外伝:イスキュロス

 イスキュロスは己を産んだ母を覚えている。

 生まれたばかりのイスキュロスをまるで化物を見るかのように恐れていた母を覚えている。

 獣の耳と尻尾を持って産まれたイスキュロスは、彼女に取って確かに化物だったのだろう。


 イスキュロスを産んだ女は神に仕える巫女だった。神に愛された巫女だった。

 けれど、彼女はそれを喜びはしなかった。彼女は神の愛を疎んでいた。嫌悪すらしていた。

 神はそれを許容した。彼女が神域から出ることを許した。

 巫女は神のものとされていたから、彼女は故郷には帰れず、王に下賜された。

 故郷の両親に会えないのは悲しかったが、神の元から離れられるならば彼女はそれでよかった。彼女はほどなく王の子を生んだ。

 生まれた子どもは神を宿していた。

 自分の膝元から去っても変わらず彼女を愛していると、いつまでも見守っているという神の愛だった。

 己にもたらされた神の愛を、しかし彼女は拒絶した。

 まだ見られている、見張られている、と彼女は恐怖し、狂乱し、後宮から姿を消した。以来、彼女の行方は明らかでない。

 残されたイスキュロスは長子アリステロスを産んだばかりの正妃に育てられることになった。

 初めての子育てに精神の参っていた正妃は手がかからないイスキュロスを喜んで迎えた。

 たとえ生まれた直後に目が開いていようが、生後三か月みつきで歩きだそうと、自分より先に生まれた兄を抱いてあやそうと、気味悪がったりはせず、さすがは神の寵愛を受けた子だと、アリステロスと分け隔てなく可愛がった。

 イスキュロスは神の子故か、なにもかもが人並み以上にできた。

 剣も弓も槍も、学問も、すぐに師を追い越した。

 けれど、イスキュロスは神の子故か人らしい感情の発露は見せず、いつもどこか遠くを見ていた。いつもひとりで佇んでいた。


「父上。おれの母は下賤げせんはしなのですか?」

「イスキュロスよ、誰がそのようなことをおまえに言ったのだ?」

「弟妹たちの母親です」

「そうか。あれらには構うな。神に愛されたおまえに嫉妬しているのだろう。

 イスキュロス。おまえの母親は端た女ではなく、巫女であった。間違いなく神に愛された巫女であった。だが彼女はそれを望まなかった。

 神はそれをお許しになり、彼女を神域からお返しになった。そして彼女におまえを与えてくださったのだ」

「そうだったのですね」


 自分が生まれたせいで彼女はあんなにも恐怖していたのか、とイスキュロスは了解した。


「おはようございますイスキュロス様」

「おはよう」


 使用人相手でも礼儀正しいイスキュロスを王族らしくないと嘲る者もいたが、下々の者たちはイスキュロスをたいそう慕っていた。

 それもあってイスキュロスの母は正妃に次いで男子を産んだ神の巫女であり、本来ならばイスキュロスは軽んじられて良い地位にはなかったのだが、後宮に母親がいないため他の気位が高い側妃たちからいじめを受けていた。

 しかし、イスキュロスにはなんの感慨も湧かなかった。そこに人間がいる。ただそれだけだった。

 そんなイスキュロスによく話しかける使用人がいた。アエラという下女だった。

 イスキュロスが十二のころ、アエラが王の子を産んだ。王に一夜を求められた結果だった。

 王が王宮を離れていたのも良くなかったが、元が下女であったから、アエラのお産を手伝う人間は少なかった。他にもお産が重なったと産婆も医師もおらず、人手はアエラと仲の良かった下女が数人しかいなかった。王に見初められたアエラへの嫉妬でアエラの側を離れた下女は何人もいたから数人でも人がいただけ良かったのだろう。

 イスキュロスはアエラのお産を手伝った。湯をわかし、清潔な布を用意し、アエラの手を握り励ました。

 宵闇が薄らぎ、暁の明星に連れられ、太陽が輝き出すころにようやくアエラの子が産まれた。

 とりあげたイスキュロスの腕の中で産まれたばかりの赤子は太陽のような琥珀色の瞳でイスキュロスを見て、笑った。少なくともイスキュロスにはそう感じられた。

 息も絶え絶えというふうに荒く呼吸をくり返しながらアエラが笑う。


「イスキュロス様もお泣きになるんですねえ」


 イスキュロスは初めて己の涙に気付いた。


***


「……また折れた」


 ぶすくれたようにつぶやくイスキュロスにアエラが呆れた声をあげた。

 イスキュロスの手元には今日何本目になるか数えるのも馬鹿らしいほど折った針がまた新しく生産されていた。


「またですか? もうあきらめてくださいよ、針がもったいないです」

「けどおれもシンジュオスにおむつを作ってやりたいんだ」

「お気持ちだけいただいておきますよ。糸を通すまで何本針を無駄にしました? おむつを一枚縫うのに何百本の針を無駄にするおつもりなんです?」

「……………」


 アエラが慣れたように針を布に通しておむつを作っていく。それを羨ましそうに見るイスキュロスにやわらかく笑ったアエラは、シンジュオスが寝ている籠を小さくゆらした。

 機嫌が良いらしいシンジュオスが不明瞭な声をたてて、なにがしかを訴えていた。


「ほーらシン、お兄ちゃんに遊んでもらっておいで。イスキュロス様はシンジュオスのお相手を頼みますよ。おつむはあたしが縫っちゃいますからね」

「……わかった。遊ぶぞ、シンジュオス。なにをして遊ぶ。石投げか、剣術か、それとも弓術か」

「赤ん坊ができることにしましょうね。お話でもしてやってくださいな。それか散歩でもいいですよ」


 まだ首の座っていないシンジュオスを慎重に抱き上げたイスキュロスは知らず知らずつめていた息を吐き出した。


「子守りはむずかしいな」

「そうでしょうとも。すぐ死んでしまうのが相手ですからね」

「兄上はもう首が座っておいでだったからな」


 正妃に預けられていたころを思い出し、イスキュロスはシンジュオスから目を離さずに自分の体をゆらす。幸いなことにシンジュオスの機嫌を損ねずにすんだようで、おとなしくイスキュロスの腕に収まっている。

 三か月で歩き始め、神憑きの膂力で自分と変わらない体重の兄をあやしたイスキュロスだったが、生まれたばかりの首も座っていない赤子を相手取るのはシンジュオスが初めてだった。父と兄に褒められられた自慢の尻尾で頬を撫でてやればシンジュオスは上機嫌に声をあげた。


「イスキュロス様のしっぽは便利ですねえ。シンジュオスはイスキュロス様のしっぽじゃないとなかなか泣き止まなくなってしまいましたよ」

「そうだろうそうだろう」


 シンジュオスのほおをしっぽでくすぐりながらいくらか得意げにイスキュロスは胸を張る。


おれの尻尾は父王も兄上も至高の一品だと褒めてくださる。シンジュオスにもそれがわかるのだろう」


 ころころとアエラが笑う。縫い終わったおむつを畳み、また新しいおむつを縫い始める。


「王様と王子様がほめる一品に触れられるなんて、シンジュオスはすごいわねえ」

「何を言うアエラ。今はアエラも王族の一員だろう。たとえ王族じゃなくてもアエラになら尻尾も耳もいつでも触らせるぞ」

「ありがとうございますイスキュロス様」


***


「アエラ……。シンジュオスは天才だ……」

「はいはい」

「まだ一歳だというのにもうおれの名を呼んだぞ!」

「そうですねー。天才ですねー」

「しかもこのかわいらしさ! シンジュオスは神に愛されている!」

「はいはい。神に愛されているのはイスキュロス様ですよー」

「もう一度おれの名を呼んでくれシンジュオス!」

「いーうー」

「天才だ!」

「はいはい」


***


「すごいぞシンジュオス! よくぞ立った! すばらしい! 天才だ!」

「寝返りのときもずりばいのときもはいはいのときもそう言ってましたねー。ちなみにですけど、イスキュロス様がことあるごとに抱っこして甘やかさなかったらもっとはやく立ったと思いますよ」

「がんばれ、シンジュオス! もう少し、あと一歩! 兄におまえの雄姿を見せてくれ!」

「聞いてないですね……」

「イスキュロスは私よりも父親らしいな。あんなに表情の動くイスキュロスが見れるとは思わなんだ」

「ようやく情緒が育ってきてなによりですね、父上」

「そうだなあ」


***


「アエラ……」

「だめです」

「ちょっとだけでいいんだ」

「だめです」

「いしゅー」

「ウッ! すまんシンジュオス……。不甲斐ない兄を許せとは言えん……! だがこれもおまえのためなんだシンジュオス……!」

「いしゅうー」

「うっ……。ア、アエラ……」

「だめです。今日のおやつはもうおしまいです」

「いしゅー!」

「すまん、すまん、シンジュオス……!!」


***


「よしよし、シンジュオス。かわいいおまえには父神からいただいた加護をやろう。本来おれ以外に宿すなと言われていたが、今日まで説得に説得を重ね、ようやくお許しをいただいたのだ。効果は落ちるが生涯で一度だけおまえの命を守ってくれる。もちろんそんなことが起きぬようおれが全霊をもっておまえを守るが万が一ということがある。おれも四六時中おまえの側にはいられぬからな。

 はあ、なぜ父王はおれをおまえの子守り係に任命してくださらないのか」

「神様のご加護を簡単にあげちゃうからでは?」


***


 年の始めに王が神殿に祈りを捧げに行くのは年中行事だ。

 大いなる大神に祈りを捧げ、一年の安寧を願う。王の長子として同行する兄とは違い、イスキュロスは護衛の一人として、神の愛のかたちとして毎年神殿を訪れていた。

 神の声を聞き、それを王に届けるのがイスキュロスの役目だった。

 自分の役目を果たしたイスキュロスは最愛の弟のためにたくさんの土産を買い求めた。


「イスキュロス……。それ、全部シンジュオスのお土産なのかな?」

「まさか。全部ではありません。アエラの分ももちろん入っております、兄上」

「そうか。それでも少し買いすぎじゃないかな? 刀剣の類などはあの子はまだ握れないだろう?」

「それはそうですね」


 アリステロスの助言に従い、イスキュロスは土産から刀剣を抜く。それでも土産はまだ山と残っていた。


「あと装飾品も減らそうか。一個か二個くらいに。ほら、首に絡まったりしたら大事だろう?」

「そうですね、兄上!」


 今気づいた、とばかりにイスキュロスは装飾品もかわいらしい小鳥の置物を残して土産から抜いた。それでもまだ土産は山になっている。


「布は……あって困るものでもないからいいか。食べ物は日持ちするものだけにしような。シンジュオスのお腹が破裂してしまう」

「それもそうですね、兄上!」


 イスキュロスは砂糖漬けや干菓子など以外を土産山から抜いて自らの腹に収め始めた。それでもまだ土産は多く残っていた。

 アリステロスはイスキュロスを呆れた笑い、肩を落とした。


「うーん。これでもまだ多いなあ。まったく、シンジュオスのことになるとイスキュロスはとんと兄馬鹿になるなあ」

「お褒めいただき光栄です、兄上!」

「褒めてないよー。もうちょっと加減を覚えようねー」

「はい!」

「返事はいいなー」


 律儀に手を上げ元気良く応答したイスキュロスだが、まったく信用できなかった。

 イスキュロスが泣けば抱き上げ、ぐずればおやつを与えてきた実績ぜんかがある。


「まったくおまえは。シンジュオスにベッロベロに甘すぎて将来が心配になるぞ、私は。甘やかしすぎるのも本人のためにならないからほどほどにな?」

「わかっております、父上。アエラにも言われて耳に胼胝たこができそうなほどです。アエラはなぜシンジュオスのかわいさに勝てるのか……。母は強しですね」

「おまえが甘すぎるだけじゃろう」

「父上の仰る通りだ。大神からいただいた加護もほいほい与えてしまいそうで怖いな」

「兄上、ほいほい与えてはおりません。長い間説得を重ね、ようやくこの間父神から譲渡の許可が出たばかりです」

「は?!」

「え?!」


 笑い話のつもりだったのだが、予想外のイスキュロスの回答に父と兄は身動きを止めた。


おれがいないとき万一にでも猛獣に襲われたらと思うと夜も眠れず、しかし父神からの許可は出ず……」

「当たり前だ」

「ですから一時たりともシンジュオスから離れぬように、とそばにいたのですがアエラに部屋から叩き出され」

「当たり前だ」

「ですからどうしてもシンジュオスに加護を与えたいと朝な夕な夜な夜な父神に願い続けた結果、ひとつだけなら加護を譲っても良い、と許しが出まして」

「大神よ、うちの息子が申し訳ありませんでした」

「大神よ、うちの弟がたいへんご迷惑をおかけしました」

「効力は落ちるのですが、不死の加護を与えることが叶いました」

「それめちゃレア加護やん……」

「一度しか発動しないのですが、ないよりましかと」

「最上級の加護を使い捨て扱いはやめようね」


 王はあまりの衝撃に言動が崩れ、兄は遠い目をして末の弟がまともな人間に育ちますように、と大神に祈りを捧げた。イスキュロスは疑問符を頭上に浮かべながら首を傾げた。


***


「王よ、お帰りなさいませ」


 神殿から戻った一行を迎えた大臣の一人は青褪めながら膝を折り、こうべを垂れた。


「長旅にお疲れのこととは存じますが、実は……」


 言いよどむ大臣に王は先を促す。迷ったように口を開閉させながら大臣はようよう言葉を吐き出した。


「側妃アエラ様、並びにシンジュオス殿下がお亡くなりになりました」


 発せられた言葉の意味を理解する前にイスキュロスは駆けだしていた。

 何も目に入らぬ。何も耳に入らぬ。

 王族の亡きがらの安置場所は死を司る神が祭られた神殿だ。神殿に着いたイスキュロスは誰の制止もきかずに神殿の最奥を目指した。

 大の大人が五人がかりで閉じた石棺の蓋を片手で押し上げたイスキュロスに見張り番が腰を抜かした。

 棺の中のアエラは死んでいた。わずかに感じた臭気にイスキュロスの鼻にしわがよる。イスキュロスはひと瞬きの間黙祷を捧げ、アエラの腕に抱かれて死んだように眠るシンジュオスを石棺の中から抱き上げた。

 間近にシンジュオスを抱き上げ、増した毒の臭いに顔をしかめながら、与えていた不死の加護によって命を繋いだシンジュオスの体を抱きしめた。

 弟の呼気に耳をすませる。決して許されるはずがない加護の譲渡を認められたのはこれが理由か、と思い至った。

 父神は知っていたのだ。こうなることを。イスキュロスからシンジュオスが失われれば自分の守護する国が無くなると。

 ああ、アエラ。

 イスキュロスは努めて呼吸を深くし、沸騰する血液を少しでも冷やそうとした。その努力も空しく、はらわたが煮えくり返っていく。

 怒気を放って歩くイスキュロスに誰も彼もが怯え、遠巻きに見ているしかできなかった。

 自室に戻っていた父と兄とを訪ねたイスキュロスは眠るシンジュオスを二人に預け、背を向けた。その背に父王の声がかかる。


「イスキュロスよ。どうか鎮まってくれぬか。人を裁くには手順が要るのだ。どうか、どうか鎮まってくれ」

「できませぬ。無理です。アエラを殺され、シンジュオスまでも手にかけた者を生かしてはおけませぬ。生かしたままではおれ人間ヒトではいられない」

「イスキュロス……」


 それでも部屋を出るまでイスキュロスは人のかたちをしていた。

 イスキュロスの背が消えた部屋の中で大臣が金切り声を上げた。


「王よ、どうかイスキュロス様のご漢乱行らんぎょうをお止めください! なんの裁定もなく罪人を処罰することなどあってはなりません!」

「無理だ。怒り狂った神をただの人間ごときがどうして止められようか。私には無理だ。止められぬ」


 王の氷のように冷えた目が大臣をひたりと見すえる。大臣は心の底から震えあがった。


「それともおぬしがイスキュロスを止めてくれるか?」


 イスキュロスが父神から賜った加護は数多ある。

 しかし父王はイスキュロスが人の世に生きる人間としてその大半の使用を禁じてきた。おまえは人間ひとなのだから、神の力を使わずとも生きていけると。

 それを今イスキュロスはすべて解放した。加護を使えばアエラとシンジュオスに毒を持った人間はすぐに見つかった。

 民からの人気があるイスキュロスが気に食わず、そのイスキュロスが気にかけているアエラとシンジュオスが気に食わないという理由で、それだけの理由で父王がいない時期を見計らいアエラとシンジュオスを毒殺したのだ。

 イスキュロスは怒りと悔しさと悲しみが混じった咆哮をあげ、下手人と下手人の一族郎党の首を落としてまわり、屋敷に火を放ちすべてを灰燼へと帰した。

 のちにイスキュロスの所業を見た者が語った。あれはまるで悪夢であったと。神は神でも破壊神であったと。


「イスキュロスよ。我が息子よ。王の裁定なくして臣民を死に至らしめたことは重罪である。よって魔の谷に住む魔物獣を十頭討伐せしめよ。これをもって汝の贖罪とする」

「はっ」


 こうべを垂れたまま魔物獣の名が羅列された目録を恭しく受け取り、イスキュロスは厳かに王命を受けた。

 そうして他の罪人と同じ、腰巻だけを身に着けて王の御前を辞した。

 イスキュロスの姿が見えなくなってから、大臣以下の人間が騒ぎ始めた。


「王よ、アレは神憑きではありますまい!」

「あのような危険な者など死罪こそが相応しい!」

「魔物獣の討伐など生ぬるい!」


 王は喚く大臣立ちを睥睨した。


「イスキュロスは神の愛である。その愛を恐れる愚か者がいるとは、私は大神に恥じ入るばかりである」


 口を噤む大臣たちに王はさらに続けた。


「イスキュロスは我らを殺そうと思えば一瞬で皆殺しにできる。それをせず我が命に従い贖罪の旅に出たのはイスキュロスが人の理に従っているからだ。それがわからぬ愚者は大神の愛を疑う者として私が処断するが、まだ意見する者はあるか」


 誰も応えず、王は集まりを解散させた。

 王もアリステロスもイスキュロスが生きて帰ることを疑わなかったが、まだ物事のわからぬ幼児であったシンジュオスは母と、いつもそばにいてくれたイスキュロスがいないことで毎日泣いた。

 まだ言葉も分からぬ頑是ない子が泣く様子に王もアリステロスも胸を痛めた。


「安心おし、シンジュオス。イスキュロスは必ず償いを終えて帰ってくるからね」

「いしゅういしゅう」

「ああ、かわいそうに。シンジュオスが帰って来るまで私がアエラの代わりにおまえといますからね、シンジュオス」

「いしゅう、いしゅう」

「おお、よしよし。やはり旅に出したのはやりすぎだったか。せめて通いにしてやればよかった。それはそれとして、君が母親役はちょっとねんれ……なんでもない」


 父王と正妃とアリステロスがどれだけ宥めても、シンジュオスは泣くばかりだった。


***


 イスキュロスは体をふるわせ返り血を払い落した。

 王宮を離れ、魔の谷で魔物獣討伐を始めてから三月みつきあまりが経っていた。

 今日も太陽がまぶしくイスキュロスを照らしていた。その琥珀の輝きにイスキュロスは目を細めた。きゅう、と瞳孔が縦長になる。

 イスキュロスは陽の光を浴びるのが好きだった。父神を感じるのも体が温かくなるのも好きだからだ。

 シンジュオスが生まれてからはもっと好きになった。シンジュオスの太陽をそのまま溶かし込んだ瞳は、暁光のように美しい。イスキュロスはそんなシンジュオスの瞳が大好きで大切だった。

 血抜きが終わった魔獣の皮を剥ぐ。

 獣の皮はなめして加工すれば防具や敷物なる。拠点にしている洞窟にはため込んだ魔物獣の毛皮や角などが堆く積まれている。

 あと一頭、魔の谷の主であるテュフォボスを狩れば贖罪が終わる。最初のひと月で目録に名が記載されていた十頭のうち九頭の首はすでに狩り終わっていた。残りの一頭、テュフォボスがなかなかつかまらない。

 長く生きているだけあって、知恵は回る。狡猾なのだ。

 けれど、イスキュロスはもうそろそろ帰りたかった。シンジュオスが読んでいる気がする。泣いている気がするのだ。

 はやく返ってあの小さな体を抱きしめたい。ふっくらとしたまろい頬をつつきたい。ほおずりしたい。あのなんともいえない、温めた乳が人型をとったようなかぐわしい匂いを胸いっぱいに吸い込みたい。

 イスキュロスは蒼天に輝く太陽を振り仰いで目を閉じた。じっと祈りを捧げる。

 三月の間に調べ尽くしたテュフォボスの行動範囲に仕掛けられるだけ罠を仕掛けた。あとは運を天に任せるだけだ。

 太陽は変わらず燦々とイスキュロスに降り注いでいた。


***


 玉座の王に跪くイスキュロスの前には所狭しと魔物獣の毛皮や牙が並べられている。老齢の鑑定士がひとつ、またひとつと身長に鑑定していく。

 イスキュロスは微動だにせず、跪拝したままだった。

 腰巻だけを着けた体には夥しい数の傷がついていた。傷の多さからしてイスキュロスが王宮を離れていた三か月がどんなに過酷であったかがうかがえる。

 イスキュロスが持ち込んだ首や毛の持ち主は兵から選りすぐった親衛隊十数人が連携をして仕留められるほどの魔物獣だった。

 けして大柄ではない、少年にしか見えないイスキュロスがそれだけのことを成し遂げたのだ、とその場にいた誰もが理解せざるを得なかった。

 その怪物イスキュロスが膝を折っている相手が王であり、王は当然の如くそれを受け入れている。神を宿す人外を受け入れている。

 イスキュロスの排斥を唱えていた者たちは一様に震えあがった。自分たちはなんと恐ろしいことを口にしていたのだろう。

 神の怒りに触れればただの人間でしかない自分たちはあっさりと命を落とすしかないというのに。みっともなく震える体を押さえ、ただただ平伏するしかなかった。


「王よ。ここにある品々は紛れもなく本物です。イスキュロス様は見事に厄災の獣十頭を討伐成されました。贖罪を果たされました」


 王にこうべを垂れた鑑定士が高らかに宣言した。王は重々しくうなずき、その場にいる者たちを見渡した。


「我が子イスキュロスは贖罪を果たした。これらの首の山、毛皮の山がその証である。これにより王の裁可なく罪人を処断した罪を贖ったこととする。異論のある者はいるか」


 水を打ったように静まる広間からはなんのいらえもない。わずかの衣擦れの音すらしなかった。


「……異論はないようだな。

 イスキュロスよ。汝の罪は取り払われたり。

 無事に戻ってなによりだ。よくよく体を休ませるとよ良い。下がれ」

「はい」


 イスキュロスは粛々と王に従い広間を後にした。


「おかえり、イスキュロス。無事に戻ってきてくれて嬉しいよ」

「兄上。ただいま戻りました」


 自室に向かう途中の廊下でアリステロスがイスキュロスを労わった。深々と頭を下げ、抱き着こうとしたイスキュロスだったが、止められる。


「先に風呂に入ってこい。ひどい臭いだぞ」


 アリステロスの言葉に両手を広げたままのかっこうでイスキュロスの動きがぴたりと止まる。かすかに戦慄いて、自らの臭いをかいだ。


「……………わかりません」

「そうだろうな。自身の体臭はわからないものなのだ。悪い事はいわないからすぐさま風呂へ直行しなさい。シンジュオスは我慢してでもおまえの抱擁を受け入れるだろうから」

「はい……」


 しおしおと力なくしおれて、イスキュロスはおとなしく風呂場へとむかった。流す湯が濁らなくなるまで徹底的に自分の体を洗いつくした。


「にーに、にーに、シンね、待ってたよ!」

「………!」


 三か月ぶりに対面した弟の柔い体を抱きとめる。シンジュオスに名を呼ばれるのもよかったが、にーにと呼ばれるのも悪くなかった。むしろ良い。


「いつの間にかこんなに喋れるようになっていたんだな、えらいぞ、やはりおまえは天才だなシンジュオス」

「うふふ、久しぶりですね、イスキュロス。元気なようでなによりです。ちなみにですけれど、あなたが何もかもを察してシンジュオスが喋る機会を奪っていなければもっとはやく流暢に喋れていたと思いますよ」

「お久しぶりです正妃様ははうえ


 にこ、と正妃とイスキュロスは笑みを交わし合い、イスキュロスは都合の悪いことは聞かなかったことにした。


「シンジュオス、長らく留守にしていて悪かった。息災でなによりだ。待っていてくれてありがとう。兄はこの通りおまえのもとに帰ってきたぞ」

「おかえりにーに!」


 きゃらきゃらと陽の光のごとき笑顔をイスキュロスに披露しながらシンジュオスが抱き着く。

 かわいい弟の成長を三月みつきも見られなかったのは遺憾の意だが、反省はしても後悔はすまい。

 胸いっぱいにシンジュオスの匂いを嗅ぎながら、イスキュロスはこれからもシンジュオスを守ると父神に改めて誓ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

琥珀の太陽、黒曜の月 結城暁 @Satoru_Yuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ