閑話その3 昔話が阿僧祇肇と刹那の場合

たまに将棋道場にやって来て、淡々と自分をやっつけて去って行く少女のことを、変な奴だなぁと阿僧祇肇はずっと思っていた。

 沙羅の道場二回目で負けた時はそれなりにショックを受けたが、将棋は好きではあるもののそこまで根を詰めて強くなろうとしていたわけでも、自分が他人より将棋の才能があると思っていたわけでもなかったから、それなり程度のショックしか受けなかった。

 沙羅の習い事で一緒にいた子供達は大なり小なり将来を期待された者ばかりだったから、目ぼしい才能を持たない人間と関わるのは阿僧祇が初めてだったかもしれない。

 御厨美冬はそういうわけにはいかなかったが、それはずっと先の話。

 阿僧祇が将棋のことよりも気になったのは、沙羅が何かに追われて来ているように見えたこと。自分に勝った時に、何故か泣きそうな顔をしていたこと。

 その表情の理由が分からず、もう来ないのかと思った彼女が二週間後にまた道場に顔を出した時は単純に嬉しかった。

 それからの沙羅は、少なくとも道場にいる間は憂いげな表情を見せることはなく、楽しそうに将棋を指していた。

 初めて会った時に覚えた違和感は、いつしか忘れていった。


 阿僧祇と沙羅の関係性に変化が生じたのは、中学校に入学してからだ。阿僧祇と沙羅は同じ中学校で、そこで初めて阿僧祇は沙羅が『特別な』存在であることを知った。

 学内の沙羅は近づき難く、そもそも家の用事で学校を休むことがよくあった。

 誰も言わないし、そう定められているわけではない。

 しかし、明らかに線は引かれている。

 阿僧祇肇と佐々良沙羅は住む世界が違うのだ。


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「――っていうことで納得したんじゃなかったんですか?」

 妹、阿僧祇刹那が冷めた表情で兄を見上げる。手には兄が買ってきた漫画雑誌。少年誌でも関係なく彼女は嗜む。

「納得っていうか、それはそうなんだなぁくらいしか思わないけど、気になることがあってさ」

「またそれですか……」

 兄の気になること、で時々大変な目に遭っている刹那は嫌そうな顔をする。

「なんで将棋道場なんかに来てるのかなって」

「そんなの本人に聞けばいいじゃないですか」

「それもちょっとななぁ」

 一応それとなく尋ねたことはあるが、来たいから来てるみたいな回答だった。知りたいのはその理由なのだけど、あまり突っ込んだことを聞くのも大丈夫なのか心配になる。

「まあ確かに、何か事情があるのなら本人に問い詰めるのは良くないのかもしれないですね」

「それも含めてさ、ちょっと調べてみようぜ?」

「えー……」

 阿僧祇兄妹の調べ物は探偵ごっこに毛が生えた程度のものでしかなかったが、彼らが求める情報を得るのにさして苦労はしなかった。

 阿僧祇の思っているよりもずっと、佐々良沙羅は各界隈で名を馳せていた。そして想像以上に多くの人間に爪痕を残していた。多くは沙羅と同じ習い事をしていたという人達。沙羅との差を見せつけられてその業界を去った子供達。

「テニスを辞めた曽我部さん、バレエを辞めた土御門さん、ヴァイオリンを辞めた指宿さん。いっそ壮観ですね」

 刹那は呆れを通り越して感心していた。

「まあ、あの人からすれば有象無象であった彼女たちの名前を覚えているわけないですか」

「ボクは将棋は辞めなかったけど?」

「凡人で良かったですね」

「そりゃもう。だけどボクの知ってる沙羅とあの人達の言ってる沙羅は違う気がするんだよな」

「どこが? 淡々と相手を打ち負かされている点では兄さんも他の人達と変わらないと思うんですけど」

「上手く言えないんだけど、将棋を指してる沙羅はそれなりに楽しそうに見えたんだよな。ボクが沙羅に勝つことはもうないだろうけど、あの人達が言うみたいに沙羅と同じ事をやり続けるのが苦痛ってことはないんだ」

「はあ、その差異に何か意味があると良いですね」

 希望的観測をするための材料探しをしてると暗に指摘してくる妹に阿僧祇は苦笑いするしかなかった。

 決定的な事実。阿僧祇と刹那が沙羅の両親のことを知るのも、さして時間は掛からなかった。

「あいつも所詮中継地点に過ぎないのよ」

 と教えてくれたのはヴァイオリン代表指宿さん。沙羅に対して多くの人が複雑な感情を持っていたが、指宿は特に沙羅に対する嫌悪感が表に出ていた。

「優勢人種を生み出すための実験的な存在らしいから。本当の本命はあいつの子供。婚約者だっているって話よ」

 と、吐き捨てるように教えてくれた。

 やっかみだろうと簡単に切り捨ててしまえなかった彼女の言葉は、調べれば調べるほど事実であった。

 沙羅は遺伝的に優秀な子供を産むために存在していること。様々な習い事をしているのは持っている才能を確認するためだということ。

「どう思う?」

「おぞましいです」

「はっきり言うなぁ」

 そう窘めつつも、阿僧祇の感想も刹那と似たようなものだった。

「刹那が佐々良さんの立場だったら耐えられません」

 沙羅に対してどちらかというと冷淡だった刹那だったが、沙羅の両親のことを知ると流石に同情的になった。

「何とか助けられないかな」

「助ける、ですか。沙羅さんが兄さんにそうお願いしたんですか?」

「それはしてないけど」

「兄さんならまた何か悪知恵を働かせることは出来るでしょうけど、それでも助けられる気のない人を助けることは無理だと思いますよ」

「だけど沙羅は生まれてからずっとそういう生き方を強制されて来たんだろう。今の自分が誰かのヘルプを必要としているのかどうかも分からないんじゃないか?」

「だから兄さんが何とかしてみると」

「まあ、ボクに出来ることがあればの話だけど」

「…………」

 刹那はため息を吐く。

「兄さんはどうして佐々良沙羅に拘るんですか?」

「拘るっていうか、目の前に大変な状況の人間がいたら、何とか助けたいって思うのが普通じゃないか?」

「普通……普通ですか」

 刹那が噛み砕くように普通という言葉を繰り返す。

「そんな普通を通せる人間はほとんどいないんですけど。……じゃあ、本当にそれだけなんですか?」

「他に理由なんかいるのか?」

 苦しんでる女の子を助けるのに理由なんかいらない。阿僧祇にとっては自明のことだった。正義感ぶるつもりは毛頭ないけど、困難に直面した時にあっさりと曲げたくはなかった。

「凄いですね。まるでヒーローみたいです」

「馬鹿にしてるだろ」

「馬鹿になんてしません。だけど刹那は、ヒーローってあまり好きじゃないんです」

 そう言った刹那は少し寂しげな目をしていた。


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 結末は偶然だった。たまたま駅のホームで沙羅を見かけた時、彼女がどことなくふらつきながら歩いているように阿僧祇は感じた。声を掛けるべきか迷っている間にホームに電車が到着して、その寸前に沙羅は線路に落ちた。

 突然の出来事にも関わらず、阿僧祇が咄嗟の判断で動けたのは心のどこかで準備をしていたからなのだろう。

 ギリギリのところで電車をやり過ごし、生まれて初めて生死の境を通り過ぎた阿僧祇は、ふとこの状況こそが事前に考えていたある悪知恵と合致していること気がつく。

 行き当たりばったりもいいところだけど、今こそが最初で最後のチャンスなのかもしれない。

 阿僧祇は沙羅に告げた。


「もしも沙羅が今の世界から逃げ出したいと願ってるのなら……。ボクの言うとおりにしてみてくれ」


 突然の自殺未遂により、神童佐々良沙羅は地に堕ちた。

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