第4話 振り飛車党が許さないのは居飛車の脱税とサボる部員

水を飲む。それは一種の将棋用語である。

投了の意を示す前に喉を潤し、発声をスムーズにするための所作。プロ対局ともなると深夜近くまでひと声も発さずにゲームが進行する将棋は、にもかかわらず、最終的には負けた側が声を発することで終局するという摩訶不思議な決まりが存在する。故に敗者は水を飲む。喉を潤し、頭を冷やし、眼前の局面がどうしようもなく負けであると再認識するために。


であれば。深夜に洗面所へとやって来てコップに水を満たしたアタシは、一体何に対して『負けました』と言いたかったのだろうか。

「・・・別に将棋を指してる訳じゃないっすか」

小さく呟く。こんな夜中に家族が起きているはずがないのだから、この言葉はアタシ自身へ向けたものだ。アタシはいま将棋を指しているわけじゃない。だから水を飲む行為に躊躇する理由は全くない。

下らない自己問答の後に喉を潤す。冬の水道水は冷たく美味しい。冷却された液体が身体の芯まで伝わる感覚が無為な思索で満たされていた頭を冷やす。眼前に見えるのは洗面所の鏡とそこに映る一人の女。


脱色し、銀に染めた髪。右耳にだけ開けたピアス穴。生まれつきの鋭い目つきも相まって、どう取り繕うとも不良にしか見えない。高校入学を機に分かり易くグレた女がそこには居た。


形作り。これもまた将棋用語であり、敗者が行う行為の一つだ。既に敗勢の局面において闇雲に手数を稼ぐだけの手を指さず、良い勝負であったと観戦者に示すため、自身にうそぶくため、1手違いの局面に持って行くように注力する。

これまで何度となく盤上でやってきたその行為を、どうしてあの時、現実世界では上手く出来なかったのだろうかと、また黒髪に戻りつつある数本の毛先を指で弄りながら思う。その問いかけはこれまで幾度となくやっていて、その度に出てくる答えは一つ。


結局。御厨みくりや美冬みふゆはどうしようもなく将棋指しには向いてなかったということである。




☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖

「最近、先輩が冷たいんだけど、どうしてだと思うっ!?」

「それ、脈が止まってるんじゃないっすか?」

「態度の話だよっ!?体温の話じゃないってば!」


昼休み。休みの文字列が入っているはずなのに、全く口の動きを止めることのないエネルギッシュな少女がアタシの机をぺしぺしと叩く。

「でも実際に確かめたことはないっすよね?ならもしかしたら既に阿僧祇あそうぎさんは脈なしかもしれないっすよ。お、上手いこと言えたっすね?」

「上手いかもしれないけど、全く褒める気にならないからっ!というか脈はある・・・はず!」

「根拠は?」

「部室に行ったら将棋指してくれるし・・・」

「それ佐々良ささら先輩や白樺しらかば相手でも同じっすね」

「ぐぬぬぬ。で、でもっ!美冬ちゃんは私と指してくれないじゃん!」

「そりゃ、アタシと布留川が対局しても何も得る物がないっすから。アタシにも布留川にも。前に説明した通りっす」

将棋部員でありながら、同じ将棋部員との対局を拒む。そんな謎の存在が御厨みくりや美冬みふゆという人間であった。


昨年。一度だけだが布留川と盤を挟んだことがある。


――将棋っすか。駒の動きくらいしか分かんないっすけど。


そんな将棋指しの常套句を真に受けて勝負を挑んで来た初心者を平手でボコボコにしたのが去年の春。それでも楽しそうに既に詰んでいる局面の指し手を考える少女を目の前に、自分がどうしようもなく嫌な奴であることを、そんな奴は二度と彼女と対局してはならないと分かったのも春。


「私は飛車振るだけで多幸感に包まれるから一方的とかそんなこと気にしなくて良いのに・・・」

「なら先後両方を持って互いに飛車を5筋、2筋と往復運動をし続けるのがオススメっすね」

「それは絵面がヤバいっ!ちょっと楽しそうだけどっ!」

「いや楽しい要素一切ないでしょ。何言ってんの。大丈夫?」

「急に真顔で普通に突っ込むの止めて下さいっ!あと語尾!『っす』はどこへ!?」

「素になったら語尾から『す』が抜けるっていうキャラ付けっすから」

「初耳なんだけど!?」


しかし不思議な奴だと会話を続けながら思う。将棋部に所属しておきながら将棋を指す気が一切ない矛盾の塊のような人間相手にどうしてこうも言葉を交わせるのだろうか。自分より将棋が強いのに将棋を蔑ろにする人間なんて、アタシなら顔すら見たくない存在なのに。

そうでなくとも今のアタシの容姿は受けが良いとは思えない。校則完全無視の髪色にピアス。目つきの悪さは生まれつきかもしれないが、それを取り繕おうともせずに相手へと向けるその姿勢。むしろ外見の強烈さの方が将棋が云々よりも遠ざける要素としては大きいかもしれない。事実、彼女以外で話し掛けてくるクラスメイトなんて一人も居ない。


けれどもそんな容姿も性格も地面すれすれ低空飛行なアタシ相手に気にせず会話を続けている彼女。その理由が同じ部活動に所属していて気心が知れているから、なんてものではないことも知っている。何故なら初めて彼女がアタシに話し掛けたのはまだアタシが将棋部に所属する前で、彼女が口にしたのは将棋部への勧誘文句だったから。


「で!今日こそ暇?」

ぱん、と。過去へと思考を飛ばそうとしたアタシを顔面で鳴らされた柏手が引き戻す。・・・なるほど本題はこれか。アタシ相手に恋愛相談なんかされても困ると思っていたから、別の意図があると分かり少しだけ安堵する。

「今日も暇っすよ?特にやることもないっすね」

「ならっ!」

「けど別に暇だからって部室に行く理由もなくないっすか?」

言葉尻を奪い先手を打つ。今日も昨日も一昨日も暇だった。けれども将棋部へと顔を出さなかったのは、そもそも今のアタシは将棋によって暇を潰せるとは思っていないからで。

「なんでっ!?美冬ちゃんも貴重な将棋部の人材なのにっ!」

「アタシを貴重な人材として勘定に入れていること自体、将棋部の深刻な人材不足を物語ってる気がするっす」

「先輩と似たようなことを!?でもそうなんだよぅ。美冬ちゃんは将棋部において私よりもはるかに貴重な人材なんだってば。棋力的にも・・・あと棋力的にもっ!」

「棋力以外に貴重な要素がないっぽいっすね?なら行かなくても良いっすか?」

「何故!?将棋部なんだから将棋が強いのが一番大事でしょ!」

「・・・んなことないっす。将棋が強い奴は、将棋が強いだけ。それだけっす」

「むぅ。けど、たとえそうだとしても私は羨ましいけどなぁ。美冬ちゃんと指す時の佐々良先輩はいつも楽しそうだもん。あれは美冬ちゃんが強いから楽しいんでしょ?だって横で見てても私はイマイチ面白さが分からないしっ!」

「・・・そこは威張るとこじゃないっすね」


盤を挟んで対峙することに意義があると思える部内で唯一の存在が佐々良先輩だった。何故ならば指す前から、指している間も、結果が見えないのが先輩くらいしか居なかったのだ。それは我が将棋部員の棋力が軒並み低いという訳では勿論なく。自分が将棋を嗜む程度のアマチュアにしては強くなり過ぎただけで。それに対抗できる佐々良先輩が異常なだけで。

もう本気でやることはない、将棋なんて嫌いだと口にしながら、それでも将棋部に所属して、たまに将棋部室へと足を運ぶ理由の大半は佐々良先輩が待っているから。ただそれだけだった。だからこそ、それだけの理由しか持ち合わせない自分が、将棋が好きでそこに集う人々の集まりに足を運ぶのは、彼らにとっても将棋に対しても失礼じゃないかと思う訳で。


「将棋が嫌いな将棋部員でも来て欲しいって思うものっすか?」


素朴な疑問をぶつける。それは何度となく部員たちに伝えたこと。それは将棋を好きになれずに終わった人間が、それでも駒を持ち続けても良いのかと、自分自身にも幾度となく問いかけた内容。


「もちろんですよっ!」


昔。佐々良先輩に、阿僧祇さんに尋ねた時と同じ答えが布留川からも返って来る。それはある種の予定調和で、けれどその答えを別々の人間から貰えることはとても幸せなことに違いない。3人の中で最も元気よく肯定をした布留川の声を聞きながらそんなことを思う。思っていたのだが、そこから先を繋ぐ言葉はこれまでの二人とは全く違うものだった。


「将棋が嫌いな将棋部員でもっ!大丈夫っ!将棋が嫌いでも飛車は振れます。飛車を振れば大抵のことは忘れられます。振り飛車は楽しいですし、振り飛車は全ての人に門戸を開いていますよっ!」

「・・・・・・・。タチの悪い宗教勧誘かなんかにしか聞こえないっすけど?」

「タチ悪くない!むしろ正しい道へと導いてるのっ!美冬ちゃんはあんなに強いのに居飛車しか指さないなんてそんなの絶対間違ってるよ!」


「でも振り飛車って手損じゃないっすか。積極的に飛車を振りたいのは左香落ちの時くらいで、平手じゃ序盤の駒組ミスるとすぐ不利になるし、組み合うと居飛車の方が発展性があるから仕掛け所が難しいし、飛車角上手く捌けてようやく互角で中終盤の勝負になるくらいなら最初から飛車先突いた方が苦労少なくて済むと思うんすけど」


「あ、振り飛車の素晴らしさが分からない方はやっぱ来なくてもいいかなっ!」


綺麗な掌返しに思わず苦笑してしまう。対局はしないと述べる幽霊部員に来て欲しいと頼み込む言葉も、振り飛車を愛する言葉も、愛ゆえに居飛車党を虐げる言動も。その瞬々は全て彼女にとって真なのだろう。

これまで色々な将棋指しと知り合いになったものだが、それでも彼女のようなタイプは今まで出会ったことが無かった。強烈な個性と伴わない実力。それはアタシが追い出されたあの世界では即座に刈り取られる存在で。

けれどもそんな存在が未だ許される我が将棋部という懐の深い場所。そこならばアタシもまた気紛れに足を運んでも良いのかもしれない。昼休みの終局を告げるチャイムを背にしながら、そんなことを考える。




☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖

文化部棟の最西端。教室棟よりは幾分か細い廊下を歩き、将棋部室の前へと辿り着いたアタシは中の様子を伺うことなく室内に入る。


「うげ」


視界に映るは部室中央で椅子に座り盤を眺めている男が一人。目が二つに鼻が一つに口があって、あと髪がある。つまりは普通の男であって、これに好意を寄せる布留川の気持ちはサッパリ分からない。まあきっと容姿の問題ではないのだろう。容姿の描写で目鼻の数しか言及できない人間に何が分かるのかという話もある。


「久々に顔を見せた後輩から開口一番失礼過ぎる言動を浴びせられるってボク何かやったかなあ!?」

久々に顔を見せた後輩から開口一番失礼過ぎる言動を浴びせられた阿僧祇さんは、アタシの部室侵入時の小さな呟きを咎める。布留川のことを元気が良すぎるとか、うるさいとか称しがちな彼だが、彼自身も十分にその気があると思う。

打てば響くのが阿僧祇はじめで打たずとも勝手に鳴りだすのが布留川みりん。よって二人が同部屋に居る状態を保持し続けるとだんだん収拾がつかなくなるというのが、部活動を通じてアタシが学習した最重要事項だ。故にその二人に挟まれて平気な顔をしている佐々良先輩もある意味で特殊な人間なのだが、そもそもあの人はそれ以外に関しても色々と不可思議な存在なのでそこだけを突っ込んでも仕方ない部分はある。


「残念ながら今日は沙羅は来ねえってさ」

「・・・そうっすか」

訊いてもないのに佐々良先輩の欠席情報を告げる阿僧祇さんに適当に返答すると、壁端に設置された本棚へと向かい無造作に並べられた棋書の背表紙を眺める。戦法書やら詰将棋本やら名局集やら。ジャンルも対象棋力もバラバラであることからも歴代の部員たちが思い思いに置いていったのであろうことが分かる。そのうちから古びた本を適当に一冊抜き取る。表紙には『詰むや詰まざるや』の文字。

・・・本当に誰が寄贈したんだ、これ。


「・・・帰らねえの?」

元に戻すのも癪だし、とそのまま本を片手に椅子に座ったアタシに不思議そうな声が掛かる。佐々良先輩が来ないのに部室に留まるのがそんなに珍しいのだろうか。いや、珍しいか。少なくとも今までなら有り得ない行動だ。

「帰って欲しいんすか?」

昼休みの布留川の努力を無為にするつもりかこの男は。いや布留川も最終的に来なくて良いって言い放ってたけど。

アタシの質問に彼は首を横に振ると、自分の手元にある将棋盤を指し示す。

「じゃあ指さねえ?」

「・・・・・・。嫌っす」

「はいはい。まあそりゃそうか」

手をひらひらと振ると特に粘ることもなくまた盤に視線を移す。この引き際の良さが布留川との大きな違いだと思う。けれどもどちらが良いとか悪いとかそう単純な話でもなく。時計の音だけが聞こえる静寂の中で、果たして自分が求めていたのはどんな言葉だったのかと思案する。そしてこの静寂を悪くないと感じるのならば、彼の対応で間違いはなかったのかもしれない、とも。



☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖

「そういえば。阿僧祇さんの好きな女ってどんな人っすか?」

「ボクと将棋を指してくれる奴。・・・つーかその質問流行ってんの?」

つまりはこの男に対して同様の質問を投げ掛けた奴が他に居る訳か。そして犯人捜しに興じることもなくそれが布留川であることは想像が付いて。だからこそ間髪入れずに返答をしたこの男に溜息を吐きたくなる。まあ全くの嘘を吐いている訳ではないのだろうが、だからこそタチが悪い。


ああ、なんだか無性に腹が立ってきたし、溜息ではなく毒の一つでも吐こうかな。と思った矢先、慌ただしく部室の扉を開ける影が一人。


「今日も世界は寒いです!ストーブ!ストーブが私を呼んでる!あれ?美冬ちゃん来てくれてるっ!?わーい!ほら先輩!美冬ちゃんが居ますよ!」

「落ち着け。台詞の長回しは止めろ。ストーブを独占するな。つーか御厨みくりやが居るのは知っとるわ」


台風のごとく登場し、部内における瞬間最大口数を叩き出した布留川と律儀にその相手をする阿僧祇さん。久々に訪れた部室のはずなのに、以前も見たことがあるようなやり取りを繰り広げる二人。


ああ、そういえば。布留川に対してアタシが教えるべきことが一つあった。


「布留川。阿僧祇さん、脈あるっぽいっすよ」

「ほへ?」


将棋を一緒に指すだけで脈ありになってしまう細い脈だし、ライバルの数が減った訳でもないのだが。ま、そんなもんだろう。


部内で唯一脈が無いのはアタシだけ。


これは別にどうでもいいことだが。

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