第11話 春の大会が御厨美冬の場合 その5

「え……?」

 先輩の大きな瞳が丸くなる。先輩は驚いた時、そういう表情になる。

 佐々良沙羅を奨励会に誘う。

 布留川の将棋を見届けるためともう一つ、大会に出場出来ないアタシがわざわざついてきた理由がこれだ。

 新聞社主催で規模の大会なら、プロ棋士も会場に来ているだろうと思った。そこで頃合いを見て佐々良先輩を紹介したいというのがアタシの目的だ。素行の悪いアタシからの紹介になるのが不安だったが、都合の良いことに奨励会員の知り合いである神無月がいた。

 神無月は先輩とも元から知り合いであるし、彼女からの紹介ならば弟子入りの話もスムーズに進むだろう。

 話が始まってしまえば、スムーズに進むはずだという確信がアタシにはあった。

 何故なら、佐々良先輩は強いから。

 間違いなくこの大会に出場している誰よりも強い。

 奨励会一級であるアタシと神無月よりも強い。

 下手したら三段くらいの力はあるんじゃないかと思う。

 非現実的な棋力である。アタシが誰かから聞いてもまず信じない。

 ろくな活動もしていない場末の将棋部の部長がそれほどの棋力を有していることの異常さを、先輩はどれだけ理解しているだろうか。

 天才といってしまうと安直な感じになってしまうけど、でも実際他に言いようがない気がする。今年一年以外の人生のほとんどを将棋に費やしたアタシの何千、何万分の一程度しか将棋に触れていないのにも関わらす、佐々良先輩はアタシよりずっと深くて遠い場所にいる。

 フィクションじみた力。

 こんな才能が現実にあるのだったら、そんなのアタシの方が欲しかった。

 でもアタシにはなかった。

 残念だけど、本当に残念だけど、ないものはない。

 代わりにそれを持っている人が目の前にいる。

 誰かが道を示さないと、先輩はきっと将棋界と関わることはない。

「えっと、奨励会って、将棋のプロになるための養成機関……だよね?」

「はい」

「それをどうして私に?」

「先輩なら奨励会でも通用する……いや、プロにだってなれると思うからっす」

「でもプロとかって、そんな甘い世界じゃないんと思うんだけど?」

 その通り、甘くないのはどこの世界だってそうだろう。しかしそれは佐々良先輩みたいな人間が存在するから、アタシみたいな凡人にとって辛い世界になってしまうというだけの話なのだ。上に行く人間には上に行く人間なりの悩みや苦しみがあるのだろうけど、やっぱりアタシとは次元の違う世界だと感じてしまう。

 ――それはそれとして。

 そんな甘い世界じゃない。佐々良先輩は本心でそう言っているというよりは、どことなくシラを切ろうとしているようにアタシには感じられた。

「本当は分かってるんじゃないっすか? 先輩は今日ここにいる誰よりも強い」

 初めは、先輩は自分の才能と実力に無自覚なんじゃないかと思っていた。しかし先輩と関わるうちに、どうもそうじゃないんじゃないかという気がしてきた。

「手合いが違うって、感じたでしょう? 先輩の実力はこのレベルの大会で指す人間が持つべきものじゃないっす」

 多分佐々良先輩はとっくに分かってる。

 アタシに指摘されるまでも無く、何もかもに気がついてる。

「うん。だから?」

「だから……」

 先輩の黒くて大きな瞳がじっとアタシを見つめている。

 アタシの何かを試そうとしているかのように。

 だから? そんなの決まってる。

「その世界の頂点に立てるほどの可能性を持って生まれたのなら、その道を極めようとするのが当然なんじゃないっすか?」

 どんなに望んでも得られない人間がいるのだから、持つ者は先に進むべきなんじゃないか。

 アタシはずっとそう思って生きてきた気がする。

「うーん。なるほどね。真面目で、美冬ちゃんらしいかも?」

 そう言って、佐々良先輩は微笑んだ。

「それが美冬ちゃんの根幹なんだね」

「…………」

「だけど、ごめんね。私は奨励会には入らない」

 佐々良先輩の口調は穏やかで、だけど紡ぐ言葉は驚くほどはっきりしていた。

「即答っすか」

 考えてもくれないのか。

「先輩も、将棋好きなんじゃなかったんすか?」

「そうだね。確かに私は将棋が好き。私にとって将棋は、他のゲームにはない特別な思い入れがある。だけど、生涯を掛けて極めたいってわけじゃないんだ」

「…………」

 才持つ者の義務なんて、如何にも将棋村にどっぷり浸かって外のことを何も知らなかったアタシが考えそうなことだっていう自覚はあった。一年前ならともかく、今なら自覚くらいは持てるようになった。

 佐々良先輩がそんな感じで断るかもしれないことだって予め考えていた。

 だから、その時に何を言うかだって、アタシはちゃんと考えていた。

「……………………ずるい」

 それなのに、アタシの口をついて出たのはそんな一言だけだった。

「ずるいよ! 力があるのに、才能があるのに、アタシにないものを持ってるのに! だったらアタシに下さいよ! どうしてアタシじゃなくてあなたなんですか! アタシを蟻みたいに踏み潰す力があるのなら、踏みつけて先に行ってみせて下さいよ!」

 ずっと抑えつけていた感情が溢れてくる。

 自分の中で既に折り合いをつけたと誤魔化していた嫉妬がアタシを染め上げていく。

 折り合いなんてつけられるはずもなく、ただ目を逸らしていただけの感情。

 自分という存在から将棋を外した時、余りの空虚さにアタシは絶望した。

 将棋がアタシから何もかも奪っていったのだと、だからアタシは将棋が嫌いだと嘯いた。

 将棋から何も得られなかったのは、偏にアタシの至らなさでしかないってことは初めから分かっていたのに。

「美冬ちゃん」

 佐々良先輩ははっきりとアタシを見据える。

「もしも私が本当に将棋の天才で、奨励会に入会できて、プロだってなれて、いつかタイトルを取れるくらい強くなるんだとしても、私はそうしない。そうしたいとも思わない」

 ここまでばっさり断られてしまってはどうしようもない。

 佐々良先輩の生き方に文句を言う筋合いなんてアタシにはない。納得出来ようが出来まいが、ただあるがままに時が流れていくだけだ。

「分かりました。変なこと言って申し訳ないっす。忘れて貰えたら助かるっす」

 そう言って小さく頭を下げ、逃げるようにその場を去ろうとする。

「待って、美冬ちゃん」

「……何すか?」

 律儀に立ち止まらなくても逃げてしまえばいいのに、アタシは振り返る。

「今からちょっと変なことを聞くつもりなんだけど、答えてくれるかな」

 その質問が既に変じゃないかとアタシは苦笑した。

「いいっすよ。アタシも散々おかしなこと言ったっすし」

「どうして美冬ちゃんはみりんちゃんの恋を後押ししたのかな?」

 ――え。

 佐々良先輩の質問は全くの明後日の方向からで、アタシは一瞬思考が止まった。

「だって、それは、布留川は友達っすし……」

「大切な友達、だよね?」

「まあ……」

 歯切れが悪いのは、向こうがアタシをどう思っているのか確信が持てないから。

 アタシと仲良くしたって何も良いことなんてないのはアタシがよく分かっている。

「肇ちゃんで大丈夫なの? みりんちゃんは可愛くて良い子だし、もっと相応しい人がいるとは思わない?」

「佐々良先輩だって、さっきそう言ってたじゃないっすか。肇ちゃんは凄いって、一番そればっかり言ってるのは先輩っすよ」

「私はね。でも、美冬ちゃんはそうじゃないでしょ?」

「それは……だってあの人、デリカシーってものがないっすし。人の気持ちなんて本当に分かっているのかどうか……」

 矛盾してる。

 どうしてそんないい加減な人間を、大事な友人の交際相手に薦められるんだ。

 つまり、私もまた阿僧祇さんのことを……?

「違う……。そんなんじゃない……」

 まずい。この流れは良くない。

 壊れてしまう。

 髪を銀色にしてピアスを着けて、わざとらしく語尾に特徴を付けて、そうやって作ってきた御厨美冬という鎧が剥がされてしまう。

「将棋のことも、みりんちゃん達のことも、根は同じだよ」

「違う!」

「美冬ちゃんは自分じゃ駄目だって初めから決めつけて、諦める理由を探してる!」

 私の叫びに呼応するように佐々良先輩も声を張り上げる。

 視界が揺れる。頭がガンガンする。今、自分がまともに立てているのかもよく分からない。

「才能? 相応しい人? そんなの関係ない。何よりもその人のことが好きな人がアタックするべきなんだ」

 佐々良先輩の言いたいことが、ようやく飲み込めてきた。

「要するに……アタシが自分で指せって、言ってるんすね」

 佐々良先輩は微笑んだ。

「これでも良い先輩でいたいし、後輩のお願いごとはなるべく聞いて上げたいとは思ってるんだけどね。でも、美冬ちゃんが将棋を辞める理由になんか、私はなってあげない」

 だから奨励会に入らないし、プロも目指さない。

 アタシは初手から間違えていたらしい。

「でも、無理っすよアタシじゃ」

「まあ、美冬ちゃんって勝負弱いもんね」

「はあ!?」

 唐突に煽られて変な声が出た。それも事実なのが苦しいところだけど。

「美冬ちゃんは優しいから、仕方ないんだと思うよ? 相手と自分を比較して、自分は勝つべきじゃないなんて考えてる」

 それは恋愛のこと? 将棋のこと?

 多分どっちも。

 どうしてアタシが折れてしまったのか思い出した。

 理由に理由を重ねすぎて見えなくなってしまっていたけど、根本の大元はこれだった。

 アタシがどうしようもなく薄っぺらな人間だから、自分なんかより何かを背負った人間が勝つべきなんじゃないかと、どこかで思ってしまっている。

 布留川に譲るのならまだ良い。だけど、本来敵であるはずの対局相手にもそんな風に思っていては、負けるのも当然だ。

 例会をサボって、自分が空っぽな人間だと自覚したアタシはこのことに気がついてしまった。

 じゃあ、もう一生勝てないじゃないか、と思った。

「ていっ!」

「痛っ」

 急に頭を叩かれた。

「何するんすか」

「美冬ちゃんが空っぽなわけないでしょうが! 少なくとも、対局相手より軽いなんてことは絶対ない! 遠慮する必要なんてどこにもないの!」

 力強く佐々良先輩は言った。

「だけど……」

 頭では分かっている。負けてあげるつもりで盤の前に座っているわけじゃないのだ。

 煮え切らないアタシに、佐々良先輩はしばし視線を中空に向けて、何かを考えるような素振りは見せる。

「じゃあこういうのはどうかな?」

 佐々良先輩は悪戯を思いついた子供のような表情で言った。

「例会がある度に、将棋部のみんなで美冬ちゃんの対局結果を確認する。それで、もし勝ってたらお祝いのケーキを買ってみんなで食べるの。それってとっても素敵なことだと思わない?」

 何を言い出すのかと思ったら、本当に子供みたいな内容で、アタシは脱力した。

「美冬ちゃんは良くも悪くも欲がないから、勝負にはマイナスなんだと思う。だけど、誰かのためなら強くなれる娘だって私は知ってる。だから……ね?」

 つまり、ケーキはそれ自体に意味があるんじゃなくて、対局相手も背負ってるものはあるんだろうけどアタシだって応援してる人がいるってことを忘れないためのおまじないということか。何というか、非常に回りくどい。

 しかもやり口が何となく佐々良先輩っぽくない気がする。

「もしかして、ケーキが云々って言い出したの……」

「肇ちゃんだよ? ケーキっていうか、美冬ちゃんが勝った時にお祝いするようにしたらいいんじゃないかって言ってただけだけど」

「やっぱり……」

 阿僧祇さんの言動はどうしてこうもアタシをいちいち逆撫でするのだろう。アタシのことなんて全然見てないし興味もなさそうな癖に、急に何もかも見透かしてるみたいなこと言い出す。

 たった一年の差でこうも違うものなのだろうか。アタシも二年生になって後輩を持てば分かるのか?

 ごちゃごちゃした感情を飲み込んでアタシは微笑んで見せる。

「アタシがずっと勝ってたら、先輩太っちゃうっすね?」

「え。じゃあほどほどに?」

「ほどほどだと上に行けないっすよ」

 正直言って、佐々良先輩との問答でアタシが納得した部分は少ない。

 そもそも口で佐々良先輩に勝てるわけがないのだから、色々と言い合っていたら最終的にはアタシの方が負けるに決まっている。

 特にアタシが阿僧祇さんのことが好きなんじゃないかみたいな物言いは、言いがかりも甚だしいので断固として否定したい。

「これからどうするか、もう少し考えてみるっす」

 だけど、それはそれとして、少なくともアタシのために真剣になってくれているこの先輩を見て、それから多分応援してくれるであろう他の部員達のことも思い出して、アタシにだって得たものがあるのかもしれないと、そう思えたのだ。

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