第三節 『韓非子』に見られる社会背景と城郭

 ところで『韓非子』詭使篇には、次のような史料がある。


倉廩之所以実者、耕農之本務也。而綦組錦繡、刻画為末作者富。名之所以成、城池之所以広者、戦士也。今死士之孤、饑餓乞於道、而優笑酒徒之屬、椉車衣絲。賞禄所以尽民力易下死也。今戦勝攻取之士、労而賞不霑、而卜筮視手理、狐蟲為順辞於前者、日賜。


 穀倉が満ちるのは本務である農耕がしっかりなされているからであるが、そうであるのに織物や手工芸などの末作に携わっている人間の方が富んでいる。君主の名声を広め、城郭城濠を拡大するのは戦士の功績であるが、そうであるのに戦死者の遺児が乞食になり、娯楽を提供する芸人などが馬車に乗り高価な服を着ている。賞与や俸禄は民に力を尽くさせ、命にも換えるものであるのに、戦いに功績のあるものが賞与にあずからず、占い師や弁舌の巧みなものばかりが、その賞与や俸禄の恩恵にあずかっている。

 『韓非子』は本章第一節に述べたように、その戦国末という時代の社会背景の強い影響下に成立した文献であった。詭使篇において認識されるその城郭を取り巻く社会背景は、商工業者や芸人、占い師に弁舌家などの直接国家の役に立たない職業にある人々が優遇されているのに、飢饉や戦争に備えて必要な食料の備蓄に直接関係する農民の生活が貧しく、戦争や城郭の建造など軍事国防に携わる士卒が不遇に扱われているという状況である。これは社会階層の経済的分解という社会環境が、城郭の強化と直接影響しあう問題として認識されていることを示すものである。その社会分析は五蠧篇に詳しい。そこでしばらく『韓非子』五蠧篇の示す社会状況と城郭の関係について考察してみたい。

 五蠧篇の社会分析は、


古者丈夫不耕、草木之実足食也、婦女不織、禽獣之皮足衣也、不事力而養足、人民少而財有余、故民不争。是以厚賞不行、重罰不用、而民自治。今人有五子、不為多。子又有五子、大父未死、而有二十五孫。是以人民衆而貨財寡、力労而供養薄、故民争。雖倍賞累罰、而不免於乱。


とあるように、古代から現代に至るまでの人口の増加による、需要と供給のバランスの崩壊によって、供給の足りない財物を人々が争って求め合う、混乱した社会状況であるとしていた。この分析が正しいかどうかは措くとして、ともかく『韓非子』においては八説篇にも「当今は力に争う」とあるように、現代を「大争の世」と呼んで実力主義の競争社会と認識していた(注31)。そして五蠧篇はこの状況を、


今則不然、其有功也爵之、而卑其士官也。以其耕作也賞之、而少其家業也。以其不収也外之、而高其軽世也。以其犯禁罪之、而多其有勇也。毀誉賞罰之所加者、相与悖繆也。故法禁壊而民愈乱。(中略)不事力而衣食、則謂之能、不戦功而尊、則謂之賢。賢能之行成、而兵弱而地荒矣。人主説賢能之行、而忘兵弱地荒之禍。則私行立而公利滅矣。


国家の定める価値基準と民間の価値基準が食い違い、さらに国家の価値基準が民間の価値基準に侵食されてきており、国家の統治能力は「故に私行立ちて公利滅ぶ」と、弱体化の傾向にあると判断している。そして続いて、その主なる原因を「儒は文を以て法を乱し、侠は武を以て禁を犯す、而して人主兼ねて之を礼す」と、儒家をはじめとする学者と、国家統治の枠外に活動する侠客の活動に求めている。

 戦国時代にあっては有能な人材を集めるために学者や侠客を尊ぶ風潮があり、彼らは君主や戦国四君をはじめとした有力貴族のもとに集まって公的な保護を受けた。そしてこれらは人民にとって生活向上を図るための、ひとつの手段となっていた。五蠧篇において財貨を争うとされている人々は、「民の故計は、皆安利に就き、皆危窮を辟く」とあるように、当然ながら、より効率よく収入を得られ、苦労や危険の少ない手段を求めて行動する。


夫耕之用力也労、而民為之者、曰、可得以富也。戦之事也危、而民為之者、曰、可得以貴也。今修文学、習言談、則無耕之労、而有富之実。無戦之危、而有貴之尊、則人孰不為也。是以百人事智、而一人用力。事智者衆、則法敗、用力者寡、則国貧。此世之所以乱也。


 人民が農耕に務め、戦争に参加するのは、「富」と「貴」のためであるが、農耕のように労力がかかり、戦争のような危険と接さなくとも、学問や弁論で公的な保護を受け、富貴を得られるのであれば、その方が楽で安全であり、人々は多く学者になることを目指すようになる。特に弁論で身を立てた能弁な外交官などは、


是故事強、則以外権市官於内、救小則以内重求利於外。国利未立、封土厚禄至矣。主上雖卑、人臣尊矣、国地雖削、私家富矣、事成則以権長重、事敗則以富退処。


合従連衡の外交政策を提案し国際政治を利用して個人の利得を図り、その発言の責任も取らない。彼らは「公」の利益よりも「私」の栄達を優先する個人主義者たちであり、国家の害悪と認識されている。また国家が、戦争に参加する人民を功労し、その生活を保障しないと、


窮危之所在也、民安得勿避。故事私門、而完解舎。解舍完則遠戦。遠戦則安。行貨賂而襲当塗者則求得。求得則私安。私安則利之所在。安得勿就。是以公民少、而私人衆矣。


民は苦労や危険を避けるものであるから、兵役などの公的負担の重さに耐えられなくなれば、「公民」の立場を捨てて有力者の「私人」となり、公的負担から逃れて、戦争に行かなくて済む安全な立場を求めるようになるものが多くなる(注32)。さらに、国家は農業を奨励し、商工業を抑圧するべきであるが、


今世近習之請行、則官爵可買。官爵可買、則商賈不卑也矣。姦財貨賈得用於市、則商人不少矣。聚歛倍農、而不貴耕戦之士。則耿介之士寡、而高價之民多矣。


現状は商工業者と君主の近臣が癒着して官爵を買うことができ、商工業者は自らの身分を保障することができた。それでいて商工業は農業よりも利益率が高いため、まじめに農業に励むよりも、商工業に生活の道を求める人々が増加する状態にあったとしている。

 以上に五蠧篇に見られる社会状況は、人民が個々人の利益を求めて争う時代にありながら、国家は法禁によってその統制を行う能力を失い、「国を富ますには農を以てし、敵を距ぐには卒を恃む」べきであるのに、「事に服する者、其の業を簡にし、而して游学の者、日ごとに衆し」という、「公利」に社会の力を集約できずに、個人の利益や生活を優先する「私行」を許してしまう状況であった。

 このような韓の社会統制能力の弱体化は、実際に『戦国策』趙策一に登場する次の事件にあらわれている。韓の桓恵王一一年(前二六二年)、韓は秦に敗れて、自領である上党郡を秦に献上して講和しようとしたが、上党郡の守である靳黈は秦に降るのを潔しとせずに、この命令を拒否して徹底抗戦の構えをとった。そのため韓王はすぐさま靳黈を解任して馮亭に交代させたが、馮亭は韓に上党郡を守る力はないと判断し、「馮亭、守ること三十日。陰かに人をして趙王に請わしめて曰く、韓、上党を守る能わず。且に以て秦に与えんとするも、其の民皆秦と為るを欲せずして、趙と為るを願う。今城市の邑七十有り。願わくは拝して之を王に内れん。唯だ王之を才されんことを」(『戦国策』趙策一)と、上党の住民の総意として、趙への寝返りを計画したのである。この事件は『史記』趙世家にも登場するもので、歴史的事実である可能性が高い。この事件から理解されることは、韓王の命令は臣下や都市住民の意志や生活上の都合によって容易に無視され、さらに彼らは韓による安全保障上の利益を享受できなくなれば、趙という別の安全保障の請負先を求めて、その離脱転向も容易に行ったということである。この一連の事件に韓の社会統制能力の弱体な状況が窺われる(注33)。

 こうした社会背景と城郭を結び付けるとき、考えるべきことは、城郭はその性格上、本来的に公共的なものであったということである。詭使篇に「城池の広くする所以の者は、戦士なり」とある、城郭を建造する戦士は、国家から徴発された農民であった。しかし五蠧篇に示される社会状況は、国家の統制能力の低下により、個人主義的な社会風潮が広まった社会であった。そのため国家の労役負担を避けて、有力者の「私人」となる人々の存在に示されるように、国家機能の一部である公共機能もまた同様に低下する状況にあったものと思われる。特に五蠧篇に非難される、商工業者や侠客、学者や外交官などは、その社会身分的性格から農民ほどに土地に依拠しない、国家の危機に当たっては、自己の持つ技術や人脈を頼って国外に逃亡するという選択肢を持つ、社会的責任能力の回避が可能な人々であり、そのような人々が国家に重用される事態は、城郭の修築や食料の備蓄のような、公共行政の施行を困難にするものと捉えられていたと考えられる。このような状況は、『孟子』梁恵王上篇に「上下交利を征らば而して国危からん」とあるように、すでに戦国中期に顕在化してきた「利」を優先することによる社会分解の傾向の、末期的状況であったといえよう。

 こうした環境下にあっては、城郭の修築や食料の備蓄という行政上の措置が、十全に施行できない事態の発生に繋がったと考えられる。ここから『墨子』後期成立部分や『韓非子』において、城郭の修築や食料の備蓄という本来問題がなければ殊更言及する必要もないであろう定常的な行政に関する強い主張は、こうした戦国後期に見られる社会分解という状況から発生したと考えることができるのではないだろうか。戦国後期の城郭に対する関心の高まりは、戦争拡大という現実的問題に対応するためのものだけではなく、行政上の城郭の維持が社会事情によって困難になっていった時代を反映したものであったと推論できる。

 そこで次章では、戦国時代の城郭に関する問題が多く含まれている『管子』を用いて、戦国後期の城郭を取り巻く環境について、より詳しく検討してみたい。


(注31) 『韓非子』の歴史観については、稲葉一郎「韓非子の歴史観―戦国諸子における歴史観の発展(二)―」(『人文論究』四七―四 一九九八)を参照。

(注32) この有力者の国家との具体的な関係については、『墨子』号令篇に詳しい。

「守入臨城、必謹問父老吏大夫、諸有怨仇讐不相解者、召其人明白為之解之。守必自異其人而藉之、孤之。有以私怨害城若吏事者、父母妻子皆断。其以城為外謀者三族。有能得若捕告者、以其所守邑小大封之、守還授其印、尊寵官之、令吏大夫及卒民皆明知之。豪傑之外多交諸侯者常請之、令上通知之、善属之、所居之吏、上数選具之、令無得擅出入、連質之。術郷長者父老、豪傑之親戚妻子、必尊寵之、若貧不能自給食、上食之。及勇士親戚妻子、皆時賜酒肉、必敬之、舎之必近太守」

 ここでは「守」と呼ばれる防衛司令官が、派遣先の都市に入った際、「守」が尊重しなければならない城内の人間について書かれている。それは「術郷長者父老」「豪傑」など城内の有力者層の人々であり、「守」は彼等の家族の生活の保障を行っている。特に注目するのは「豪傑之外多交諸侯者」という「豪傑」の存在である。彼らは城外の勢力と個人的な結び付きを持つ有力者で、おそらく侠客の類と深いつながりのある者と思われるが、彼らを特に細心の注意を払って厚遇する一方、家族を人質に取って裏切らないようにし、その懐柔、服属を図っている。一方で「守」は反抗を画策する住民を捕らえた者に、印を授けて官としていることから、その賞罰の権利は君主から与えられたものであったことが理解される。このように君主の持つ賞罰の権限を委譲された「守」であっても、都市有力者の協力がなければ、守城を行えなかったのである。有事にあってこの状態であるから、平時にあってのその統制は、より困難なものであったと推測される。彼らの存在と活動は、君権強化によって国家の建て直しを考える韓非の目には、排除すべき障壁と映ったであろう。

(注33) 江村氏はこの『戦国策』趙策一の内容と考古資料を照らし合わせて、韓を含む三晋地域の諸都市は、経済的実力によって制度的独立性を国家からある程度に認められた都市郡であったとしている。江村氏前掲書。

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