第12話 春の大会が佐々良沙羅の場合 その2

 表彰式の後、撤収も手伝おうかとのあちゃんに言ったけど、流石にそこまでは申し訳ないと丁重に断られた。

「それじゃあアタシも帰るっすよー」

「美冬は残るんだよ?」

「は?」

 と、いうわけで私と肇ちゃんの二人で帰路に着くことになった。

「来た時は全員揃っていたのに、帰りは二人きりってのは寂しいな」

「そうだね。だけど……」

 私は将棋部を始めた時みたいに、二人だけの時間も好きだったからちょっと嬉しいかも、なんて言葉は声にならずに私の内側のどこかに消えていった。

 行きと同じようにバスで帰るのだけど、もう私と肇ちゃんしかいないから学校前で降りる必要はない。もっと、家の近くまで乗っていればいい。

「ここで降りちゃおうよ」

 適当なバス停の前に私は降車ボタンを押した。

「おい、沙羅!?」

 私の突然の行動に肇ちゃんは面食らった様子で、バスが停まると同時に駆けるように降りる私の後を慌てて着いてきた。

 私達を降ろしたバスの扉は閉じて、再び走り出す。

「おい、降りるのここじゃないだろ……」

「ちょっと歩こうよ?」

「はあ? まあいいけど、急に布留川みたいなことするんだな」

「みりんちゃん?」

 思ってもなかった名前が出て来たから少しだけ驚いた。

「あーいや、何か予想もつかないようなことをしてくるって意味で、あいつがバスをどうこうしたことはないな」

「そっか」

 みりんちゃんはお昼に何も言わずに帰ってしまっていた。後で私のスマホにメッセージは来てたけど、今日は色々とショックだったみたいだから、心配だ。

 いや、みりんちゃんのことは肇ちゃんに任せるって、そう決めたんだ。

 そのために、私がやらないといけないことが残ってる。

 夕焼けの道を並んで帰っていると、本当に何だか一年前に戻ったような気がしてくる。

 勿論、その時とは色々と変わっている。

 そうでなくちゃいけない。

「そういえば、改めて優勝おめでとう。沙羅」

「ふふ、ありがとう。これで実績の件もなんとかなったかな?」

「つっても御厨の髪の色が変わらない限りは問題は変わらない気がするけどな」

「銀髪、似合ってるのにね?」

「神楽坂から、似合わないからやめろってボクから言えって言われたことがある」

「へえ? 言ったの?」

「言うわけないだろ。どうせ言ったって聞かねぇし」

「うーん、そうかもね?」

「だろ」

 美冬ちゃんが素直になるにはもう少し時間が掛かりそう。もしかしたら肇ちゃんにはずっと素直にならないかもしれないけど。

「最後まで圧勝だったし、本当に強いよな」

「ううん? 最後は負けそうになってたよ?」

「そうなのか?」

「えっと……」

 私はスマホを取り出して将棋盤アプリを立ち上げる。それで先程の決勝の将棋を並べていく。手数自体は短かったのですぐに例の局面まで辿り着く。

「ほら、ここで」

 肇ちゃんが私の手元を覗き込む。

「ここをこうしてこうしてこうしてこうして……こう!」

 幻に終わった私の負け手順を再現してみせる。

「はあ……。いや、凄いけど、実戦で指すのは厳しそうだな」

 肇ちゃんは呆れたように呟く。

 確かに勝手読みと言えば勝手読みなのかもしれない。

 私が一人で右往左往してただけの。

 うん。

 肇ちゃんは間違いなく世界で一番私のことを分かってくれてると思う。

 だけど全部じゃない。

 いや、全部分かってくれてると私が勝手に思い込んでただけ。

 肇ちゃんは大体において正しいけど、間違ってるところだってある。

 だから、言わなくちゃ。

「対局中、この手順に気がついたのは私が指した直後だった。指した瞬間に、自分が負ける手順が見えた。悪手と指した時ってそういうものなのかもしれないけど」

「そうだな」

「血の気が引いて、だけど心臓は痛いくらい鳴ってて、心の中で何度もお願い! 指さないで指さないでーって祈ってたんだよ?」

 明確に負けがあったのは多分この一瞬だけなんだけど、それでもはっきりと負けを意識した。

「結局は違う手が指されて、何とか勝てて、優勝も出来て……私は嬉しかったし、凄くホッとしたの。昔の私はどんなに勝っても、凄い賞を取っても、何も感じなかった。ただずっと息が苦しいだけで。……だから周りの子達はみんな私から離れていったんだと思う」

 私とレベルの差を見せつけられたから、なんて言ってる大人はいたけど、多分違う。その時点のレベルの違いがそのまま未来を決めるわけじゃないなんて、子供でも分かる。

 私はその才能で彼らを少し先んじていただけ。

 しかし少し先を歩んでいた私が、ただ辛そうにしていたら、その姿を皆はどう思っただろう。

 自分達の目指す先にあるのは苦痛だけだなんて、誤解させはしなかっただろうか。

 もしも私がその習い事を前向きな姿で取り組んでいれば、周囲の反応も変わっていたんじゃないだろうか。

 もしかしたら心を折る絶望の象徴なんかじゃなくて、多くの先達のように憧れとか目標みたいな、そういう存在になれたのかもしれない。

 感情を知らなかった当時の私には無理なことだけど。 

 だけど今の私は一手一手に動揺し、感情をかき乱されている。

 幼い頃にはなかったことだと思う。

 だから。

「昔の私とは違う――と、思うんだ」

 そういう私の声は少し震えてて、肇ちゃんの顔も真っ直ぐに見ることが出来ない。

 本当にそうか? と自問自答している。

 だって一番認めて欲しい人に認められてない。

 この学校に来て、将棋部を作って、私は変わったと思ってたのに、今も肇ちゃんに心配を掛けたままだ。

「そうだな。沙羅は変わったよ」

 あっさりと肇ちゃんは頷く。その簡単さが私には不満だ。

「本当にそう思ってる?」

「そりゃまあ?」

「でも美冬ちゃんに私を見張らせてたでしょ」

 肇ちゃんは覿面に「しまった」という顔をした。

「御厨から聞いたのか」

「もう、美冬ちゃんって何だかんだ聞いちゃうんだから、変なことお願いしちゃダメだよ?」

 正確には、美冬ちゃんは肇ちゃんの言うことは基本的に聞かない。天邪鬼を貫こうとするから。だけど肇ちゃんが真剣にお願いしたら、多分聞いてしまう。あの子はそういう子だ。

 肇ちゃんは罰が悪そうに頭を掻く。

「そうだな。悪かったよ」

「肇ちゃんは一体――」

 私をどう思ってるの、と聞こうとして踏みとどまった。

 これは凄くまずい質問だ。

 肇ちゃんは私のヒーローだ。

 駅のホームから落ちた私を助けてくれた。

 悪魔のような両親から私を解放してくれた。

 知らない場所で一人きりに生活することになる私についてきてくれた。


 どうして?


 私はどこかで期待してた。

 肇ちゃんがこんなにも私を助けてくれるのは、私が肇ちゃんにとって特別だからなんじゃないかと。

 だけどもしも肇ちゃんが本当に私の期待する肇ちゃんなら、きっと私の変化にも気づけたはずだ。でもそうじゃなかった。肇ちゃんの注意はずっと私の危機管理に払われていて、まさにそれ以上でも以下でもなかった。

 刹那ちゃんが言っていた通り、阿僧祇肇は本当の意味でのヒーローなのだ。

 ヒーローは困っている人がいれば誰でも関係なく助ける。

 ヒーローは決して見返りを求めない。

 肇ちゃんは将棋道場に入り込んで来たのが私じゃなくても同じように助けただろうし、故にその行為によって生まれた私の感情を意識すらしていない。

 ――兄さんは、あなたのヒーローだからですよ。

 あの時の刹那ちゃんの言葉の意味を、私はようやく理解した。

「…………」

「沙羅?」

 そっか。なんか、逆にすっきりした気がする。

「肇ちゃんには言ってなかったけど、実はもう進路、決めたんだ」

 私はスマホでブックマークしてあるサイトを飛んで見せる。

「MIT……? 沙羅、お前……」

 画面を見た肇ちゃんが呟くように言う。

「はい。私はアメリカの大学に進学します。だから――」

 もう肇ちゃんは私に縛られなくていい。

 そうする必要もない。

「あと一年で、私達はお別れ?」

「いきなり過ぎてなんて言っていいのか分からない」

 そりゃいきなりだよね。私も決めたのは今だし。

 でも決断って、あれこれ考えるよりも勢いの方が大事な場合もあると思う。

「今までずっと肇ちゃんは私のヒーローでいてくれたけど、もうその必要もないんだと思う。だって――」

「将棋で熱くなれたもんな」

「うん」

 肇ちゃんは罰が悪そうに頭を掻く。

「今度の大会は結果を出すためにやるって話になって、何となく、昔の沙羅に戻ってしまうじゃないかって心配になったんだ」

 肇ちゃんは小さくため息を吐く。

「全部杞憂だったか」

「うん」

「もう大丈夫なんだな?」

「うん。きっともう昔の私には戻らない。皆のお陰だと思う」

 だから肇ちゃんはもう私に縛られる必要はないんだ。

「私のことはもういいから、肇ちゃんは肇ちゃんを必要としている人のところに、行ってあげて」

 『ヒーロー』じゃなくて『阿僧祇肇』を必要としている人のところへ。


☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖


 肇ちゃんと別れた後も、私はまっすぐ家には帰らなかった。

 何となくぶらぶら歩いていると、近所の公園に行き着いていた。

 滑り台、シーソー、ブランコ、ジャングルジム。遊具は一通り揃っている。

 思えば、私は公園の遊具で遊んだことが一度もなかった。

 私にとって息抜きと言える場所は肇ちゃんのいる将棋道場だけだったから。

「記念に一回くらい遊んでみようかな?」

 ブランコに乗ってみる。皆はどんな風に漕いでいただろうか。

「こう、やって……」

 ぎい、と鎖が軋む音がして、ブランコが振り子に動き出す。

 私はさらに勢いをつけて漕いでいく。

 もう日が暮れ始めていて、夕焼けの赤色は消えかかって空はほとんど夜に染まっている。

 どうして肇ちゃんは私に着いてきてくれた?

 どんどん漕いでいく。風を感じる。

 自殺未遂まで追い込まれていた私を一人にするのが心配だったから。

 導火線に火のついた爆弾みたいに。

 恨みたくなるくらい、肇ちゃんの意識はそれに囚われている。

 だけど、私はどこかで期待してたんだ。

 肇ちゃんがこんなにも私を助けてくれるのは、もしかしたら私のことが好きだから――なんじゃないかなって。

 更に強く漕ぐ。夜空が、星が見えた。

「私だって、私だって!」

 内から湧いてくる衝動を叫ぶ。

「肇ちゃんのことが好きだったのに!」


「ずっと前から!」


「みりんちゃんより! 美冬ちゃんより!」


「私の好きの方が大きい!」


 ジャンプ。

 ほんの数秒浮き上がっただけだけど、本当に空を飛んだような気がした。

 私は、肇ちゃんにはヒーローなんかじゃなくて、もっと身近でありきたりな存在になって欲しかったんだと思う。

 だから私は肇ちゃんから離れないといけない。肇ちゃんがいなくても何の問題もないことを証明しないといけない。そうでないと肇ちゃんはずっとヒーローのままだ。

 もっと早く気づいていれば、何かが変わっていたのかな?

「あれ……?」

 いつの間にか、目から涙がこぼれ落ちていた。

 遊具で遊んだ記憶もないけど、物心ついてから泣いた覚えも全くない。

 私は泣くことも出来ない子供だったんだな。

 抑えようとしても涙は止めどなく溢れてきて。

 私は自分が失恋したことを悟ったのだった。

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