第2話 主人の目覚め

「お目覚めですか」

 涼やかな声だった。

 短く切った髪がよく似合う声の主は、切れ長の目を花弁のように開き、僕を見た。ブルーの目が、夜空のように深く、星空のように輝いている。彼女は再び目を閉じると、そのまま立ち去った。僕はまだ思考がはっきりとせず、彼女が去っていくのをぼんやりと見ることしかできなかった。

 僕は椅子に座ったまま眠り込んでいたようだ。しかし、柔らかなクッションのおかげか、身体が痛いということはない。あるいは、さほど長い時間眠っていなかったのか。その割には、自身がどこにいるのかまるで見当がつかないほどに、意識が混濁している。

 天井は高く、高窓のステンドグラスから差し込む光に秩序はない。風が通る度、花が舞うように、光が揺れる度、色が降る。

「ねえ、僕は今どこにいるんだい」

 重い頭を持ち上げてようやく、自分の頭上に何か重い物が乗っていることに気が付く。それを手に取ると、赤い冠だった。ちょうど、一国の王が被るような、宝石がふんだんにちりばめられている王冠のようだ。

 顔を上げ、周囲を見回す。座っているのは入り口正面から伸びる導線上の絢爛な椅子。

 玉座で寝込んでいたのだろうか。

「ねーえ、誰かいる?」

 聞こえるのは自身の声の反響と、風の抜ける音、それに乗ってきた鳥の囁きだけで、建物内は静まり返っていた。先ほどの彼女と僕だけしかいない、なんてことはないだろうと、僕は冠を置いた。

 椅子の背後には袖廊が延び、その壁には床から天井までに及ぶ絵画があった。祈る一人の少女が描かれている。

「お呼びですか」

 袖廊に先ほどの短髪の女性が立っており、絵を見上げていた僕に近づく。

「用事というわけじゃあないのだけれど、僕はそう……どうしてここに?」

「貴方の存在意義レゾンデートルについて、私が答えることに意味があるでしょうか」

「いや、そういう意味じゃないんだ」

 給仕のようなロングドレスを纏う彼女は、至って落ち着いて僕の問に答えていた。けれども僕の問いに、僅かに眉をひそめる。変なことを聞いた自覚はある。

「そうですか、覚えていらっしゃらないのですね」

 彼女は口に手を当てて、しばらく何かを考えているようだった。けれどもその次に出て来たのは、僕の問いに対する回答ではなく「空腹ではないですか」という言葉だった。

「そうだね、気になる程ではないのだけれど、何か口にしたいかな」

「であれば、お茶をご用意いたしましょう。ご案内いたします」

 目を閉じると彼女は廊下の上をすべるように歩きだした。目を完全に閉じていては歩けないのだろうから、僅かに開けているのだろうか。

 僕は答えを急ぐのをやめた。


 白い壁に金のレリーフが施された部屋に案内された。相変わらず天井が高く、窓も大きい。窓の外には砂の白と空の青だけが広がっている。

「僕は、客人なのかい」

「ある意味、そうですね」

「僕は主人でもあるのかい」

「ある意味、そうですね」

 茶を入れる彼女の一挙一動が、無駄なくスマートだ。およそ人の及ぶ動きではないようにも見えるし、常に目を閉じているのも気になる。僕は、彼女のことも知らないし、およそ自身のことに関しても何一つわからない。ここがどこなのかも。

「そのうち、思い出すだろうか」

「どうでしょうね。記憶というのは曖昧で、確かに不確かですから」

 不思議とこの状況に落ち着いている。彼女が僕にお茶を入れるのも、机の上に並べられた幾多の甘味も、僕にはそうあるべきものに見えるから、これが僕の日常なのかもしれない。僕が何にも心当たりがないことも、その一部に思えた。だから、必要のないものであるのなら、無理にそれを拾う必要はない。ないということに、不安を覚えないのだからと思い始めていた。

「……僕達の他に、ここには誰かいるのかい」

「ええ、恐らく」

 僕は彼女の言葉について、特に問う気にもならなかった。少しずつ、すべてがそういうものなのだという、理由のない納得が芽生え始めていた。

 彼女に差し出された湯気の立つカップも、白に金の装飾が施してあり、この部屋によく馴染む。

 彼女はお茶の支度を終えると、僕の横に静かに立ち尽くした。

「君は食べないのかい」

「ええ、これは貴方にご用意したものですので」

「そうかい」

 赤いお茶が香る。窓の外にはずっと青い空が続いていて、地平線で白と青に分かれている。

「砂漠」

「外はずっと砂で覆われております」

「さっき、鳥の声を聞いたんだ」

「中庭のものでしょうね。あそこには草木がありますから」

「街は」

「ないですよ、ここには」

 目を閉じたまま、顔色を変えずに彼女はこちらを見た。陰に佇み、静かにこちらを見据えている。瞳がなくても、見られていることを感じた。

「どういう意味なのか、聞いてもいいかい」

 僕はマフィンに手を伸ばすのをやめた。

「世界の崩壊です。完成された世界は崩壊へと向かう。この世界は少しだけ、特異に出来ているようですけれど、それは奇跡が存在するからでしょうか」

「崩壊? それで、街も緑もないのかい」

「ここには」

 彼女は首をかしげ、外を見た。僕もその視線を追った。白と青だけがある。

「ここは一体」

「お気づきではないのですね。ここには方角も時間も曖昧なままです」

「それは、崩壊のせいなのかい」

「あるいは、そう見えているだけなのかもしれませんが」

 耳を澄ますと、風も止んだようで何も聞こえなくなっていた。彼女の息さえも聞き取れない。

「そうなると、人はどうなるんだい」

 目を閉じたままの彼女は相変わらず、人形のように表情一つ変えない。

「世界には祈りという奇跡が存在します。それが尽きるまで、命は奇跡で永らえるでしょう。ただ、それがあるべき形かどうかはまた、別の話です」

「形を変えて生き続けるのは、自然の摂理に即してはいないかい」

「その範疇を越えているのでしょう。世界には許容できないほどの祈りが存在しているから、奇跡の形も歪んでしまっているのです」

 遠くの国の話をするみたいに、もしくはおとぎ話の結末を聞かされているかのように、淡々と語られる。

「そんなことが、あるんだね」

「ありえない、なんてことはどこにも、ないのかもしれません」

 永遠に形を変えながら生きる者も、それが祈りによって歪むことも、この世界ではあり得ることらしい。僕の思っている世界というのは、もっと単純なものだ。

「じゃあ、僕達はここで終焉を迎えるのかい、形を変えながら」

「残念ながら、ここは世界と言っても果てです。昼も夜も曖昧な、存在すらも不確定な」

「僕の記憶も」

 彼女は眉を僅かに歪めた。

「……ですので、終わりを目撃するだけ、なのかもしれません。その先のことに関しては、今は誰にも分かりません」

「でも」

 この世界を作った神様なら、こう終わっていくことくらいは分かっていたんじゃないだろうか。あり得ないなんてことがないのなら、神様がいるとするのならと、想像した。

「予定調和は存外難しいのです。万能ということも、矛盾の上に成り立つ不安定なもの」

「じゃあ、いびつなまま世界は崩れていくのかい」

「ええ。……いえ、歪だからこそ、かもしれません。衰退ではなく、崩れ落ちるのが奇跡を包括した世界の成れの果てなのです。永遠の命さえも孕んでしまった世界の末路なのです」

「永遠の命?」

 耳障りには違和感がある。

「ええ、祈りから生まれた奇跡が、それを可能とする花となり大地に芽吹く」

 けれどもそれが祈りから生まれたのならば、望まれた奇跡なのだろう。

「それは、悲劇なのだろうか」

「だから、祈りなのです。歪なものでも、形として残り何者かが求める」

 結果はどうあれ、望まれたものであることには変わりがないのだ。

 カップの中でお茶は、赤い水面をわずかに揺らした。

「世界はいずれ壊れていくものでも、多分世界の崩壊というのは、自然に反した状態で存在している。それは、何者かの祈りによって」

「いかにも。終わりまで」

「ここも、昼も夜も曖昧なままで、いつかぱったりと終わりが来るのかい」

「いかにも、何もせぬのであれば」

「君は、それで構わないのかい」

「どうでしょうね」

 静かに立ったままの彼女の声は冷たかった。彼女の横顔も、陶器のように美しくも冷ややかだった。

「貴方の仰いたいことは、察しがつきます。それでも私はここにいる。ただ、それだけなのです。それ以上もそれ以外も、関係はない。そうあるべくして生まれたのだから。では、そうでない貴方はどうされたいのですか」

 瞳を見せずとも、彼女は僕の中身を、その先を見透かすかのようにこちらを向いていた。

「全てが奇跡なら、代償としては安いのかもしれない。僕にとっての幸せが他人の幸せかはわからないけれど、滅びゆく身体を見ながら意識を失うのと、あるべき生に縋りながら自らを手放すのとでは全く違うっていうことは分かるよ。祈りによって歪んでしまったのなら、本来の形があるということなのだから」

 きっと、その歪みを除く奇跡もあり得るのだろう。

「猶予はどのくらいあるんだい」

「永久に」

「そうであるのなら早急に出発した方がいいね」

「仰せのままに」


 この小さな城のことを僕は何も知らない。荷物は彼女が用意してくれた。けれども、大層なものではなく、少しの硬貨と水、衣類だけが袋に納まっていた。袋を背負い、マントを羽織る。軽い素材で出来ているが、丈夫なもののようだ。

「二度と戻ってくることはないでしょう、よろしければこれを」

「これは?」

 差し出されたのは木の杖だった。床に突き立てると僕の肩ほどの高さがあり、上部にはこぶし大の輪が象られている。大きさの割には軽く、持ち歩くのに負担にはならなそうであったが、必要性が一切感じられなかった。

「必要となれば相応の価値を示します」

 彼女がそう言うと、杖の周囲に一陣のつむじ風が起こった。

「魔法の杖、か」

「ご準備は宜しいでしょうか」

「持ち物ははじめから何もないから。ああ、けれども地図か何かは必要だね」

「ここでは意味を持ちません。そういうときの杖でございます」

 そういえば、ここには方角も昼も夜もないのだと言っていた。

「魔法の杖がかい? 僕は魔術を嗜んでいたのかい」

 メイドはうっすらと青い瞳を覗かせた。

「貴方が気になさっている点は、問題ないかと思います」

 案内され城を出ると、窓から見えた通り、地平線まで真っ白な砂地が続いていた。空はどこまでも青いが、肝心の太陽の位置は分からなかった。

 彼女の方を見るといつの間にかその横に、長身の男が立っていた。燕尾服の似合わない、蛇のような顔をしている男だ。

「君は」

 僕が声をかけるより先に、メイドが答えた。

「この砂漠を抜けるまで、お供いたします。参りましょう」

 メイドは僕の杖を青い瞳で見た。地図の代わりとして、どうにか使うらしい。

 僕は無意識に、砂の上に杖を立て、唱えた。

「【風よ、我が道しるべとなり給え】」

 ゴウと風が吹くと砂の上にうっすら、けもの道のように細い一筋が現れた。彼女達はその筋を辿り歩き始める。僕もその後ろに続き、砂漠を歩み始めた。


 どれほど歩いたかはわからない。太陽が見当たらないせいで、全く時間の流れがわからないのだ。歩みを進める度に砂に足を取られるせいで、想像より早く疲労が出てきた。時折メイドと執事は僕の方を振り、返り立ち止まる。僕以上にこういう場所を歩くのに向いていない恰好にもかかわらず、二人は一切の困難を見せなかった。砂の上をすべるように歩いてゆく。

「歩くコツとか、あるのかい」

「私達はそういうように作られていますから。貴方には魔法があります」

 メイドが答えている間、男の方は黙って首を傾げていた。

「でも、呪文を何一つ知らないんだ」

「呪文は必要ありません。全てが貴方に従いますから」

「不穏なことを言うね。歩きやすくなーれ」

 試しに杖を振ってみたが、先ほどのようなことは一切なく、何も起こらなかった。

「従うのは世界のほうですから」

「世界の方?」

 メイドと執事は僕に背を向け、再び歩き始めた。

 道を作るために魔法を使った時、僕は無意識に、誰かに身体を扱われているかのように、杖を構えて唱えていた。僕に世界が従うという意味が呑み込めずにいる。けれどもその言葉通りに、僕以外のものが僕の目的を果たすように、曖昧なイメージを作った。

 杖は僕の腕によって一回転、風車の羽根のように回される。

「【砂よ、我が行く先の足場となれ】」

 突風が吹き、目を瞑る。すぐに周囲の風が落ち着き、ゆっくりと瞼を開く。周囲には何も変化がないように見える。振り返ると、城は砂の山に隠れ、既に見えなくなっていた。前を向けば、メイド達にかなり引き離されていた。先ほどまではある程度離れたら僕を待っていてくれていたのに、三十メートル程先まで歩いて行ってしまっている。

 思わず僕は走り出した――ところ、砂に全く足を取られなくなっていた。立ち止まり、杖で砂面をつつくと岩面のように砂が固まっていることがわかった。これが魔法の効果らしい。彼らにこれ以上引き離されないよう、小走りで後を追った。


 随分と歩きやすくなったものの、照り付ける光がじわじわと体力を奪っていく。暑さ自体は不快なほどではないが、衣類の上から熱せられているという感覚があった。それはまた、のどの渇きを促した。

「君たち、水分補給はしなくて大丈夫なのかい」

「ええ、私達にそのような問題はございません。お休みになられますか」

「いや、大丈夫ならいいんだ。水を飲んだらすぐに追うよ」

「左様にございますか」

 砂の上を難なく歩く彼らは、きっとこの環境にかなり順応しているのだろう。メイドも男も、城を出たときから表情一つ変えていない。当然、その肌に汗は一粒も見えなかったが、僕も汗はかいていない。空気が乾燥しているのだろう。しかし不思議と、そのほかの不調はなかった。

 水を二口飲み歩み出すと、少し先で二人が立ち止まっていた。追いつくと、砂上の道しるべが途切れていた。

「道が終わっている」

「ええ、ここが切れ目なのでしょう」

 方角も時間も曖昧な世界。太陽は空に見えず、延々と続く砂漠。そんな場所のがここなのだろう。いや、彼女は確かだと言っていた。逆だ。ここから先が世界なのだ。

 杖をその場に突き立て、目を瞑る。

 ここが文字通り切れ目であるのなら、開いてやればいい。

「【風よ、この先への橋となれ】」

 下方から身体が浮いてしまいそうなほどの風が吹きつけ、徐々にそれは竜巻のように、その場で風の柱を作った。

「これが出口です。ここから先へ、私達は行けません。そのように作られておりますので。どうか、貴方の旅が良いものであるようにと願っております」

「これが出口……ここまでありがとう」

 目の前には風の柱があるのみである。しかし、その周囲はわずかに空気が揺れるのみで、竜巻ともまた違う現象のようだ。

 二人に礼を告げ、風に片足を踏み込む――と同時に、周囲に四つの別の柱が轟音と共に立ち上った。直後、その風の中から錆色の、表皮が泡立つ巨大な塊が現れた。粘性のかなり高い液体のようにも見えるが、ある程度の体積を保ちながらこちらへ向かってきている。幸い、僕が踏み込んだ風からは現れなかったが、四方を囲まれている。

「何だい、これは……!」

「世界の歪みです。お気になさらず、このために私達は来たのですから。先を急いでください。ゲートはいずれ閉まります」

 彼女はロングスカートの下から二本の棒を取り出し、執事は砂を蹴り上げ、空中でどこからか出した大きな刃物を構えて塊に切り込む。

 柱を見ると、先ほどより幅が狭くなっているように見えた。急がなければならないらしい。

「短い間だったけどありがとう!」

「礼には及びません。私達はこのために作られたのですから。それに」

 彼女の声を最後まで聞き取れずに、僕の身体は風の中へと吸い込まれていった。

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