第三節 『荀子』の思想と城郭観

 荀子の思想の特徴は、天論篇に「故に人を錯きて天を思わば則ち万物の情を失う」とあるように、「天」と「人」とを分離して、「人」の努力を推奨する点にあらわれている。それは形而上学の否定であり、人間を支配する迷信的権威の否定である。正統的な儒家思想では、「天」は道徳的権威の象徴であった。また道家思想にあっては、「天」は絶対的な自然秩序であり、人間はこの「天」に従った生活をするべきであると主張し、人間的な活動を否定していた。荀子はこうした「天」の権威性や規範性から発生する民間の迷信を否定し、「天」への依存を断ち、「天人の分」と称して、「天」とは「人」に対する外的自然と考えて客体化し、それに「人」が、主体的な自主的独立性や積極的活動性が発揮して「天」に作用するよう主張した。つまり、形而上の権威に頼るよりも、形而下の人間的努力を重視するのである。こうした態度は、ものごとを客観的に捉える合理主義的自然観につながり、『荀子』独自の思想の基盤となっている(注25)。

 こうした合理主義的自然観によって認識される世界は、儒家の想像する理想的な世界とは異なる、戦国後期という時代の現実であった。つまり君主権の強化、天下統一の機運、封建社会の分解、攻伐并兼の戦争の激化である。儒家思想の伝統は古代の聖王である「先王」の時代に行われたとされる、道義的で理想的な政治を説くものであり、先王思想と呼ぶべきものであった。しかし『荀子』にあっては、「先王」の古い時代を知るためには、「先王」の制定した「礼」の伝統を、「百王」の長い間に受け継いできた「後王」、すなわち現在により時代の近い王者に模範を求めるべきであるとする、後王思想を展開した。この後王思想は、荀子の目的とする「礼」による統治理念が、古代の「先王」から「百王」を経て現代の「後王」に何かしらの形で含まれていると考え、その「礼」理念を具体的政策に反映している現代の「後王」の在り方を、模範として容認する思想である。そのため荀子は王覇篇に「故に百王の法は同じからざるに、帰する所の者は一なり」というように、理念の維持がなされれば、実際上の政策は柔軟なものであって構わないとして、政治を古代の理想的状態の中で固定的に考える先王思想の立場に立たなかった。後王思想は、荀子の合理主義的自然観が戦国時代の社会状況を現実的に認識し、現実に有効な実際的な政治を要求したがために生み出された立場であった。

 この立場はまた、孟子の否定した覇者の容認につながっている。『孟子』告子下篇に「五覇は三王の罪人なり」とあるように、孟子は王道を勧める立場から、覇者を否定していた。しかし、荀子は王制篇で「王」「覇」「彊」の三つの道の別を論じて、「王」を最善、「覇」を次善、「彊」を否定し、覇者を王者に比べて道義的には劣るが、よく秩序を構築して、人民の福利と平和に貢献できる君主としてこれを容認していた。これは覇者が現実的実行力のある君主であり、戦国後期の混乱した社会状況において、秩序形成に必要とされる存在であったためである。

 これら他の儒家に見られない後王思想や覇者の容認といった立場は、その主張の実行のハードルを他の儒教思想に比べて低くすることができ、そのため自らの思想に現実的対応能力を身に付けさせるとともに、実際的方策を要求する現実に存在する君主を説得するための有力な材料となったと思われる。

 こうした、社会混乱を正すものとして期待された「後王」や「覇者」が、実行すべき方策とされたのが「礼」であった。荀子の「礼」はその合理主義的自然観に基づいて、儒家的な「徳治」思想と、戦国後期の現実的政治状況に対応した権力・秩序の在り方を構想することとの結合点に誕生した概念である。この「礼」思想は、人間の性を悪としてこれを放置して節度が失われると、社会的混乱を招くとする有名な性悪説に基づき、これらを善に教導して国家的に統一するために、「後王」と称される道徳的君主によって施行される「礼」の規範に沿って、人々の行動を当てはめていくというものであった。このため荀子の「礼」は、その内容こそ道徳的理念を含んでいたが、実際の運用上にあっては外面的要素を重視する形式主義、法治主義の性格の強いものであった。

 こうした「礼」の外面重視は、その制度的側面を強調することによって、漠然としやすい君主の行うべき道義的実践と方策を具体化することができ、これもまた後王思想や覇者の容認のように、荀子の思想の説得力を増すのに貢献したものと思われる。

 以上のように『荀子』に見られる、合理主義的自然観、後王思想、覇者の容認、「礼」の外面重視等の思想的傾向を、その城郭観と照らし合わせると、「礼」による統治という、荀子の掲げる最終目標を達成するためであるならば、他の儒家が否定的なものでも、これを説得の材料として積極的に利用していく姿勢において共通していることがわかる。そしてそれらは全て、戦国後期の社会状況、つまり君主権の強化、天下統一の機運、封建社会の分解、攻伐并兼の戦争の激化を反映したものであった。この社会状況は、荀子に孟子をはじめとする他の儒家のような、「先王」の理想的政治だけを議論する立場を許さなかったのであろう。しかし荀子のこうした現実に対応した思想にあっても、その「礼」思想そのものは儒家思想に支えられた理念であって、その行為は現実を理念化するという、現実に立脚しない虚構的性格の強いものであった(注26)。荀子はあくまで儒家であったのである。そのため、荀子の思想の現実的対応を見せる部分は、「礼」による統治によって儒教理念が達成されるために、城郭や覇者などを否定する枝葉末節の儒家的伝統を切り捨てた、修辞的説得手法の性格を一層に帯びさせたと思わせる。

 こうした荀子の思想的背景に基づいて、その城郭観をあらためて見てみる。荀子の城郭観は基本的に儒家一般の城郭観を共有しているが、しかし戦国後期の社会状況を反映して、城郭の強化を求める君主に「礼」による統治が実現されることによって、その要求も達成されると説得するものであった。そのため儒家一般に否定的であり、孟子にとっては「已む無くんば」であった城郭の防衛機能について、結論の説得効果を高める上で肯定的な利用を図った。これは孟子の城郭を否定することによって、儒家の徳目を効果的に主張する利用法とは反対の方法であった。こうした説得手法と結び付いた荀子の城郭観は、後王思想や覇者の容認と同様に、荀子の掲げる「礼」による統治体制の達成という最終目標と照らし合わせて、著しい理論矛盾をきたすものでない限りは、これを容認して理論の強化につなげる姿勢を反映したものであったと思われる。そのため、荀子の城郭強化策は「礼」の理論に吸収される形でしか肯定されず、議兵篇にあるように、城郭単独での強化については否定的見解を持っていたようであり、『墨子』後期成立部分に見られるような、城郭の修築、食糧の備蓄、良好な外交状態の確保といった、安全保障面での具体的言及はなされていない。荀子の城郭に対する関心は、その思想的背景と兼ね合わせて考えれば、自己の理論展開上において現実との折り合いが要求される場合においてのみ、その関心が払われるものであると判断してよいだろう。荀子はその合理主義的自然観において、後世の研究者に唯物主義者であると呼ばれることもあるが、それでも荀子はあくまでも儒家であったのである。

 以上に『荀子』の城郭観を見てきた。その城郭観は荀子の理論展開上にのみ肯定的に扱われる説得のための素材であり、『孟子』に比べれば、城郭の防衛上の機能について肯定的であったが、それも「礼」を主張する必要がある場合に限られたものであり、『墨子』の後期成立部分に見られる、城郭の防衛機能に対する直接的言及に比べれば、その関心は低いものであった。ここから、『荀子』は戦国後期という社会状況を反映して、戦国中期成立の『孟子』に比して城郭について高い関心を払わなければならない状態にあったが、それでも儒家である荀子は、思想的に『墨子』の後期成立部分に見られるような城郭の防衛機能に関する直接的な関心を抱くまでには至らなかったと分析できる。

 それでは次に荀子の弟子であり、戦国末期に活動した韓非の城郭観を、『韓非子』に見ていきたい。


(注25) ただし児玉六郎氏は、荀子の天観は完全な自然天道観ではなく、妥当性の低い部分にだけあってその立場を見直して適用したのであって、見直す必要のない部分には、人間を支配する主宰天道観を堅持していたとしている(児玉六郎『荀子の思想』風間書房 一九九二)。氏の見解は本節に考察する荀子の思考的傾向と一致していると思われる。

(注26) 内山俊彦『荀子―古代思想家の肖像―』(評論社 一九七六)、茂沢方尚「商子・荀子・韓非子の「国家」―回帰と適応―」(『「韓非子」の思想史的研究』近代文芸社 一九九三収録)

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