第六節 『管子』に見られる城郭観とその背景
以上に『管子』に見られる城郭の記述を検討してきた。その結果、統治者側に必要な富国強兵の政策を論ずる『管子』は、その総合的な富国強兵を達成するために必要な要素として城郭を議論し、その防衛機能、住民管理機能、治水に関係した民生上の機能などに注目していることがわかった。そして城郭の管理は国家行政の一環として行政主導によって行われるものとしていた。
これら城郭の管理や機能の活用は政治経済の具体的な環境を背景にして議論されていた。『管子』に想定されるその政治経済の環境とは、商業経済と消費文化の発展、農業の衰退、貧富の差の拡大と人口流出という社会経済上の問題が表面化して城郭の維持に支障をきたしており、これらの問題の政治的解消に国家が取り組んでいき、富国強兵を目指していくという状況であった。これは前章第三節に検討した『韓非子』に見られる社会背景と城郭の関係と、高い関連性を持つ問題であると思われる。ただし、こうした関連性を検討するには、もちろん『韓非子』の成立に韓という国家と地域が深く影響したことと同様に、『管子』に関しても、その成立の背景に斉という国家と地域の持つ影響力を考慮に入れなければならない。
『史記』貨殖列伝では、斉の地勢風俗について「斉は山海を帯び、膏壌千里、桑麻を宜しくし、人民多く、文綵・布帛・魚鹽あり。臨菑は亦海岱の間の一都会なり。其の俗寛緩闊達にして、智足りて、議論を好む。地重くして動揺し難く、衆闘に怯むも持刺に勇み、故に人を劫かす者多し。大国の風なり。其の中に五民を具す」と述べている。斉は絹麻の産地であり、農業よりも織物などの手工業と製塩業で有名であったようである。その住民は都市的で、情報に接する機会が多いためか知識があって議論を好み、集団行動よりも個人主義的な傾向があった。『管子』は商業を「末」として抑制し、農業を「本」に据えてその振興を図る、重農政策を基調としていたが、『史記』貨殖列伝の記事からは、素朴に農業に励む農民の姿を想像することはできない。このような人民を統制するのには、非常な困難を伴ったと予測される。
さらに『管子』に想定される貧富格差の問題に関して、その内容に斉との関係が深いとされる『孫臏兵法』では、士卒の選抜方法に関して「夫れ民に寿に足らずして貨に余りある者有り。貨に足らずして寿に余りある者有り。ただ明王、聖人之を智り、故に能く之を留む」(行簒篇)と、貧富の格差が存在することを現実に認識した上で、それを士卒選択の考慮事項に含めていた。また、岡田功氏は『史記』孟嘗君列伝を検討し、戦国中期に斉の属国である薛において貧富の格差が進行しており、その状況を君主がまだ政治的に認識していない状態にあったことを指摘している(注52)。そしてこの『史記』孟嘗君列伝では、貧困者への借金の取立てを無理に行えば「即ち以て逃亡し、自ら之を捐てん」という、住民の逃亡が発生することを問題としている。これは『管子』問篇に「邑の貧人、債して食う者、幾何家か」と、貧困にある債務者の人数を把握する必要に迫られている事態と対応している。
こうした斉の状態を反映してか、『管子』には「百姓養わざれば、則ち衆散亡す」(宙合篇)、「衆散じて収まらざれば、則ち国は丘墟と為る」(八観篇)、「民の已に聚まりて散ずるは何ぞや」(侈靡篇)と民が「散」じることを問題とする史料が多い。そして、民の逃散の原因と結果は七法篇に、
百匿傷上威、姦吏傷官法、姦民傷俗教、賊盜傷国衆。威傷、則重在下。法傷、則貨上流。教傷、則従令者不輯。衆傷、則百姓不安其居。重在下、則令不行。貨上流、則官徒毁。従令者不輯、則百事無功。百姓不安其居、則軽民処而重民散。軽民処重民散、則地不辟。地不辟、則六畜不育。六畜不育、則国貧而用不足。国貧而用不足、則兵弱而士不厲。兵弱而士不厲、則戦不勝而守不固。戦不勝而守不固、則国不安矣。
とあるように、民の「散」じる原因は国家統制の乱れとそれによる治安の悪化であり、民が「散」じた結果は農業の衰退と、民によって維持される軍隊の弱体化であるとしている。こうした民の逃亡は『孟子』梁恵王下篇にも「凶年饑歳にして、君の民、老弱は溝壑に転じ、壮者の散じて四方に之く者、幾千人なり」とあるように、戦国中期から発生していた事態であった。これはかなり日常的な状態であったようで、『孟子』滕文公下篇では「士の仕うるは猶農夫の耕すがごとし。農夫豈疆を出ずるが為に、其の耒耜を舎てんや」と遊士が仕官を求めて他国へ赴くことを、農夫の他国への移住にたとえている(注53)。
人間が絶えず生活の可能な場所を求めて移動するのは、古今東西不変の社会現象であるが、こうした事態が深刻化するほど、城郭の維持管理は困難なものになっていくのは容易に想像される。『管子』に想定される城郭防衛は「地の守りは城に在り。城の守りは兵に在り。兵の守りは人に在り。人の守りは粟に在り。故に地辟かざれば、則ち城固からず」(権修篇)と、定住農民とその農業生産に支えられるものであるとしていた。しかし彼ら農民を土地に縛りつけ、国防に使用することは困難を要するものであったらしい。『管子』九変篇では国防に必要な九つの条件を次のように挙げている。
凡民之所以守戦至死、而不徳其上者、有数以至焉。曰、大者、親戚墳墓之所在也。田宅富厚足居也。不然則、州県郷党与宗族、足懐楽也。不然則、上之教訓習俗慈愛之於民也厚、無所往而得之也。不然則、山林沢谷之利、足生也。不然則、地形険阻、易守而難攻也。不然則、罰厳而可畏也。不然則、賞明而足勧也。不然則、有深怨於敵人也。不然則、有厚功於上也。此民之所以守戦至死、而不徳其上者也。今恃不信之人、而求以智、用不守之民、而欲以固、将不戦之卒、而幸以勝、此兵之三闇也。
①祖先祭祀の対象となる親戚の墓があると同時に、その土地に田地と宅地があって、経済的に豊かな生活を送っている。
②その土地の住民と自分の属する宗族の関係が良好である。
③善政が行われていて、その土地から離れれば、行政上の恩恵が受けられなくなる。
④山林沢谷から十分な資源が確保できる。
⑤地形が険阻で防衛に有利な安全な土地である。
⑥刑罰が厳重に施行され、民が国家に逆らわない状態である。
⑦恩賞が公正に行われ、民が国家への協力に励む状態である。
⑧敵国に高い敵愾心と復讐心がある。
⑨今までも国家へ大きな功績を挙げている。
そして、民が国防のために戦うのはこれらの条件によるのであって、決して君主の徳に慕っているからではないとしている(注54)。その大半の条件は民の都合によっており、これは『韓非子』五蠧篇にある「民の故計は、皆安利に就き、皆危窮を辟く」という民の性格を反映した認識であるだろう。この中で①から⑤に関しては、生活する土地への定着が問題となっており、これは裏返せばこれらの条件を満たさなければ、民は容易にその土地から離脱するものと考えられていたのである。そのため『孟子』梁恵王下篇「民と与に之を守り、死を效すとも民去らずんば、則ち是れ為す可きなり」や、『韓非子』五蠧篇「其の民の死を致して、以て其の城守を堅くせしめれば、天下其の地を得れども則ち其の利少し」とあるように、いかに住民の逃亡を防いで、彼らを防衛戦に投入するかが、大きな問題となってくるのである。
このため『管子』では、『管子』全体の先頭の篇である牧民篇の冒頭に「凡そ地を有ちて民を牧する者は、務は四時に在り、守りは倉廩に在り。国多財なれば、則ち遠者来たり、地辟挙すれば、則ち民留処す。倉廩実ちて、則ち礼節を知り、衣食足りて、則ち栄辱を知る」とあるように、農業によって蓄財を行い、人民を集めて安定した生活を保障し、彼らを定住させることを目的とする農業振興政策を基本方針として掲げていた。これは富国強兵政策であるとともに、城郭の問題と関連させれば、国防体制の維持にもつながるものであった。特に城郭に関しては、城郭の修繕管理が国家の責任で行われることを想定しているため、その修繕の労働力となる定住農民の国家管理下からの離脱は、絶対に避けなければならない事態であった。しかし権修篇に、
地之守在城。城之守在兵。兵之守在人。人之守在粟。故地不辟、則城不固。有身不治、奚待於人。有人不治、奚待於家。有家不治、奚待於郷。有郷不治、奚待於国。有国不治、奚待於天下。天下者国之本也。国者郷之本也。郷者家之本也。家者人之本也。人者身之本也。身者治之本也。故上不好本事、則末産不禁。末産不禁、則民緩於時事、而軽地利。軽地利、而求田野之辟、倉廩之実、不可得也。
とあるように、「本事」である農業の振興に努めなければ、「末産」である商業によって、国家の防衛体制が破壊された。特に飢饉や戦争に備えて行われる、政府の食料備蓄体制への商業経済の影響が深刻視されている。八観篇には、
国地大而、野不辟者、君好貨、而臣好利者也。辟地広、而民不足者、上賦重、流其蔵者也。故曰、粟行於三百里、則国毋一年之積。粟行於四百里、則国毋二年之積。粟行於五百里、則衆有飢色。
君主と臣下が財貨や利殖を求めて、貨幣経済が進展すると、粟を売却して貨幣に交換する事態が発生し、国家全体の食料備蓄が行われなくなり、飢饉に対応する能力を失うとしている。また七臣七主篇では、
時有春秋、故榖有貴賤。而上不調徭、故游商得以什伯其本也。百姓之不田、貧富之不斉、皆用此作、城郭不守、兵士不用、皆道此始。
国家による穀物の価格調整によって投機商人の活動を抑えなければ、農民が耕作意欲を失い、貧富の差が拡大し、城郭防衛も不可能になり、兵士が弱体化する原因になるとしている。だが、この農業と商業の関係については、治国篇に「今、末作奇巧を為す者は、一日作きて五日食らい、農夫は終歳の作きにして自ら食らうにも足らず」とあるように、行政の介入や保護がなければ、農業の経済競争力は商工業に敵うものではなく、『韓非子』五蠧篇の社会分析にあるように、利殖を求める人々は、何かしらの規制がなければ利益効率のよい商工業へ、生活手段を移行させるのが自然の形勢であった。そしてこうした形勢は放置しておくと、社会分解を促進し、国家の公共機能を失わせて、農民の逃亡を発生させ、城郭防衛も不可能になると『管子』は認識していた。こうした認識が現実のものであった例として『史記』周本紀の次のような説話が挙げられる。
(赧王)四十二年、秦破華陽約。馬犯謂周君曰、請令梁城周。乃謂梁王曰、周王病。若死、則犯必死矣。犯請以九鼎自入於王。王受九鼎而圖犯。梁王曰、善。遂与之卒、言戍周。因謂秦王曰、梁非戍周也。将伐周也。王試出兵境以観之。秦果出兵。又謂梁王曰、周王病甚矣。犯請後可而復之。王使卒之周、諸侯皆生心。後挙事且不信。不若令卒為周城、以匿事端。梁王曰、善。遂使城周。
秦の圧力に脅威を感じた周は城郭を建造して防衛を強化しようとしたが、そのための労働力を魏から調達することを馬犯という謀臣が画策し、魏を詐術にかけて、魏の軍隊に周の城郭を建造させたという話である。その文章構成から考えて、おそらく『戦国策』に類する文献から引用された説話であり、必ずしも歴史的事実であるとはいえないが、ここで注目されるのは、周のような小国には人民を徴発して城郭を建造する能力がないという認識である。『史記』周本紀において、周の滅亡の際、秦に献上した人口は「尽く其の邑三十六、口三万を献ず」とあって、非常に少ない。しかし『史記』貨殖列伝では、周の都があった河南地域は「夫れ三河は天下の中に在り、鼎足の若し。(中略)土地小狭なれども、人民衆く、都国諸侯の集会する所なり」と、交通の要衝であり、人口の集中する場所であるとされ、流通業が盛んであったと思われる。この矛盾は、周の実際上の人口が少ないのではなく、農民として国家管理下に把握されていた住民の数が三万人であったのであって、その他の人口は流動的な人口であったと想像される。そのため周本紀では秦への降服直後に「周王赧卒す。周の民遂に東に亡ぐ」と民の逃亡が発生している。おそらく周の住民管理能力は相当に低いものであったと思われる。これでは当然、城郭の修築をはじめとした国防政策など行えるはずもなく、周は秦に大した抵抗もできずに降服する。こうした事態の危険性を感じる人々にとっては、商業による繁栄よりも、定住農民を管理下に収めて、彼らの労働力によって城郭を強化する方が、国家維持の現実的方策であると判断したであろう。
しかしこうした、城郭の維持管理を困難とする社会状況が進行する中で、度地篇に見られたように、国家は都市住民を主導して城郭の維持管理を行う義務を負っていた。これは食料・資材の備蓄などとともに、国家の安全保障体制を構成する重要な問題であったが、前章第三節で取り上げた『戦国策』趙策一の、秦に対する韓の上党郡への安全保障能力が不能化したことを受けて、上党郡全体が趙への離脱転向を画策した事件にあるように、国家による対外安全保障体制の維持がなされなければ、住民はその支配下からの離脱も容易に行ったのである。これが『管子』の背景にある斉という国家と地域にも当てはまる問題であるかはわからないが、先に引用した九変篇に見られたように、民が国防のために戦う理由は自らの生活上の都合によるもので、君主の徳によるものではないとする認識はこうした事態への認識を反映したものであると思われる。少なくとも彼らには、国家への帰属意識や義務的奉仕の精神はなく、ただ安全保障上の利害の一致によって、国家の支配統制に従うだけの存在であると認識されていたのである。この利害関係の喪失は、支配関係の喪失をも意味し、これは国家にとって極めて高いリスクのある問題であった(注55)。そのため、国家は住民の民生環境を整えてその逃亡を防ぐ一方で乗馬數篇に「戦国は其の城池の功を修む。故に其の国は常に其の地の用を失う。王国は則ち時を以て行うなり」とあるように、彼らの民生環境を損ねない範囲での、安全保障体制の維持を行っていかなければならなかったのである。
このように『管子』に見られる城郭を取り巻く環境は、『韓非子』五蠧篇に見られた社会環境と近似した状態にあった。特に『管子』は政治経済的背景から議論を展開する特徴を持っており、城郭の修築や食料の備蓄といった安全保障上の問題は、商業経済の浸透や農民生活の困窮とそれにともなう農民の逃亡などの問題を背景として扱っていた。度地篇で行われる水害対策と城郭の修築もまた、民生環境を整えることで住民の定着を狙ったものと判断される。その一方で彼らとは戦争に対する安全保障上の利害の一致によって結合しており、国家は安全保障上の義務を負った。そのため『管子』では、民生環境を損なわない範囲での城郭の修築といった、バランス感覚の必要な行政を要求されたのである。
こうした『管子』に見られる城郭観は、前章第三節に検討した問題を補足する内容であるといえるだろう。つまり、戦国後期の城郭に対する関心の高まりは、戦争拡大という現実的問題に対応するためのものだけではなく、城郭の修築と食料の備蓄という、本来ならば問題とするには当たらない当然なことを問題として認識し、主張しなければならない戦国後期の社会状況を反映したものであったのである。特に『管子』にあっては、この内政面にあっての安全保障体制の維持が困難な社会状況に配慮しつつ、同時に対外的安全保障体制を維持する義務を要請されるという、現実における社会矛盾を反映した城郭観であった。これらの状況は『管子』が統治者側の立場から、その現実的な方策を説く姿勢によって、他の諸子文献よりも明確かつ具体的な形であらわれたものと思われる。
『管子』には各篇の成立年代などに、依然として多くの史料的問題が残っているが、以上に見てきたように『管子』全体の城郭に関する記述には戦国後期の城郭観が強く反映されており、そこには今後ともに多くの研究価値が含まれているものと思われる。
(注53) ただし、この「散」が単純な土地からの逃亡なのか、それとも『韓非子』五蠧篇にあるように、有力者の「私門」に入ることも指すのかは判然としない。しかしどちらにしても、国家管理下から住民が逃亡するということには変わりはない。
(注54) 『墨子』備城門篇にも守城の条件にほぼ同様の項目を列挙している。
「凡守圉之法、城厚以高、壕池深以広、高楼撕循、守備繕利、薪食足以支三月以上、人衆以選、吏民和、大臣有功労於上者多、主信以義、万民楽之無窮。不然、父母墳墓在焉、不然、山林草沢之饒足利、不然、地形之難攻而易守也、不然、則有深怨於適、而有大功於上、不然、則賞明可信、而罰厳足畏也」
この内容はあまりにも『管子』九変篇と近似しており、両篇の成立には何かしらの関連があるものと思われる。
(注55) こうした関係は(注32)に引用した『墨子』号令篇の「守」と城内の住民との関係にあらわれている。また佐藤直人氏は「秦漢期における郡―県関係について―県の性格を中心に―」(『名古屋大学東洋史研究報告』二四 二〇〇〇)において、秦末楚漢戦争期の県の動向を分析し、その結果、秦の県統治は、父老などを中心とした県の武装組織を、秦政府の派遣した県令が在地の有力者などと協力して統括しており、それは都市防衛などの軍事に関する利害関係を中心とした統治体制であったとしている。
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