第四章 『韓非子』に見られる城郭観

第一節 韓非の思想環境と『韓非子』

 韓非は韓の王族の生まれで、後に秦の宰相となる李斯とともに荀子に師事したが、弁舌が不得意だったため、著述を主として活動したことが知られる。韓非子は、西隣の強国秦の脅威にさらされ、内政機構も弱体化し、衰亡の一途をたどる韓の国情を憂え、政治のあるべき姿を模索して著述活動を行った。その韓非自身の著作に、韓非の思想に連なる他の著作者の文献を交えて編纂されたものが現行の『韓非子』である(注27)。しかし、韓非は韓の安王六年(前二三三年)、使者として秦に赴いた際、かねてより孤憤、五蠧の韓非の著述の書を愛読していた秦王政によって、韓非が重用されて自分の地位が脅かされるのを恐れた李斯の讒言に遭い、毒をあおいで自殺する。それは戦国最末期のことであり、その三年後の安王九年(前二三〇年)に韓非子の生国韓は秦によって滅ぼされた。

 これら韓非の事跡に、『韓非子』の思想形成環境の特徴が見える。小野沢精一氏はこの思想環境の特徴を三点に分けて解説している(注28)。

 第一は戦国最末期という時代性である。戦国最末期とは、つまり古代が終わって秦による統一国家が出現する寸前の切迫した時代であり、この環境にあって韓非は、多種多様に発達した戦国諸子思想を集約して取捨選択し、その中から時代を乗り切るための思想を生み出さなければならなかった。そのため自然に『韓非子』は諸子思想の総括的立場に立つことになる。これは『荀子』と同様の立場を持つものであり、『荀子』の立場を受け継いだものとして、その師弟関係とともに古代思想で注目される観点となっている。

 第二は、韓という国柄の環境である。韓は当時の中国の中心にある地域であり、情報は四方から集まり、流通を押さえて商業は盛んであったが、その反面、社会は流動的で社会矛盾も多かったと考えられる。また、韓は地政学的には、西の強国秦の圧迫を筆頭に、南は楚、北は趙、東は魏に囲まれ、合従に組みしても、連衡に寄っても、常に戦争の先頭に立たされて消耗を強いられる、国際的圧迫の運命にある小国でもあった。そのため、戦国時代の時代と社会の問題が、最も切迫した形で韓の国情に浮かび上がり、その社会状況は『韓非子』の思想傾向とその内容に反映されている。

 第三は、韓非が韓の王族の一員であるという環境である。その視点は他の諸子と異なり、政治論や国家論をその外面からのみ取り扱わず、政治指導者である君主の内幕、その人間関係の現実から理論を構築することが可能であった。また、韓非は王族の中では重用されることがなかったために、かえって市井に出ることが比較的自由であった。そのため、任侠や商人などをはじめとした民間の人間の性向や社会状況の問題を考察することができ、王族と民間の上下の視点から思想を展開することができた。

 以上の三つの環境から『韓非子』は成り立っており、その思想的傾向は、戦国末期という時代に、韓のような地政学的小国の抱える現実的な政治社会の問題を、師である荀子から受け継いだ合理主義的自然観の視点で冷静に分析し、その解決を求めて、先行する多種多様な諸子思想を総括的に取捨選択し、現実的に対応能力のあると判断される理論のみを抽出して、自己の思想に組み込んでいったものと考えられる。そしてその思想は、結果として後に法家と呼ばれる思想傾向を持つものに至ったのである。

 これらから『韓非子』という文献は、戦国末期の社会状況を色濃く反映したものであると判断できる。では、こうした性格を持つ『韓非子』の城郭観は、どのようなものであったのだろうか。(注29)


(注27) 『韓非子』の各篇のどこまでが韓非自身の著述であるかについては、木村英一『法家思想の研究』(弘文堂書房 一九四四)や容肇祖『韓非子考證』(台聯国風出版社 一九七二)など諸論あり、議論の紛糾するところである。しかし、本稿では韓非個人の城郭観よりも、『韓非子』全体にあらわれる、戦国末期の城郭観について分析することを目的とするため、この問題に関しては措いておくことにする。

(注28) 小野沢精一『全釈漢文大系 韓非子(上)』解説(集英社 一九七五)

(注29) 『韓非子』に関しては陳奇猷撰『韓非子集釈』(世界書局)を参照した。

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