閑話その2 佐々良沙羅の昔話

旅立つ前の駅のホームで、私は刹那ちゃんと少しだけ話をした。

 刹那ちゃんは肇ちゃんの妹で、多分肇ちゃんの次に私を知っている人。

「どうして肇ちゃんは私にここまでしてくれるのかな」

 私の独り言のような問いかけに、刹那ちゃんは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「そんなの決まってるじゃないですか」

 思うに、三人の中で一番年少だった刹那ちゃんこそが、最も精神的に成熟していたのかもしれない。彼女は少しだけ客観的に、私と肇ちゃんを見ていた。

「兄さんは、あなたのヒーローだからですよ」

 その答を聞いた私は何となく胸が暖かくなったような気がしたけれど、この時の刹那ちゃんは私に釘を刺していたのだと気がついたのはずっと後になってだった。


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 男子100メートル走の世界記録が9秒58、女子100メートル走の世界記録が10秒49。故に男性の方が女性よりも優れている、なんて考える親から生まれた子供は不幸だよね。

 まあ私のことなのだけど。唯一の幸運はかなり早い段階で、物心がつき始めたあたりで自分の親はおかしいのに気づけたこと。

 ただ気がつけただけで、逃れる術を当時の私は持っていなかったけど。

 両親は『天才』を作成することに執心してた。

 いや、『天才』って言い方は不正確なんだっけ。

 正確には『天才』ではなくて、『優生人種』の作成って言ってたかな。

 幼い頃から様々な習い事をやらされた。ピアノ、ヴァイオリン、バレエ、テニス、水泳、フィギュアスケート、華道、日本舞踊……とにかく思いついたものを手当たり次第に。

 そのいずれにおいても、私は傑出した成績を収めた。

 両親の遺伝子と教育の賜だ。

 嬉しくも楽しくもなかったけど。

 言われるままにこなしただけに過ぎなくて、ただ完璧にと言われたから完璧にやっただけ。

 そう出来てしまったのが私にとって良かったのか悪かったのかは微妙なところ。最低限自活出来るようになる前に両親に私が無能だと判断されるのはまずかったかもしれないから。

 もしそうなったら、私はどうなったのだろうというのは今でも時々考える。別アプローチでやはりトライ&エラーを繰り返させられただろうか?

 それとも……?

 ともかくそうはならなかったのが現実で、大人達はそんな私を賞賛した。だけど一緒に習い事をしていた子供達は私から離れていった。

 初めは仲良く話してくれていたあの子も、あの子も、私との差が開いていくにつれて次第に悲しい目をするようになっていった。

 それは私との才能の差を見せつけられたから心が折れてしまったというわけではなくて、きっと……。


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 みりんちゃんが肇ちゃんに告白したと聞いた時は驚いたけど、意外じゃなかった。みりんちゃんが肇ちゃんのことが好きだってことは、そういうのに疎い私でも分かってたから。

 私以外に肇ちゃんの良いところに気がつく人が出て来たんだなぁという喜び半分、私だけじゃなくなってしまったことに寂しさ半分って感じ。

 でも美冬ちゃんも肇ちゃんのことが気になってるみたいなのは驚いたかな。美冬ちゃんはどちらかというと肇ちゃんには素っ気ないように見えてたから。

 会場設営を始めてからは、将棋部のみんなはバラバラに作業していた。

 私は肇ちゃんと一緒。いつもなら必ずみりんちゃんが着いてくるのに、気まずいのは本当みたい。肇ちゃんとみりんちゃんが一言も口を利かないのは初めてじゃないかな?

 険悪な感じではないから気にしなければ気にならない程度のことなんだけど、やっぱり違和感はある。

 肇ちゃんは人の真剣な気持ちを無碍にはしないって美冬ちゃんには断言したけれど、それはそれとして気になるのも人情というもので。

「この大会が終わったらボクらも三年生だよな」

 ずっと考え事をしていたから、急に肇ちゃんに話しかけられて少し驚いた。

「ああ、うん。そうだね。最終学年だね」

「ずっと前に行けるところに行ければいいって話したけどさ、いざなってみると指すに足る手は数手くらいしかないよなぁ」

 将棋で例えるところが肇ちゃんらしい。

「指すだけならどこでも指せるけど、ね」

 選択肢だけなら何千通りとあるけれど、まともな候補手は良くて一桁くらい。

「これといって特技や才能があるわけでもなし、しゃーねーけどな」

「肇ちゃんの才能ならあるよ?」

「お、何?」

「誰とでも仲良くなれるところ」

 結構自信を持って言ったつもりだったけど、肇ちゃんの反応は鈍かった。

「そうかぁ? ボクってそんなに友達多くないぞ」

「ほら、最初険悪だったのあちゃんといつの間にか仲良くなったりしてたし」

「あれは神楽坂の奴が一方的に敵視してきただけだから……」

 肇ちゃんがそう言うと、どこからか「神無月!」という声が聞こえて来た。

「……まあ、誤解が解ければ何の問題もないわけだ」

「誤解って何だっけ?」

 そのあたり私は同席してなかったからあまり詳しく知らなかった。

「ボクが御厨を誑かしたとか何とか、酷い言い掛かりだよな?」

「ふーん?」

「いや微妙な反応すんなよ。怖い目が光ってんだから。まあ、面接で特技は誰とでも仲良くなれるところですとは言いづらいし、その評価は保留しとくよ」

「うーん、残念」

 だけど一年間将棋部でやって来たのに、今日になって初めて知ることが多いのが不思議な感じがする。

 止まってた時間が動き出したのを感じる。

 今日も明日も明後日も、ずっと変わらない停滞した空間。

 私自身が意図してそういう将棋部にしていたのに、いつの間にか変わっていた。

 一度動き出したら、もう止まらないだろう。

 きっかけはやっぱり、みりんちゃんなのかな?


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 肇ちゃんとの出会いは、将棋との出会いでもある。

 私にとって将棋が特別なのは、やっぱり肇ちゃんと出会うきっかけになったからで、それは何となく将棋に対して不誠実なような気がして、将棋部部長としてはちょっと他言しづらい。

 数ある習い事の中でもバレエ教室が特に私にとってつまらなくて、特に集中的にやらされていた。

 バレエは何も悪くないんだけどね。

 その日は、何かの理由で母が私を迎えに来るのが遅れるという連絡があって、バレエ教室で待っているのも退屈だったから、私はビル内の探検をした。

 その時からもう私のスケジュールは分刻みで詰まってたから、せっかくの空いた時間を親に対して反抗にならない程度に勝手なことをしてみたかったのかも。

 それで、前から気になっていた場所に行ってみた。

 バレエ教室の真下にあった将棋道場。

 そしてそこにいる少年。

 いたのはほとんど年配の男性ばかりだったから、幼い彼が目立っているのが気になった。

 もちろん肇ちゃんのこと。

 私と同い年だからね。

 こっそり忍び込んだ私は、スルスルと肇ちゃんのところまで寄っていって話しかけたんだ。

「何やってるの?」

「うわ! びっくりした! 何だお前!?」

「ねえ、何やってるの。これ」

「いや、将棋だけど」

「将棋?」

 当時の私はどちらかというと身体を使う習い事が中心で、将棋や碁といったものはスケジュールに組み込まれていなかった。

「知らないで道場来たのか?」

「何してるのかなって思って。これを升目に置いて、どうするの?」

「駒な。色々種類があって、動き方が違うんだ」

 肇ちゃんは私にルールと駒の動かし方を教えてくれた。

「一回じゃ覚えられないよな。確か動かし方が書いてある駒があったはず……」

「覚えたから大丈夫」

「マジで? 凄いな。じゃあ一回指してみるか」

「うん」

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします?」

 これが私の最初の対局で、私は負けた。 

 駒の動きと敵の王将を取るというルールは理解していたけど、詰ませるという概念を分かってなかった。

 凄くドキドキしたのを覚えている。

 その高揚感が私が初めて同年代の子供に負けたからなのか、初めて親の意思に背いて将棋道場に行ったからなのか、初めて将棋を指したからなのか、今となってはよく分からない。

「ボクは阿僧祇肇。お前は?」

「……佐々良沙羅」

「さらさ……え、何?」

 次に道場に忍び込んだのは二週間後。

 前と同じように道場には肇ちゃんがいて、私達は将棋を指した。

 何か将棋の勉強をしたわけではなかったけど、その日まで頭の中で将棋についてシミュレーションしていたから、初日の私とは全く違っていた。

 今度は私が勝った。

「…………」

 初日に覚えた高揚感はもうなかった。何回やっても、私はもう二度と平手で肇ちゃんには負けなかった。

 この状況にも私は既視感があった。というより、当時既に何度も経験したことだった。

 新しい何かを初めて、友達が出来て、失うまでのサイクル。

 次に道場に行ったのはまた二週間後。

 どうして私はもう一度道場に行ったんだろう。

 多分、結構勇気を出したんじゃないかな。

 恐る恐る道場を覗いたら、いつもの場所に肇ちゃんはいた。

「おう、また来たな。じゃあ指そうぜ」

 阿僧祇肇は、私にとって特別な人になった。


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 中学校から肇ちゃんと同じだったけど、学校ではそこまで話さなかったな。肇ちゃんと会うのはいつも将棋道場。小学校くらいからバスで一人でバレエ教室に通うようになったから、時間も少しは融通が利いた。

 と、いっても毎週ほんの少しずつの時間だったけど。

 私は特別な子供だった。

 それは何でも完璧にこなせるが故に、誰もが私の輝かしい将来を期待して玉のように扱ったという、余り捻りのない意味であっている。

 本当はそうではないことを知っているのは両親だけ。

 私すらも、私の存在の意味するところをちゃんと理解していなかった。

 中学三年生になって、私は自分に婚約者がいることを知った。

 その人も私と同じように、何をやっても完璧に習得することが出来る、創られた天才だったらしい。

 結局その人と直接会うことはなかったけれど。その人が自分をどう思っているのかだけは気になったかな。

 要するに、私は遺伝子の中継地点でしかないのだ。

 本当に私を『天才』にしたいのであれば、あれこれとやらせてそのどれもを中途半端に終わらせず、バレエならバレエだけを極めさせればいい。そこそこの実力のものがどれだけあったって頂点に立つことはないのだから。

 私に様々な習い事をやらせたのは、私という遺伝子がどのような才能を持っているか確認するためで、本命は私の次の世代。

 優生な遺伝子と優勢な遺伝子を掛け合わせた私の子供。

 本当の『天才』はその子になる予定だったんだ。

 吐き気がした。

 だけど逃げ出す方法なんて何も思いつかなくて、生きている限り私はあの人達の道具なんだろうなって考えてた。

 これが『事件』が起きる少し前の私。

 事件って言い方は本当は大袈裟なんだけどね。

 その日、私は駅のプラットフォームで電車が来るのを待っていた。

 カンカンカンカン、と警報がなる。

 間もなく電車が参ります。ご注意下さいと放送が聞こえる。

 その時、不意に目眩がした。

 分刻みのスケジュールは物心ついてからずっとではあったけど、流石に体力的にきつくなっていた部分もあったと思う。

 くらりと、頭に血が足りなくなって、周囲がくるりと回転して、私は線路の上に落ちた。

 電車が迫って来るのが見えて、あーこれまずいかも、なんて思った時に、私はプラットフォームの下に引っ張り込まれた。

 瞬く間のうちに色々なことが起こったけど、つまり私は電車が来る寸前の線路に落ちて、それから誰かに助けられたということ。

「何やってんだよ……」

 肇ちゃんが泣きそうな顔をしていたのを覚えてる。

 眼前を電車が通っていき、やがて止まる。

「ごめんなさい。肇ちゃん」

「まさか、わざとじゃないよな?」

 飛び込み自殺、という単語が脳裏を過った。そんな大それたことはまるで考えてなかった。

 私は首を何度も横に振った。

「そっか。ちょっと安心したけど……」

 上の方から大人達の声が聞こえてた。学生が二人、線路に落ちたと口々に叫んでいる。

 肇ちゃんはじっと電車の車輪を見てた。じっと見てるような気がしたけど、ほんの数秒のこと。

「沙羅のこと、実はずっと前から刹那と調べてたんだ」

「え……?」

「余所の家庭のことだし、ボクに出来ることは何もない。だけど――」


 もしも沙羅が今の世界から逃げ出したいと願ってるのなら。


「ボクの言うとおりにしてみてくれ」

 と、肇ちゃんはそう言って、私に二言三言耳元で囁いた。

 引き上げられた後、駅員に事情を聞かれた。

 警察もやって来て、もちろん事情を聴取された。

 本当のこと、疲れてて急に目眩がした――とは言わなかった。

 代わりに肇ちゃんに言われた通りの答をした。

 佐々良沙羅は電車に飛び込んで自殺を謀った、と。

 結果として、神童の親だったはずの私の両親の教育方針に、世間的に疑問符がついた。特別な子供だった私は腫れ物のようになり、しかしそんなことは余り重要なことじゃなかった。

 両親が欲していたのは次世代へ繋ぐための優秀な遺伝子。

 私の自殺未遂は、佐々良沙羅の遺伝子に含まれた何らかの因子によるものではないかと、あの人達は考える。

 私の遺伝子の優秀性に大きな欠陥が見つかったおかげで、婚約の話は流れた。

 遺伝子の運び手としての佐々良沙羅は役割を失った。

 高校は県外の公立に行って、独り暮らしをしたいと言った時も、驚くほどあっさりと許可を得られた。児相なんかと絡めて全面戦争する覚悟だったから拍子抜けしたけど、向こうももう私に用はないんだろう。

 初めての自由。ちょっと怖いと思うところもあったけど、それ以上に楽しみでもあった。

 肇ちゃんが同じ高校に来てくれたから。

 だから、今までもこれからも、何があってもこれから私が誰と出会ったとしても、肇ちゃんは私のヒーローなのだ。

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