第5話 飛車の振り直しは手損ではなくモラトリアム
冬も峠は過ぎ去ったのだろうか。ずいぶんと過ごしやすい季節となってきた。冷気に替わりに辺り一帯を漂うのは、卒業式を間近に控えどこか浮ついた学園の雰囲気。世話になった顧問や下級生に対して最後の挨拶をするためだろう。授業もないのに私服姿で文化部棟を訪れる3年生にも良くすれ違うようになった。
けれども将棋部室を訪れる3年生は一人も居ない。理由は簡単で将棋部に所属する3年は居なかったからである。すなわち昨年春の時点での部員はボクと沙羅の二人だった訳で、それゆえなりふり構わず部員集めに奔走した結果、無駄にアクの強いメンバーを引き寄せてしまったという悲しい経緯がある。
まあ
なんて。開幕にありがちな脳内モノローグを展開させながら、それなりに楽しくやっている部の様子を伺う。扉に付いているガラス窓からボクの視界に飛び込んで来たのは、一人の少女だった。
この珍しい光景を眺めておこうと室内には足を入れずに扉の前でしばし佇む。しばらくすると彼女は盤上の駒を持ちあげ、横にスライドさせる。そして盤を半回転。そしてまた駒を持ち上げ横に移動。半回転。
なるほど棋譜並べかと思うが寸刻、ボクは窓の向こうの情景の不自然さに気付く。ここ数手、布留川の手の動きが横移動しかしていないように思える。つまりは駒が前に進んでない。
横にスライドさせ、半回転。横にスライドさせ、半回転。
一定ペースで繰り返される将棋に似た将棋ではないなにかがそこにはあった。
というかあの毎回横スライドさせてる駒ってもしかして飛――
「・・・・。覗きは感心しないっすよ」
触れてはいけない真実の闇に近づこうとしたボクの背後から底冷えした声が飛ぶ。声の主は
銀髪、ピアス、三白眼。柄の悪さ三要素を煮詰めたような恰好だが、これでいて棋力は部内でも突出しているから手に負えない。なんせ現役奨励会員なのだ。それがどうして我が弱小部を構成するアクとなってしまったのか。アクというか格好はまんま悪だが。
とはいえ「昨年春から一度も例会には顔を見せていないし、今後も行くつもりはないっすよ」というのが彼女の談。1年以上も休場しておきながらまだ籍は残している理由とか、将棋が嫌いであると公言したりとか、にも関わらず将棋部に所属している理由とか。叩けば幾らでも矛盾と言う名の埃まみれになりそうな話題で構成される彼女は、その矛盾を好奇心で叩きに来る連中を全て銀髪とピアスで撃退している。
怖いもんね。銀髪とピアス。芸能人でもない一般高校生がやる格好じゃないと思うな。だから彼女の傍には人が居ない・・・って訳でもないらしく、不思議と布留川とは仲が良い。髪が明るい奴と性格が明るい奴には何らかの親和性があるのだろうか。
ちなみに背はボクより低い。これ大事。
「いや?ね?違うんだよ」
いったい何が違うと言うのか。ボクの口からとっさに出たのは、現行犯が苦し紛れに繰り出す典型的な台詞だった。
「変態」
対してぶつけられたのは、シンプルかつ攻撃性の高い台詞である。超怖え。
年頃の女の子にこのワードを言われたら喜ぶ人間も一定数居ると聞くが、それに自分は含まれていないことを今しがた知ることになる。知りたくもなかったけれど。というか「す」は何処へ?
「素になると語尾から「す」が消滅するキャラでやっていくって話を前にしたじゃないっすか」
「そうだったか!?」
「つーか。なんでうちの部室を隠れて覗く意味があるんすか。着替えが見れる訳でもあるまいし・・・す」
雑に語尾追加することで、雑に素じゃないことを表明した彼女は、ボクを押しのけるようにして小窓を覗く。そして寸刻。
「ヤベえっすね。誰っすか、あんな危ない遊びを教えた奴」
闇に触れて、気が振れた人間が二人に増加。発生の中心にはただエンドレスで飛車を振ってる少女が一人。
☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖
「でも阿僧祇さん。誰にだってああいう時期ってありません?」
「ああいう時期ってのは?」
「ただ駒を触ってるだけで楽しいって時期っすよ。五角形の木片を手に持って、盤面に打ち付ける。ただそれだけで多幸感に支配される初心者特有の時期っす」
「・・・まあ確かに。それはあるかもなあ」
将棋は楽しい。それはボクが将棋に出会ってからこれまで一度として疑うことのない事実だけれど。振り返ると『何が』楽しいのかは、その時々で異なっていたと思う。
駒の動きもおぼろげな幼い頃のボクが、それでも将棋が楽しいと思えた理由は、実家にある五寸盤に意味もなく駒を打ち付けた時の乾いた木の音が心地よかったからで。
「楽しいよなあ。将棋を指すのって」
「・・・そうっすね」
少しだけ憂いをある表情を見せた後、御厨はボクの意見に同意する。意外である。
いや意外じゃないか。将棋は嫌いだし、ボクとも将棋を指してくれないが、それでも将棋を指すことの楽しさは知っている。そんな支離滅裂な人間が一人くらい居ても良いだろう。どうせ彼女にその矛盾を突き付けられる存在なんて居ないのだから。銀髪とピアスが彼女を守ってくれるはずだ。
分かりやすい矛盾の先にある複雑な何かをあばく義務なんて、ボクにも振り飛車ジャンキーにも、銀髪の少女自身にもないはずだから。
「ま、そういう訳だし、あまりグチャグチャ言うのもアレっす。自然に。ごくごく自然に入室するっすよ」
そう言って扉に手を掛ける彼女の右耳にはピアス。周囲を遠ざけるためのアクセサリーとして用いられたそれは、けれども彼女に良く似合っていた。
☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖
「すっすっすー!虚無を生成し続ける斬新な遊びに興じてるっぽいけど、頭は大丈夫?」
元気良く開けた扉の先に見えるのは頬を膨らませた少女。そして後ろで慌てたように声を張り上げる
「自然に入室するって話は何処へ!?」
「虚無じゃないもん!飛車を振るという行為、それ自体が崇高かつ有意義だもん!」
「いや飛車の往復運動に手待ち以上の意味はないっすよ。というか振った飛車をまた2筋に戻すのって振り飛車党としてどうなんすか?」
「ちゃんと5筋と7筋の往復だもんね!2筋には居たくないって声が飛車から聞こえる私にそんな非人道的な行為は出来ないよ」
「それ確実に幻聴だから精神科医とかに行こうぜ?なんならボクも一緒に付きそうからさ」
「一緒に!?じゃあ今日の帰りにご飯でも食べませんかっ!?」
「付きそうの部分だけ器用に拾うとは随分と都合の良い耳っすね・・・」
喧噪が渦巻く部室の中。ふと。静かに右耳を触る。手には想像通り異物の感触。この穴を開けて、おおよそ一年経過しただろうか。自らの手で開けたにも関わらず違和感で満たされていた春先を思い返せば、今、この感触が想像通りとなっているのはちょっとした成長なのかもしれない。
けれども。あの時から変化したことなんて他にはなにもなくて。
黒くなる度に染め直す髪。横移動を続ける飛車と同じく、進まない自分。
けれどもこうやって騒がしい日々があれば、それでも良いんじゃないかと思う3月。
新学期も近い。
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