名も無き魔術師の旅行記

N's Story

第1話 大賢者の謁見

「大賢者様に初めてお会いするときは、必ず名乗ってください。でないと、多分口をきいてもらえませんから」

 それを聞き、客人は困ったように首を傾げた。

「あっ、お名前がなければ自分を現す肩書などを名乗ってください。ありふれたものですと、やはり無視されてしまうかもしれませんが」

 少女が木の扉を二回ノックすると、暫くして扉の奥から何かを崩すような音が聞こえた。続いてゆっくりと重そうな扉が開く。

「大賢者様、貴方のお知恵をお借りしたいというお客様です」

 大賢者と呼ばれたその人は、呼び名の仰々しさとは対照的だった。今の今まで眠っていた獣のような姿をしている。

 少女を一瞥すると、目線だけを客人に向けた。赤い髪をかき上げながら、口をわずかに動かす。

「アンタは?」

「はじめまして、僕は旅をしている者です」

 客人は先ほどの少女の忠告を無視した。大賢者は「ああ……」と答え、黙って宙を暫く見ていたが、「まあ良い」と呟き部屋へ二人を招き入れた。

 部屋の中には大きな暖炉があったが、その中で音を立てているのは普通の炎ではないようだ。半透明の赤い色の決勝のようなものが、絶えず形を変えながら音を立てている。恐らく、魔術か何かで熱を放出しているのだろうと客人は想像した。

「丁度退屈していたところなんだ。レティシア、用はそれだけか?」

 レティシアと呼ばれた少女は静かに返事をし、礼をすると部屋を出ていった。暗黙の了解なのだろう。それを見送るでもなく、大賢者は客人をソファへ案内した。ソファの前の机には、かつて塔をなしていただろう本が雪崩れている。しかし、大賢者はそれを気にするでもなく、空いたスペースに茶の入ったカップを置き、客人である旅人の向かいに座った。

「そして旅人、アンタはここへ何しに来た?」

「貴方は、たくさんのことを知っているとお聞きしました。街の皆さんは貴方を賢者と呼んでいる」

「知識などではない、そこにある全ての情報から導いただけだ。だから、私の記憶は時間の変化に関係なく変化する。知を欲するのであれば、私より図書館の方が適しているぞ」

「いえ、それは何を知りたいのかはっきりとしている場合にばかり有効な手段です。僕は、僕自身の記憶がないこと、そして僕が何者であるかを知りたいのです」

 大賢者はカップの茶を啜ると深く息を吐いた。

「医者でも哲学者でもなく、私にそれを? 普通であれば追い返しているが……」

「普通であれば?」

「そう、普通であれば、アンタが旅人だと言った時点で、追い返していた。だが、アンタは普通じゃない。私の知っている中ではの話だが」

「そう、なのですか?」

「まるで他人事だな」

赤いソファに大賢者は体を預け、目を瞑る。

「後天的であれば、焦るんだろうな。人間にとって記憶がないことは不安……不安定さを生む」

「気づいたら、記憶がなかった。自分が何者なのかもわからなかった、それだけですから」

「それ、だけ、ね。まあ、私も私だ。私がもし、アンタについて何か言及できるとしたら、それは私が大賢者と呼ばれなかったときに限る。街のヤツらは、私にそういう呪いをかけているんだよ。自分たちに必要な力を持った存在を、自分たちに都合のいい役に割り振る。だが、それは不幸にもその能力を失わせるのに十分なことなんだ」

旅人は考えた。つまりそれは、自身では力になれないという意味なのだろうかと。

沈黙がいつから始まったのかわからなくなった頃に、大賢者は目を開けた。

「単に、期待しているような答えが出るとは限らないという意味だ。だが、アンタはそれをきっと了承する。そして、アンタはその記憶のない中、どうしてここまで来たのかを語る。私は聞き手に徹するというわけだ。つまり、アンタは旅の記録を開示するためにここに来た。それでいいか?」

客人は暫く目を丸くしていたが、ゆっくりと穏やかな笑みを浮かべた。

「ええ、それでは、僕が目を覚ましたところからお話ししましょう」

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