研究室のタイヨウ

宮下くれは

研究室のタイヨウ

 大学時代の友人に会うため、私は東京へ向かった。駅を出たとき、目の前に大通りが開け、道に照り返された日差しがまぶしく目に飛び込む。私は思わず目を覆った。暗い電車に揺られた長い旅路が思い出される。

 今出てきた東京駅は、初めて見たときは、それは驚いた。私の地元の寂れた無人駅とは、比べ物にならないくらい立派だ。木造の駅舎しか見たことのなかった私には、レンガでできているのでさえ珍しかった。

 懐かしさに、一人たたずんでいると、目の前にひらり、と何かが落ちた。目をやると、レースの刺繍が入ったハンカチーフだった。

「落ちましたよ」

声を掛けようと顔を上げると、すらっとした彼女は、田舎ではめったに目にしない流行の洋装にさわやかな風をまとい、しなやかな動きでもうだいぶ先へ行ってしまっている。私は、彼女の、首筋に垂れたおくれ毛を押さえる細い指に見とれた。一瞬のことであったのに、まるでコマ送りの映像を眺めるように、私はそれをぼうっと眺めていた。

 「よお!久しぶりじゃないか」

ふいに声をかけられ振り返ると、そこには、何年ぶりに会うだろう、懐かしい学友の顔があった。私はなんとなく、ハンカチーフを鞄へ押し込んだ。

「どうしてたんだよ、今まで。田舎に引っ込んじまってから、一度も顔を見せなかったじゃないか」

「悪い。母さんの世話やら仕事やらで」

私は苦笑いを浮かべる。

「ああ、そうだったな。それで、おふくろさんは、元気なのか」

「死んだよ、二か月前に」

「そ、そうか……」

軽く答えたはずなのに、彼は本当にすまなそうに、悪かった、と謝った。しかし、私はなんだか、その会話の感じが懐かしくてならなかった。

彼はいつも思ったことをすぐに口に出す質だが、悪気はないのはわかっている。それに彼は素直だった。私は学生時代から、彼の純粋さに助けられたことさえ何度もあった。

「いいさ。歳だったんだ、僕も歳を取るわけだ」

肩をすくめる私に、うつむいていた彼は、すぐに顔を上げて、今度は期待の目を向ける。彼は立ち直るのも早い。

「それで、研究に戻るのか?今まで乗らなかった誘いを受けたのは、そういうことなんだろ」

私は、彼の問いに驚いた。まさか、そんな風に思われていたのか。

「いや、僕は別に、研究を諦めたことに未練はないよ。それに、東京へは懐かしい君に会うためだけに来たんだ」

彼はあからさまに肩を落とす。

「なんだ、そうなのか。おまえが参加してくれたら、百人力だったのになあ」

「参加?」

しかし、彼はそれには答えずに、ああ、と声を上げる。

「腹、減ってるんじゃないか。朝早くに出たんだろ。いい店、知ってるんだ」

彼は笑い、駅舎の屋根を出ていった。

 東京の味を教えてやろう、などと得意気な彼に連れられてやってきたのは、少し古びた通りの奥にある、小さなレストランだった。

「あ」

私は、思わず声を漏らした。

「懐かしいだろ」

彼は楽しそうにふふん、と鼻を鳴らす。そのレストランは、かつて学生だった私たちが、よく学校の帰りに集まっていた場所だった。こんなに小さな店が、何年も残っているのか。私は店前に立ち尽くし、感心しきっていた。

「おい、突っ立てないで、入れよ」

彼は呆れたように笑い、ベルを揺らして扉を開けた。

 店内の雰囲気は、ずいぶん変わっていた。給仕も見慣れない顔ばかり、客層も、大学生や女学生が溜まり場となっていたあのころとは違っていた。不愛想な給仕に案内された席に着き、メニューに目をやる。あの頃よく食べていたお気に入りの料理を探そうと、思わず目がさまよう。が、ずいぶん増えたメニューの数と、見慣れない名の料理に私は目を回しかけた。

「ああ、結構変わっちまったよなあ」

向かいの席に座った彼は、私への同情の色を隠さなかったが、しかしすぐに手を上げる。やってきた給仕に、迷わず二人分の料理を頼んだ。楽しみにしてろよ、と言わんばかりの笑顔だ。

「これだけは、変わらないんだよな」

運ばれてきたのは、つややかな黄色を誇らしげに皿に乗せた、オムレツライスだった。

「俺は子供っぽいって、めったに食わなかったが、おまえは好きだったよな。しかしなあ、最近は、なぜだか定期的に食いたくなっちまうんだ」

彼の話を、私は流すように、ふうん、と聞いていた。しかし、

「なぜだろう。おまえが、恋しくなっちまったかな」

はは、とわざとらしく笑う声に、私はチキンライスをつついていたスプーンを止める。

「君、そんなこと言うやつだったか」

顔を上げると、彼はもう、へらへらと笑っていた。

「早く食えよ。これから、連れていきたいところがあるんだ」


 旧友に連れていかれたのは、ある建物だった。立派に組み立てられたレンガと細工がされた鉄の門を過ぎると、白く高い壁が私の前にそびえたった。ところどころ黒ずみ、ひびが入っている。しかし、それが一層、建物の歴史を物語り、威厳を感じさせた。

「覚えてないか、ここ」

尋ねられたが、私はその建物をぼんやりと見上げ首をひねるばかりだった。すると、

「刑務所だよ」

彼は、からかうような調子で言う。私は思わず、え、とつぶやいた。

「心配すんな。今はもう使ってないんだ。改装されて、今は、商い人たちの会議場とか、活動家のたまり場になってるよ」

私はしばらく、入ることにためらいを感じたが、入り口の階段をずんずん進んでいく彼に、ついていくしかなかった。

 中に入ると、確かに、そのころの面影はとどめていないようで、板床には赤いカーペットが敷かれ、窓からは明るい光が差し込んでいる。廊下を進むと、窓とは反対側に学校の教場を思わせる広めの部屋が並んでいた。

「本当に、何も覚えていないんだな。お前も、何度かこの前を通っているのに」

怪訝そうな顔で言う彼に、私は苦笑いをして見せる。しかし、彼はすぐに、

「まあ、お前はいつも、片手に本だったもんな。俺が何言ったって気のない返事ばかりして、世間なんて見てないやつだったよ」

と、納得したように鼻を鳴らす。私は頭をかいた。なんだか恥ずかしい。

 「ほら、着いたぞ」

彼に案内され辿り着いた部屋には、立派な扉が構えていた。背丈より五十センチメートルは高いその扉には、金色の装飾がされたドアハンドルが付いていて、友人がそれに手をかけた。

「おお。会長のお出ましだ」

中に入ると、十数人ほどの人がすでに集まり、私たち二人を出迎えるように、話をやめてこちらを向いた。なんと、大学時代の研究会の仲間の顔が、私の知る限りほぼそろっていた。ほかに知らない顔も数人いたが、おそらく卒業後に集めた同志なのだろう。

「君が会長なのかい」

私が友人に尋ねると、彼はおかしいというように、ふっと吹き出した。

「お前のことだよ」

彼は顎で私のほうを示す。

「大学で研究会をまとめてたのはお前だろ。教授の期待を一人占めしてたくせに、のんきなもんだぜ」

彼は先ほど話しかけてきた友人と笑いあう。なにを言われているのかわかりかねて、私が首をひねってた、そのとき。

「今の会長は、僕ですけど、ね」

部屋の一番奥で談笑していた、若い男がこちらへ歩いてきた。

「おう。そのとおりだ、明石くん」

先ほどの友人が愉快そうに笑う。明石、といえば、確か私より二つ下の学生だったか。

「彼がね、僕ら同窓生に声をかけてくれたんだ。また一緒に研究をしたい、とね。ほかのやつらも彼の仲間だ」

「君のように、田舎に戻ったやつも多くてね。全員は呼べなかったんだが。しかし、こうしてまた懐かしい顔を突き合わせて研究をやるのも、楽しいもんだ」

テーブルの向こうに、少し離れて立っていた別の旧友が言う。

 友人の話では、ここに集まるほとんどの仲間は東京で仕事をしているらしい。明石の呼びかけで集まった者たちは休日ここへ集まり、思い思いに研究をしているのだそうだ。

 「さあ、懐かしい顔も来たことだし、始めようか」

明石が、皆に席に着くよう促す。

 しかし、一人の男が思い出したように、そうだ、と声を上げた。

「彼女が、まだいらっしゃらないようだが」

「ああ、少し用事があるようです。すぐに来ると思いますよ」

明石がすぐに答えた。私は、誰のことを言っているのだろう、と思い、横に座る友人に目をやる。すると、すぐにわかる、というようににやにやしている彼と目が合い、私は肩をすくめた。

 「お待たせいたしまして」

ささやくような声が聞こえたのは、テーブルについた皆が本や資料を広げ、私も友人の資料を覗き込んでいた時だった。重い扉がゆっくりと開かれ、華奢な肩がのぞく。

「ああ、今始めたところだ」

明石が彼女に、テーブルを挟んで反対側から、首を伸ばすようにして答えた。友人は、ほら、というように私に顎で彼女を示す。私は、誰だったろうか、と彼女をまじまじと見た。

 目を伏せていた彼女が、開いた席のほうへと顔を上げたそのとき、私は、あれ、と思った。彼女は、確か、駅前で見たご婦人ではなかろうか。私は目の奥に残った白い指を思い出す。スカートをなびかせ、流れるように席のほうへ歩く彼女を目で追っていると、こちらを、ちら、とみた彼女と一瞬目が合った。柔らかい雰囲気をまとうその顔が、少し固まったように、私には見えた。

「なに、見とれてんだ」

一人の友人が、私をからかって言う。皆にどっと笑い声が起こった。

「おい。こいつ、まだわからねえって顔してるぜ」

斜め向かいに座った友が鼻で笑う。

「ほら、研究室で俺らの飯の世話やら掃除やらしてくれた。教授の娘さんの――」

「倉永美代子、です」

温かみのあるやさしい声が、しかし離れた席に座る私のほうまで、通って聞こえた。

「おとこ臭い俺らの研究室じゃあ、マドンナだったのになあ。お前にはかなわねえ」

友人の声に、また笑いが起こる。

私は思わず目を丸くしぽかんと口を開け、彼女を見つめた。

「あの、女学生さんかい」

「おお、思い出したじゃあないか」

隣で友人がくすくす笑う。

「きれいになりすぎて、わからなかったのか」

楽しそうな彼に、

「俺は、あの頃の初々しい感じも、好きだったがなあ」

「いやあ、彼女はいつだってわれらの憧れさ」

と、他の皆が口々に言い始める。

 私は、そうか、と研究室の風景を思い出しながら、友人たちに苦笑いを浮かべてみせるのを忘れずに、横目に彼女を見た。彼女は皆に好き勝手に言われながらも微笑を浮かべていたが、なぜだかその笑みは、少し寂しかった。

「もう、この人たちは。すぐに騒ぎ出してしまうんだから。ほら、やりましょう」

皆を諫めながら、明石は、私のほうへ苦笑いを向ける。私もそれに応えて薄く笑った。


部屋に、だいぶ低くなった夕日が鮮やかに差し込む。議論を繰り広げたかつての仲間たちは、まだ足りず資料をにらんでいる者もいる中で、たいていの者たちは満足そうに談笑しながら荷物を片付け始めていた。

 「これから飲みに行くんだ。おまえも、行くだろ」

何人かと集まって話をしていた友人が戻ってきて、私に声をかける。せっかく懐かしい仲間に会えたんだ、今日は楽しんでもいいだろう。そう考えた私は、すぐに、ああ、と答えた。

 明石が予約していた店には、大学時代の仲間が、私たちを含め五人、私とは初対面の同志が二人、そして美代子と名乗った彼女が集った。ほかの者たちは、家族が待っているから、とか、明日も仕事が早いから、と申し訳なさそうに帰って行った。


「本当に、変わらないなあ」

懐かしい話に花が咲き宴もたけなわのころ、友人が、私のほうを見てからかうように言った。

「研究室で本の虫だったのが、田舎に引っ込んじまったから研究なんて興味なくなっちまったのかと思ったぜ」

「そんなことないよ」

私は苦く笑う。

「今日はいきなりで驚いたが、みんなと議論するのは、本当に楽しかったよ」

「ああ、本当にな。しかし、やっぱりおまえは、俺らを置いてけぼりにしちまうんだ。異論の余地もないくらい説得力のあることを言うから、いつだっておまえの考えが正解さ」

友人のあきれたような声に、私は、買い被りだよ、と首をすくめた。

「だが、だからおまえは、教授のお気に入りだったんだがな」

口下手で暗いおまえが、だぞ。俺らがどれだけ嫉妬してたかわかるか。でも、憎めないやつだったよなあ。友人たちは口々に、目の前にした本人の話題で笑いあっている。私も肩をすくめながら、この懐かしい雰囲気を、存分に楽しんでいた。

 そのとき、長机の反対側でほかの数人と話していた明石が、酒に顔を赤くしながら、

「みんなに、聞いてほしいことがあるんだ」

とゆっくり立ち上がった。私たちは一同、彼に視線を向ける。

「今年の秋に、結婚しようと思っている」

彼は唐突に、しかし楽しそうに大きな声で宣言した。彼の周りで話していた者たちはあらかじめ知っていたようで、ヒューヒューと口を鳴らしてはやし立てている。

「おう、やるじゃないか。それで、その幸せなお相手さんは、どこのご婦人なんだ」

友人がからかうように言葉を投げる。

「それが……」

明石は照れくさそうに頭をかく。

「美代子ちゃんだとよ!」

明石を囲んでいた友人の一人が酔った勢いで、先に大声を上げた。その言葉に、私ははっとした。思わず、彼女のほうを見る。

 控えめに目を伏せ首を斜めに傾けた彼女の顔は、照れ隠しをしているようにも見える。しかし、はっきりとその表情をうかがうことはできなかった。そのとき私は、なぜだか、隣からこちらを気にするような視線を感じた。私がそちらを見返すと、友人はさっと目をそらしたが、もう一度こちらを一瞥し、そしてまた向こうを向く。浅くため息を吐いたようだった。


 「少し、酔いが回ってしまったみたいだ。悪いが、風にあたってくるよ」

私は、まだ少ししか飲んでいないじゃないか、もっと話を聞かせてくれよ、と言って止める友人たちを軽くあしらって外へ出た。店の前には、休憩するには丁度いいベンチが、ちょっとした広場に置かれていた。

「はあ……」

腹の底から、深くため息を吐いた。酒臭い息が夜の冷たい風に流されていく。飲み屋街の空腹を誘うような焦げ臭い香りに、彼らとの話を思い、私はこの会に招いてくれた友人に感謝していた。東京に出てきて大学で出会った同志たち、研究室で語り合った思い出、研究に没頭する私たちを見守ってくれた教授、そして、いつも笑って研究室を明るくしてくれた彼女……。忘れかけていたそれらが、いや、忘れようと努力していたそれらが、頭の中で、私にとっては残酷にも温かい記憶として流れていった。

「さて、どうしようか……」

どこにともなくつぶやき、空を向いてもう一度ため息を吐く。

 「夕涼み、ですか」

暗く冷たい空を、目をつむったまま見上げていた私に、後ろからつややかな声が風のようにささやいた。

「ああ」

振り返ると彼女が、少し離れたところでのぞき込むように首をかしげていた。

「私も抜け出してきてしまいましたわ」

彼女はくすくす笑い、

「どうか、されましたか」

と、ベンチの横までやってくる。

「少し、頭を冷やしていたんです」

私が答えると、彼女はおかしいというようにまた笑う。

「なぜです」

彼女の質問に、今度は答えなかった。少し目をそらし、雲間から現れた月に照らされて薄明るくなった地面に目をやる。

 「お変りになられましたわ」

彼女が立ったまま月を見上げつぶやく。

「え」

聞き返すと、彼女はこちらを見ないまま、

「あのころとは違う」

と続けた。

「なにが、違うんです」

私が尋ねると、彼女はふっ、と小さく笑った。

「私、集会所であなたを見たとき、すぐにわかりましたよ。あなたは忘れてしまったようだったけれど」

「それは――」

私は弁解しようと思わず声を上げる。しかし、彼女はそれを遮るように首を振る。

「いいのですよ。もう、十年以上も経ってしまったのですから。でも、思い出してくださったときは、少しがっかりしましたわ」

「どうして」

「美代ちゃん、と呼んでくださると、私、期待していましたのに」

彼女はふふ、と笑う。しかしその緩く傾けた顔には、少し寂しさが見えたような気がした。

「集会所に集まった皆さんの中に、懐かしいあなたの顔があって、私、驚きました。でも、それよりも、嬉しさのほうが先立ってしまって。本当は近くに行ってお話ししたかったのですけれど。ですからせめて」

彼女は言葉を切り、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。

「せめて、あの頃と同じように、呼んでいただきたかったのです」

黒目がちなその瞳に映る柔らかい光に、私は吸い込まれるように見入った。彼女が私の言葉を待っているのが伝わってくる。しかし私は、声がのどに張り付いたような感覚に、口を開けるのをためらった。彼女も、きっと……。

 彼女がまた、ふっ、と嘲るように笑う。

「呼んで、くださらないのですね」

その寂しげな表情に、私は目を伏せるしかなかった。

「そんな哀しい顔をなさらないで」

その、息をたっぷりと含んだ声に、私ははっとして顔を上げる。確か、あのときも――。

「あなたにお会いできただけで、もう、よろしいのです。それに私は、今は幸せですから」

彼女の声は、語尾はもう消え入りそうなほど小さかった。しかし私は、

「ああ、そのようだ」

とうなずいた。彼女の言葉を、肯定しなければいけないような気がした。

「明石くんは、いいやつだから」

「ええ。とてもいい方よ」

彼女はうつむいていた顔を、すばやく上へ向けて言う。

「だからもう、大丈夫ですわ」

 大丈夫。そう言った彼女の横顔は憂いを含み、まったく真実味を感じられない。私は下腹のあたりにむかむかとした違和感を覚える。これが酒だけのせいでないことは、わかり切っていた。唇をかみ、気分を抑えようと努める。ふと、目を細めたことに気づかれはしまいかと不安になり、彼女のほうを横目で窺った。しかし、彼女は空を見た顔を、もうこちらへは向けなかった。

 「私、もう、戻りますわね」

しばらくして、彼女はゆっくりと言った。

「ああ」

私もうなずく。

「そろそろ、おかえりになったほうがよろしいですわ」

目も合わせず、彼女は小さく、しかし強く言う。とはいえ私も彼女のほうへ向かず、

「ああ」

そう、繰り返した。しかし、その声は、思いがけずかすれてしまった。

 変わったのは、きっと、私だけではない。誰も皆、誰も、時の流れに逆らえなかったのだ。いや、逆らわなかったのかもしれない。私も、彼女も。


 宴会場に戻ると、彼女はなにもなかったかのように明石の隣に座り、周りの者たちと笑いあっている。しかし、私が戻ったことに気づいた他の者たちがこちらに向いたのには、同様にしなかった。

「僕はもう、お暇するよ」

先ほど座っていた席へ行き、友人たちに言う。

「えっ。もう帰るのか。おまえ、こっちにはしばらくいるんだろう」

友人が驚き、私の顔を見る。

「ああ、そう思っていたんだがね。少し、やらなければいけないことを思い出したんだ」

苦笑いして見せると、周りの者たちも、口々に文句を言って引き留めようとする。しかし私は肩をすくめるしかなかった。

「それでおまえ、今晩はどこに泊るんだ」

友人が聞く。

「ああ、宿はもうとってあるんだ。まだこっちで会いたい人がいるから、明後日まではそこにいるよ」

それは忙しいなあ、俺のうちに泊ればいいのに、と、また彼らは口々に言ってくれたが、私はその好意だけを受け取っておいた。

 向こうのほうに座っていた者たちも、騒がしくなったのに気付いたのか、こちらを見る。

「もう、お帰りですか」

明石が立ち上がり、声をかけてくる。

「ああ。すまないね。今日は楽しかったよ」

うなずいて見せたのに、その眉を寄せ不満そうにする明石の顔に、私は思わず微笑んだ。

「お送りしましょう」

彼はこちらへやってこようとしたが、いや、という私の声で足を止めた。

「ここで。君たちはまだ楽しんでいてくれ」

 じゃあ、と、横に座っていた友人も腰を上げる。私は、いいよ、と抑えようとしたが、彼はなにも言わないまま微笑みうなずいた。

 「また、こちらへはいらっしゃるのでしょう」

襖を開けた友人の後ろをついて出ようとしたそのとき、少し急いだような声が背中に聞こえる。振り返ると、彼女は座ったまま、首を伸ばしてこちらを見ていた。しかしその表情からは、その言葉の真意を探ることはできなかった。

「機会がありましたら、また」

私はなぜか、自然と微笑んでいた。しかし、彼女はもう、こちらを見てはいなかった。うつむいたその顔に、心の内を読み取ることはできなかった。


薄暗い街灯がともる道を、友人と二人、ゆっくりと歩く。

「なにか、あったのか」

彼は前を向いたまま静かに尋ねる。

「え」

私は彼の質問に戸惑い聞き返す。おそらく、いや確かに、彼の聞いている意味は分かっていたのだが。

「彼女だよ。気づいてないとでも思ったか。おまえ、―――」

「ああ。でも、今はもうなんでもないんだ。本当に」

私は薄く笑んで見せる。

「あのころからおまえは、なんにも考えてないふりして、いつだって俺らより先を考えてた。彼女のことだって、ずっと隠したまま―――」

「いや」

彼の言葉を遮る。

「本当に、僕はなんにも考えていないのさ。今も、……あのときも」

「おまえは、本当にそれでいいのか」

彼の声は、とても落ち着いて聞こえたが、気迫を含んでいるのは明らかだった。

「ああ。いいんだ」

 最初に聞かれたときは、なに変なことを言うんだ、と笑ってごまかしてやろうと思っていたのに、思いがけず彼の迫力に負けてしまった。しかし、私は友人の温かさを感じ、感謝さえしていた。彼はいつだって、敬うに足る男なのだ。

 あのころだってそうだった。研究室へ誘ってくれたのも彼だった。無口で愛想のない私と仲間たちをつないでくれたのも、教授に私を推してくれたのも。思えば、一匹狼気分でいた学生時代は、いつも彼に甘えて守られていたのだ。いや、あのときから自分の情けなさには気づいていたはずだった。ただ、気づかぬふりをして、あらゆることから逃げていたのだ。

それを思い知らされたのは、きっと、あのとき。私の狭い世界に彼女が現れたときだった。



彼女は突然、研究室に現れた。資料を読み漁り、万年片付かない机の上で書物とにらみ合っていた私に、

「なにを読んでいらっしゃるのです」

と、まだ幼さを残した細い声が尋ねた。突然横から声をかけられた私は、椅子から転げ落ちそうになって、身をそらしたまま慌てて体勢を立て直した。眼を上げると、そこにはのぞき込むように腰を折った、女学校の制服の少女が笑っていた。どれほど間抜けな顔をしていたのだろうか、彼女は私を見てまた楽しそうに、声を漏らしながら笑った。

「こらこら、邪魔してはいけないよ」

倉永教授が室内に入ってくる。学生はそのとき二、三人しかいなかったが、教授は、私の娘なんだ、と彼女を紹介した。

「美代子は私の研究に興味があるらしくてね。みんなの研究している姿を見させてやってくれ。別に特にかまってやらなくていいからさ」

教授は彼女に、みんなにお茶でも入れてやってくれ、と言い、彼女もはい、と微笑む。私は、彼女がやってきたときの衝撃がまだ治まらず、ぼうっと見つめていた。

「あの、お茶を入れたいのですが。給湯室などはありますか」

私は、一瞬、自分に言われていることに気づかず、しかし気づくとすぐに、はい、とはじかれたように立ち上がった。

 給湯室へ案内し、やかんや茶葉のありかなどを教える。彼女は

「ありがとうございます」

と、本当にうれしそうに言った。しっかり掃除などしたこともない薄汚れた室に、彼女はとても似合わなかった。

 その日から彼女は夕刻になると、三日に上げず研究室を訪ねてくるようになった。彼女は、学生や研究員たちの世話をよく見、よく働き、そしてたまに私たちの研究資料を覗き込んでは興味深そうに質問した。彼女が通ってくるようになってからは、研究室が何だか明るくなったようだった。確かに、彼女が掃除して室内がきれいになったのと、女性に対する虚栄心からかみなが身なりを整えるようになったのもあるが、それだけで生まれる快活さではなかった。みな、彼女のことが好きだった。

 ある日、研究に没頭して一人で研究室に残っていたことがあった。固まった首を伸ばそうと顔を上げると、窓の外はもう暗くなっていた。

「もうこんな時間か」

帰ろうか、と考えながらも、切りのいいところまで、とぐずぐずしていた、そのとき。

「まだ、残っていらしたのですか」

後ろから声をかけられ、さっと振り返る。そこには、彼女が立っていた。

「美代ちゃん。こんな時間に、なにをしているんだい」

今日は来ない、と教授から聞いていた私はひどく驚いて尋ねる。

「驚かせてしまったようで申し訳ありません。今晩は父が遅くなるようなので、母が夕食を差し入れるように、私を遣わしたのですよ」

彼女は、持っていた包みを掲げてみせる。

「そうか。今日は会議が二つもあるとおっしゃっていたな」

私は教授の言葉を思い出し、軽くうなずく。

「じゃあ、預かっておこう。もう少し、かかるだろうから」

「え。おかえりにならないのですか」

「もう少しだけやってから、ね。だから」

急ぐこともなかった私は、やることはたくさんあるのだから、と肩をすくめながら包みを受け取った。

「では、お茶をお入れしますね」

彼女はすぐに給湯室へ向かおうと身をひるがえす。私はとっさに、彼女の腕をつかんでいた。肉のないその細い腕は、しかし男のように骨ばっているわけでもなく、じんわりと熱を感じた。

「すまない。痛かったかい」

私は自分の行動にうろたえ、すばやく手を引く。彼女もゆっくりと手を下ろし、ほとんど聞き取れないくらい小さな声で、いいえ、とつぶやいた。

「でも、茶はいい。もう暗いから、美代ちゃんはもう帰らなくてはいけないよ」

彼女は下を向いたまま、こくりとうなずいた。

 翌日、彼女は研究室へ来なかった。学生の中には、研究が進まないのは彼女が二日も不在のせいだ、などと身勝手な文句を言っている者もいた。友人はそれを聞いて、

「おまえの研究が進まないのはいつものことだろ」

と鼻で笑っていた。

そのとき、教授が入ってきて、私の肩を叩いた。

「娘がねえ、昨晩から、なんだか様子が変なんだ。学校へは普段通り行ったし、別に具合も悪いわけではなさそうだったんだが。今日はここへ来るのも気分が乗らないようでね。なにか、聞いているかい」

私は眉を寄せる。いったい、どうしたのだろう。

「すみません。思い当たりません」

小さく頭を下げた私に、教授は、

「そうか。いや、気にしないでくれ」

と奥へ行ってしまった。

「おい。どうしたんだ」

友人が椅子に座ったまま、それを引きずって顔を寄せてくる。

「美代ちゃんの様子がおかしいって。でも、具合は悪くないらしいんだ」

「で、なんでおまえに」

「ああ、昨日の晩、美代ちゃんが教授に持ってきた弁当を預かったんだ。研究室には僕しかいなかったし」

私はわからず、首をかしげる。

「なにか話したのか」

友人の問いに、私は首をかく。

「僕がもう少し残るから、と言ったら、お茶を入れようと言ってくれたんだが、……」

とっさに、あの時の感覚がよみがえり、手がびくりと震える。指を掌にぐっと握りこみ、その感覚を鈍らせた。少し汗ばんでいる。

「だが、なんだよ」

友人が怪訝そうに聞く。

「いや、断ったんだ。それだけだ」

友人は、そうか、と信じたのかわからないような、はっきりしない声で答える。彼は確かに、私の手のほうへ目線を落としたようだった。

「なあ。おまえ、そりゃあ、―――」

しかし彼も、それ以上はなにも言わなかった。机を向きなおすと、浅いため息が、背後に聞こえた、気がした。

 その翌日は、少し遅い時間に彼女がやってきた。学生の中の数人は、明らかにうれしそうだ。資料を見つめるふりをして、みなに茶を出す彼女を盗み見たが、思いのほか、普段通りであった。普段通りでなかったのは、私に湯のみを渡すときのこわばった表情と、どうぞ、という優しい言葉がなかったことくらいか。彼女は確かに気にしているようだった。鈍い私でもわかる。

すばやく身をひるがえし去っていく彼女に礼を言おうと振り返ったとき、横目に友人がこちらを見ているのに気が付いた。私は彼に首をかしげたが、彼はなにか言いたそうに、しかし何も言わずに向こうを向いてしまった。

 声をかけようか。そうは思ったものの、どういっていいのか、あのときのことを蒸し返したら嫌な気分になるのではなかろうか。そもそも、彼女の様子がおかしいのは私のことではないのかもしれない、意識しすぎであろうか。考え始めたら、研究に集中できなくなり、私は思い切って立ち上がった。

 「美代ちゃん。少し、いいかい」

給湯室で湯を沸かしなおしていた彼女は、私を見ると、明らかに戸惑ったようだった。

「どう、なさいましたか」

「いや、先日のことを謝りたくてね」

「先日のこと……」

彼女は怪訝そうに眉をひそめる。

「あの、ああ……。その、とっさだったとはいえ、君の腕をつかんでしまって。えっと、若い女性に不用意に触れるなんて」

私は言葉を選びながら、ぶつぶつと説明する。言い終えてから、恐る恐る顔を上げると、彼女はぽかんとこちらを見ていた。

しかし、しばらくして、彼女は吹き出すように笑い始めた。

「えっ。僕、なにかおかしなことを言ったかな」

私は焦った。しかし彼女は、いえ、いえ、と、笑いながら繰り返した。

「そうではありませんわ。でも、なんだかおかしくって」

彼女は笑いを抑えて体勢を直し、まっすぐこちらを見た。

「謝るべきは私のほうですわ。お気にかけさせてしまい申し訳ありません。実は、私も、あの日のことが気にかかってしまって。あ、もちろん、つかまれたことではなくて……。ただ、あのままきちんと挨拶もせず、帰ってしまいましたので」

申し訳なさそうに上目使いをする彼女に、私は、

「ああ、そんなことか」

と、納得した。

「あ、いや、申し訳ない。そんなことは別にいいさ。私も、これからはもう、あんなことはしないよ」

私は、自分がほっとしているのを感じた。しかし、彼女のほうを見ると、なぜだか肩を落としたように見えた。

「ですから、もうこのことはお気になさらないで。お勉強、頑張ってくださいね」

彼女の声は柔らかかったが、その言葉は押し出すように私を給湯室から退出させた。横目に見たそのときの彼女の表情は、気のせいだろうか、少し寂しげだった。

 私はもう、そのころから分かっていたはずだった。しかし、自分の気持ちを表に出すことを許さない自分がいた。また情けない自分が頭をもたげていたのだ。

 その後、卒業まで、なにも変わらない日常が続いた。彼女はいつも通り通ってきていたし、そのおかげで研究室は明るかった。

おいしい茶を入れてくれる彼女はいつも笑顔で、しかし以前ほど私に頻繁に話しかけてこなくなった。私も特に気にすることはなく、いや、むしろ彼女の姿に安心さえ感じながら日々を過ごしていた。

 「おまえは残るんだろう」

卒業を一週間ほど後に控えたある日、友人は私に聞いた。

「残るって」

私は聞き返す。

「もちろん、研究室にさ。おまえは教授のお気に入りだし、このまま研究生になるんだろう」

彼の言葉は、私にとっては予想外のものではなかった。以前から研究生になることを考えていなかったわけではないし、そうできるのなら本望だった。しかし、私はすぐに、胸の前で手を振って見せた。

「僕はいいよ。君たちと研究ができたのはもちろん楽しかったが、卒業した後まで好き勝手していられないしね」

「じゃあ、やっぱり田舎に帰るのか」

彼は明らかに不服そうに眉を寄せる。

「ああ、そのつもりだよ。父が亡くなって、母も大変だから。僕が家を支えなきゃいけないんだ」

ふうん、とうなずきながらも、彼はまだ納得していない様子だった。

「君だって、実家に戻るんだろう」

「ああ」

彼は低くうなる。彼の実家は東京にあり、父親が革職人をしているらしい。その父親からなぜこんな文学青年が生まれたかはわからないが、卒業後は実家を継ぐらしい。しかし、彼の器用さならなんなくこなしてしまうのだろう。

「俺に務まるわけねえッて言ったんだがな。職人のくせにのんきな親父は、子供のころから見てるから大丈夫、なんて言うし、おふくろは俺が家に入るのを期待してるし。まあ、入学のときからそのつもりだったからな、言い返せないさ」

肩をすくめる彼に、私は、でも、と首をかしげる。

「君は大学から近いんだから、研究を続けたらいいじゃないか」

しかし、彼は呆れたように鼻で笑う。

「そんな簡単なことじゃあないさ」

心残りがあるのは、私にだって容易にわかった。しかし決意は固いらしく、というより、もうあきらめがついている、というように、彼の表情はすっきりして見えた。

 しばらくして、黙っていた彼は、冷たい風が吹き込む窓のほうを見ていた眼を、少しこちらに向け、にやりと口角を上げる。

「俺は、中途半端が嫌いだからな」

それは確かに、私に対する皮肉だった。彼は最初から、私が迷いながら、決まらない心のまま田舎に帰ることを分かっていた。それは、もちろん研究のこともあったが、当時の私には、東京への未練が多すぎた。彼は、私がこの未練を引きずって帰ることをよく思っていないようだった。だから最後に、私の心を揺るがそうと、残るのかと聞いたのかもしれない。

「連絡、くれよな」

散らかった自分の机を再び片付け始めながら、彼は言った。様々な考えが脳内を駆け巡り、ぼんやりとそれを見ていた私は、

「ああ」

とつぶやくように返事をしていた。

「ちゃんと、連絡するんだからな。なにかあったら、遠慮せず言え。自分だけで抱え込んで悩むんじゃあねえぞ」

乱暴だが優しい気遣いが見える彼の言葉が、私のぼんやりとした頭の中にしみこんできて、年甲斐もなく目頭が熱くなった。

「ああ」

私は、今度は力強く、繰り返した。

 研究室を片付ける卒業生たちの騒がしさもようやく落ち着いた、卒業式の数日後。

「君がいなくなるのは、寂しいなあ」

腕組みをした倉永教授が、友人の資料の仕分けを手伝っていた私の横で渋い顔をする。

「ひどいことをおっしゃるじゃないですか、教授。もう帰った奴らも、俺もいるのに、教授が惜しむのはこいつだけですかい」

友人が仕事の手を止め大声で言う。

「いやあ、だって君は東京の子だろう。いつでも来られるじゃあないか。いや、来なくていいんだがね」

なんてひどいことを言うんですか、と大声で笑う友人に、私は苦笑いを浮かべた。

「だが本当に、私は君が惜しいんだ。いずれはこの業界を背負って立つ若者だと、思っていたんだからな。いずれはこの研究室もまかせて……」

「なにをおっしゃるんですか、教授。私にそんな大それたことは務まりませんよ」

友人が鼻で笑うのが聞こえたが、気が付かないふりをする。教授は、肩をすくめ、ため息を吐いた。

「そんなことはないんだがねえ。私は君をよく知っているつもりだから。それに、うちの婿に、とも思っていたんだがなあ」

「え」

私と友人は同時に声を上げた。

「そ、そんなご冗談、笑えませんよ」

私が首を振ると、教授は、

「冗談じゃないんだがなあ」

と、また口元をゆがめた。

「ああ、ああ。教授はいつも突拍子もないことを企んでいらっしゃる。いくらこいつがからかい甲斐があるからって、そこまで言っちゃあかわいそうじゃないですか」

友人が、私と教授の間に入って、教授をなだめるように言い、片付けの邪魔しないでくださいよ、と、向こうへ押しやった。教授は、惜しい、非常に惜しいよ、などとまだぼやきながら奥へ去って行った。

 「ありがとう」

礼を言うと、友人は呆れたような目を私に向けた。しかし、彼の何か言いたそうなその目は、すぐに下を向いて、また机の上の資料とにらみ合ってしまった。

 その日の夕方。友人は別の教授に呼ばれ、俺がどうして、などと文句しながら、他学部の実験室の掃除に駆り出されていった。倉永教授も、会議があるんだ、と退出して行ってから、もう一時間ほど帰ってこない。

 一人残された研究室で、私は、教授の机のわきに置かれた研究日誌を手に取った。学生や研究員がおのおの好き勝手に研究している私たちの研究会には、研究日誌にわざわざ記録するようなことはなく、教授が暇つぶしに学生の様子を書いたり、研究員が教授をからかおうと根も葉もないうわさ話を書いたりしていた。

 日誌をめくりながら、私は思わず笑みをこぼす。懐かしい、研究会の皆のことが書いてある。倉永教授は、学生のことをよく観察していて、研究の進み具合がどうとか、今日の機嫌はどうとか、かなり細かく書かれていた。

 真ん中あたりのページに、「娘さんをください」という、見覚えのある、大きく乱雑な字を見つけた。それに対する教授の、小さいが硬くかしこまった、「嫌です」という字に、私は、声を上げて笑ってしまった。

 「どなたか、いらっしゃるのですか」

突然、背中に聞こえた細い声に、私はすぐに振り返る。

 彼女は控えめに、入り口からこちらを覗き込んでいた。窓から差し込んだ光に目を細める彼女を認め、私は思わずぼうっとしていた。彼女の白い肌が照り返す太陽の光は、血の色を思わせ、みずみずしく活き活きとした美しさを見た。

「お邪魔、してしまいましたか」

「いや、そんなことはないよ」

続けて尋ねる彼女に、私は急いで答える。

「久しぶりだね。今日はどうしたの」

日誌をおいて彼女のほうへ体を向けると、しかし彼女はそれには答えずにこちらへ近づいてきた。

「なにをお読みだったのです」

彼女の問いに苦く笑いながらも、私は、ああ、と、日誌を見せた。

「研究日誌だよ。主に教授、えっと、美代ちゃんのお父さんがつけているものなんだ」

へえ、と興味深そうに受け取った彼女は、ぺらぺらとページを繰ってく。

「あれ」

「あ、そこは」

私は焦って日誌を奪い取ろうとしたが、もう遅かった。彼女は例のページをすでに見つめていた。私は頭をかく。

 しかし、彼女はしばらくして、ふふふ、と笑い始めた。

「どなたがお書きになったものか、わかってしまいますわね」

さすが、皆の世話を長いことしてくれた彼女だ。いや、もしかしたら、こんなものを見なくてもすでに知っていたかもしれないが。

 しばらくそれを眺めていた彼女は、教授の、「嫌です」と文字をすっとなでる。

「……だったら、」

彼女はつぶやくように、小さな声で言う。

「え」

聞き取れず聞き返すと、彼女はすばやく顔を上げた。

「あなただったら、父は許してくれるとお思いですか」

 その言葉は、私の頭の中を駆け巡り、しかし、思考するのを阻止してしまった。私はぽかんと開けた口を閉じられないまま、彼女の少しうるんだ目を見つめていた。

 どのくらいそうしていたのだろう。三分か、いや、数秒だったかもしれない。先に沈黙を破ったのは、彼女だった。

「い、いえ、何でもないのです。お聞きにならなかったことに」

私は困惑した。聞かなかったことに、なんて。そんなこと、できるわけが……。

「私、もう帰りますわ。おめでとうございました。どうぞ、お元気で」

声を失ってしまった私を置き去りに、彼女は慌てたように去って行った。

 「おい。突っ立って、なにしてんだ。今、美代ちゃんが出てったぞ」

彼女と入れ替わるように戻ってきた友人に、私は困惑しきった気持ちを、どう訴えてよいのか、いや、話すべきではないのか、ますます心臓は強く鳴り響き、手にかすかな震えさえ感じた。

「おい。おまえ、なにしてんだよ」

友人は私の肩を揺さぶった。その表情は、なぜか必死だった。

「なにって」

「だから、追わなくていいのかよ」

友人の言葉に、私ははっとした。そうか。そうだ。追わなくては。

 しかし、私の脚は動くことはなく、やはりそのまま立ち尽くすばかりだった。ここで私が追ったとして、状況が変わるのだろうか。今彼女が出て行ったのは、私に追われたくないからではないのか。不安が、私の頭をぐるぐると乱した。

友人は呆れたように息を吐き、気に入らない、というように頭をかいて室を出て行った。

 その日が、彼女を見た最後だった。



 「もうここでいいよ」

宿につながる路地の曲がり角で、私は友人に言った。

「おまえ、明日は」

「ああ、世話になった人たちに、挨拶しに行くよ」

「そうか。俺は仕事だから、付き合ってやれないが……」

「いや、いいよ。懐かしい景色でも、楽しみながら行くさ」

彼は、少し不服そうにしたが、そうか、とまたつぶやいた。

 「出発は三日後だったか。見送りに行くよ」

わずかに笑んだ彼は、肩をくっと上げて言う。

「嬉しいよ」

私はできるだけ大きな笑顔をつくってうなずいた。


 三日後。私は来たときよりも大きな荷物を抱えて、東京駅のベンチに腰かけていた。この二日間で、大学時代の下宿先の大家さんやよく通った飯屋、大学などを訪ねて歩いたら、持っていけ持っていけとたくさんのお土産を持たされてしまった。ただ、大学にはほとんど知った顔がいなくなり、わずかに残った当時からの教授たちにも、私の顔を覚えている人が少なかったのは、少し残念だった。

 倉永教授は、今頃何をしていらっしゃるのだろう。研究室を訪ねると、会の統率は明石が取っていた。聞いてはいたが、後輩が助教授になったのは、なんだか不思議な感じだ。まあ、よく頭の切れる彼ならなにも心配はいらないのだろう。教授は、と尋ねると、明石は、少し前に来た人に代わってしまったと答えた。そこで私は肩を落として出てきてしまったのだ。どこにお住まいか聞いておけばよかったと、今更後悔しても遅いか。

 時間を確認しようと掛け時計のほうへ顔を上げる。遅いな。列車は二十分後に出発するというのに、見送りの約束をしてくれた友人がまだ現れなかった。私は首を伸ばし、駅の外へ目を向ける。と、そのとき。

 白いワンピースをひるがえし、駆け足で女性が入ってきた。

 彼女だ。

 私は瞬時に気が付いた。額にうっすらと汗をにじませた彼女は、慌てた様子で周りを見回している。こちらには気づいていないようだ。

私は、座っていた席に荷物を置いた。

「どなたか、お探しですか」

背後から声をかける。すると彼女は、ひどく驚いた様子ですばやく振り返った。

「はい」

振り返ると同時にその勢いで返事をしたらしい彼女は、私の顔を見ると、あ、とつぶやいたきり、固まってしまった。

「どうか、されましたか」

私はまた尋ねる。すると、彼女は我に返ったように、はっと短く息を吸う。

「今日お帰りと伺ったもので、急いで参りましたの」

「どうして、あなたが」

言いながら、私は気づいた。

「もしや、彼に、代わりに行けと言われたのですね」

「あ。ええ、まあ」

彼女は困ったように、苦く微笑んだ。しかし。

「でも」

彼女はすぐに続ける。

「私も、ちゃんとご挨拶申し上げたかったのです。先日は、私、あんなことを言って、どうかしてましたわ。もっとお話ししたかったのに」

にっこりと笑った口元に、私はまたあの日の研究室を思い出してしまった。もう彼女に、私が知っている幼さなど残っていないのに。

 しばらくして、首を傾げた彼女に、私は自分が彼女を見つめていることに気が付いた。

 驚いてとっさに目をそらす。すると、彼女は、ふっと吹き出した。

「なんだか、思い出してしまいましたわ」

「思い出すって」

「あなたは覚えていらっしゃらないかもしれませんが、懐かしい、あの頃のことを。女学生時代、私はどれだけあなたに焦がれていたことか。ついあんなことを口走って、どれだけ困らせてしまうかも考えられないような未熟者でしたわ」

 私は少しうつむき、それから満面の笑みを彼女に向ける。

「それは、お互い様でしょう」

彼女の笑顔は、私の言葉に、さっと色を失った。

「でも、もう大丈夫です。あなたも、私も」

私が再び笑顔を見せる。彼女も、いや、彼女のその笑みは、わずかばかり引きつっていただろうか。

 列車の汽笛の音が鳴り響く。

「もう、行かなくては」

「あ、そうですわね」

彼女は慌てた様子でうなずく。そして、

「あ、そうですわ」

と、手に下げた紙袋を私のほうへ突き出す。

「東京土産です」

 ああ、と答えながら、私はベンチのほうへ目を向け苦笑いした。

「あら、お荷物、多いのですね……」

しかし、申し訳なさそうにひっこめたその手を、私はすぐに引き留め、紙袋を受け取った。

「いいえ、かまいません。どうも、ありがとうございます」

私は軽く頭を下げ、そして、では、と笑って乗降場へ歩き始めた。

「そうだ」

私は、突然思い出して彼女を振り返った。

「これを」

私は、鞄に押し込んでいたハンカチーフを、丁寧に畳みなおして彼女に手渡す。

「どうして、あなたが」

「こちらへ来たときに、駅前ですれ違ったのです。その時に落とされて」

私は微笑み、受け取るように促す。しかし、彼女はすぐには受け取らなかった。何かをためらっているようだった。

 「どうして、その時、お声をかけてくださらなかったのです」

すがるような彼女の目を、私は、しっかり見据えようと努めた。

「その時は、わからなかったのです。あなただと」

彼女は、そうですか、とうなずいたまま、顔を上げなかった。

「どうぞ、お持ちになって」

しばらくしてから、彼女が静かに言った。

「思い出の品と思って、おそばにおいてください」

その声は、ほとんど聞き取れないほどかすれていた。しかし、私は、

「いえ」

そう答えた。

「私には、必要のないものです。いただけません」

彼女の潤んだ瞳は、しかし鋭く、私は目をそらしてしまいそうになった。

 先に目を落としたのは、彼女だった。

「そのよう、ですね」

私に強引に握らせたその手をほどき、冷たい指の感覚だけを残して、彼女はそれを受け取った。そして、

「さようなら」

静かに、そう言った。

「それでは」

私は、微笑んで一礼し、彼女に背を向けた。

 「本当に、変わってしまわれたのですね」

かすかに彼女の声が聞こえたが、私は振り返らなかった。


 蝉の声が、やけにうるさい。もうあれから一か月たつというのに、まだ暑さが収まる気配はない。額の汗を拭い、私は両親の仏壇に供えたろうそくの火を消した。

 立ち上がると、私は久しく入っていなかった物置の襖を開けた。むっとしたかび臭い匂いが鼻を刺す。

「こんな奥にあったか」

私は、数個の箱を見つけてきて、廊下へ運び出した。その場に座り込み、箱のふたを開ける。どうやら、こちらは問題ないようだ。

 使い込んだ教科書や資料は少し黄ばんでめくれ上がったところもあるが、あの頃のままだ。その下には、懐かしい作品集や教授の論文などが埋もれていた。

 私は、時も忘れてかつての友に読みふけった。

 「あら、なにを広げたの」

台所から顔を出した妻が、楽しそうに聞く。

「ああ。ちょっとね」

「わあ、なつかしいわ」

私の答えも待たずに、妻は資料の一つを取り上げた。

「倉永代治。私、この人の評論、若いころ好きでよく読んでたわ」

「知ってるのか」

私は面食らった。教授の名を、こんなところで聞くとは。

「ええ。父も文学はよく読んだから、書斎にいくつか彼の本が積んであったの」

へえ、と、私はぽかんと妻を見つめた。こんなに目を輝かせている彼女を見るのは、初めてかもしれない。

 「あ、お邪魔しちゃったわね。もうすぐお夕食できますからね」

立ち上がった妻に、私は、ああ、とつぶやくように返事をした。

 広げた資料たちに、もう一度目を落とし、私はそれらを箱の中に戻した。しかし今度は物置には仕舞わず、よいしょ、と、書斎のほうへ向かった。

「もう一度、やってみるか」

つぶやいた私は、作業机に資料を広げ、卓上灯をつけた。

 もう日がすっかり落ち、その小さな光では文字がぼやけるようになったころ。居間の方から、腹の音を誘うようなにおいが漂ってきて、私は立ち上がった。

 「なあ。一緒に、東京へ行かないか」

私は、茶碗に飯をよそう妻に、白い封筒を差し出した。差出人の欄には、「明石正一」「倉永美代子」という名が並んでいる。

「まあ、素敵。結婚式の招待状?」

「僕一人でもいいが、君もきっと、行きたいだろうと思って」

「あら、どうして」

妻は私を見上げて首を傾げた。

「新婦の姓を見てごらん」

再び封筒に目を落とした妻は、すぐにまた、もしかして、と期待の目で私を見上げた。しかしすぐに、

「でも、私はご招待を受けていないもの」

と、残念そうにはがきを卓上に置いた。

「いや」

私も素早く返す。

「楽しいことが好きな仲間たちなんだ。式の前日に、集まろうという話があってね」

彼女は、小さな口を、ほう、と開けて私を見つめる。

「新郎の明石君には、君のことは伝えておくから、安心して来るといいよ。その会には、教授も珍しくいらっしゃる。きっと、楽しいから」

私の言葉に、彼女の顔は、すぐに色を明るくした。私の頬も、自然と緩む。

「行ってくれるかい?」

「もちろんよ」

彼女は本当にうれしそうに、満面の笑みを浮かべた。

 教授は、お元気だろうか。きっと、愛娘の晴れの訪れに、たいそうお喜びだろう。我が仲間たちは。そう考えて、思わず笑ってしまう。元気に決まっている。あの騒がしい中で、再び話に花を咲かせよう。今度は、新しい仲間も加えて。

 そして、なにより、彼女の幸せな笑顔が見たい。今、新しい家族に迎えられて、満ち足りた彼女の明るい笑顔が。あのころとは違う、その笑顔が。

 私たちは、互いに別々の道へ進んだ。それが今は正しかったと、私は胸を張って言える。それを導いてくれたのは、彼らだから。

 もちろん、彼らと昔を懐かしむのは楽しい。しかし、今はもう、それぞれ、一人で立っている。誰に頼ることもできない、しかし、誰にも侵されないその道を、私はこれからも、胸を張って歩んでいくのだろう。もう一つの道を歩む、この愛する人と共に。

 食卓の向かいから楽しそうに語りかける妻に微笑みながら、私は彼女の料理に手を伸ばした。


                                         終。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

研究室のタイヨウ 宮下くれは @shirotaenyanko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ