと可愛らしい生き物なのだろうな」
「はいっそれはもう!」
それでもきっとリオネッサのほうがかわいいのだろうな、とまだ見ぬ犬猫を想像して和んだ魔王は口角を緩めた。犬歯が露出しないよう慎重に。
「あの、魔王さま、ちょっとお聞きしていいでしょうか」
「うむ。なんなりと聞いてくれ」
「それではえんりょなく聞かせてもらいますね」
しばらくもじもじとしていたリオネッサが意をけっしたように口を開く。
「あ、あのっ、もしかして魔王さまにもにくきゅうはあるのでしょうか!」
両の手をぎゅうと握りしめて、頬を赤らめ、瞳を期待で輝かせたリオネッサにどうして否などと言えようか。
魔王には言えなかった。
「肉球はないのだ」
と事実を告げて、リオネッサを失望させる事などと魔王にはできなかった。
ようやく穏やかな空気の中で談笑できるようになったというのに、肉球が無い事を知った彼女の態度がもしも変わってしまったら……?
一度そんな考えが浮かんでしまうと、リオネッサに嘘など吐きたくなかったが、しかし魔王は真実を話す勇気を持てなかった。
そこでじっとりした汗をかきながらなんとか
「う、うむ。もちろんだ」
と答えた魔王にひと際表情を明るくしたリオネッサがずいと身を乗り出した。
「そっそれなら、もしよければでかまわないのですけど、あのっ、さ、触らせていただいても、よ、よよよ、よろしい、でしょうか……?」
魔王はあまりの衝撃に固まった。さながら不意を突かれ、巨竜の尾の一撃を背に受けた時のような衝撃だった。
前回は吐くほど己に恐怖していたというのに、今回は自ら触りたい、だと……?!
リオネッサの口から出た言葉の意味を理解した魔王は自分の手のひらを見る。肉球などどこにもないただの毛むくじゃらの手を。
一度拳を握ったあと、リオネッサが不安にならないようすぐさま己の手を差し出した。
その手のひらには肉球がある。変化術だ。
「わあっ、ありがとうございます!」
気恥ずかしくてリオネッサの語った桃色にはできなかったが、体毛と同じ肉球を作ったのだ。あまりふかふかではおかしかろうと、少し硬めにするのも忘れない。
そんな事をするぐらいなら正直に言ってしまえばいいものを、と理性が囁くが、努めて聞こえないふりをした。
良心の呵責よりもリオネッサの笑顔の方が大事だと己に言い聞かせて。
以来、魔王の手には肉球が存在している事になっている。
わざわざアルバン達にまで口裏を合わせてもらい、最愛の人が喜んでくれるからとはいえ、騙している事に変わりはないというのに。
それ故に魔王は悩んでいるのだった。
年が明け、もうすぐリオネッサの十七回目の誕生日だ。そしてそれは結婚記念日でもある。
もちろん昨年リオネッサがしてくれたように盛大に祝うつもりだ。
しかし、しかしである。
一年近く夫婦として暮らして来たというのに彼女の事を騙したままでいいのか?
魔王は決めた。
肉球が偽物である事を妻に告げる事を。
決意の為に握った拳の内で万年筆が悲鳴を上げた。
***
「変化の術で肉球を作っていたんですか。気を使わせちゃってすみません。
……あの、それはそれとして、もっと柔らかくして、桃色の、ぷにぷにのにくきゅうにできるってことですか?」
「………うむ」
真実を告げてもリオネッサが取り乱すことはなく、むしろ嬉しげでさえあった。
どうやら、魔王のいらぬ心配であったらしい。
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