第二節 『荀子』の城郭観

 荀子は議兵篇において趙の考成王(在位前二六六年~前二四五年)の前で、楚の将軍である臨武君なる人物と軍事について議論している。そこで臨武君は用兵の要訣について考成王に問われ、「上は天の時を得、下は地の利を得、敵の変動を見て之に後れて発し、之に先んじて至る。此れ用兵の要術なり」と答えている。これに対して荀子は「然らず。臣の聞く所の古の道にては、凡そ用兵攻戦の本は民を壱にするに在り(中略)故に兵の要は善く民を附するに在るのみ」と答えている。臨武君はこれに「然らず。兵の貴ぶ所は埶利なり。行く所は変詐なり。善く用兵する者は感忽悠闇にして其の従りて出ずる所を知ること莫し。孫・呉もこれを用いて天下に敵なし。豈に必ずしも民を附することを待たんや」と反論するが、これに荀子は「然らず。臣の道う所は仁人の兵にして、王者の志なり」と答える。

 以上に明らかなように、荀子の立場は、兵家の主張である戦場での将軍の用兵術を説く臨武君に対して、儒家の主張である人心一統による王者の軍隊を説くことにあった。そしてその王者の軍隊とは、「王者は誅有るも戦無し。城の守りたるは攻めず、兵の格うは撃たず、上下の相喜べば則ち之を慶し、城を屠らず、軍を潜ませず、衆を留めず、師は時を越えず。故に乱れる者は其の政を楽い、其の上を安んぜずして其の至らんことを欲するなり」というように、必要最低限の戦闘しか行わず、正々堂々とした振る舞いで戦い、民を不必要に傷付けず、その徳に敵国の国民もなびいて、王者の軍隊がやってくるのを心待ちにするような、理想的な軍隊であった。これは『孟子』の公孫丑下篇「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という「人和」を最重要視する立場や、尽心下篇「国君仁を好めば、天下に敵無し」といった王道論の立場と一致する。

 こうした立場にあって『荀子』における城郭の扱いも『孟子』と同様の傾向を持っていた。『荀子』では、続いて議兵篇にこのような城郭観が見られる。


礼者治弁之極也。彊国之本也。威行之道也。功名之摠也。王公由之所以得天下也。不由所以隕社稷也。故堅甲利兵不足以為勝、高城深池不足以為固、厳令繁刑不足以為威。由其道則行、不由其道則廃。


 「礼」による統治こそが国家を強くする根本であり、そのため「堅甲利兵」や「高城深池」「厳令繁刑」は国家を強くするには「不足」であるとしている。議兵篇は、さらに続いてこのように主張している。


古之兵、戈矛弓矢而已矣。然而敵国不待試而詘。城郭不弁、溝池不拑、固塞不樹、機変不張。然而国晏然不畏外而固者、無它故焉。明道而分鈞之、時使而誠愛之、下之和上也、如影嚮。


 古代の聖王の時代には強力な武器はなかったが、しかしそれらすら用いる必要もなく、敵国が屈服したのは、「礼」による統治がなされていたためであり、そのため、「城郭」「溝池」「固塞」「機変」といった、各種の防衛設備を建造するまでもなく、畏れる敵はいなかったとしている。そしてまた王制篇には、


司徒、知百宗・城郭・立器之数。


王者の用いる制度の中に、城郭を管理する官職が祭祀関連の仕事と一体となって設定されており、『荀子』にあっても、儒家の都市理論の特徴である「礼」の体現のために城郭を必要とする立場を共有していた。

 このように荀子の城郭に対する態度は、孟子と同じく儒家であり、城郭の形而上の機能、つまり「礼」を体現するための存在としては認めても、城郭の形而下の機能、つまり防衛上の機能については否定的な立場を取っていた。だが、先の議兵篇に「堅甲利兵」「高城深池」「厳令繁刑」を否定的に扱っていたが、これらでは国を強くするには「不足」と呼んでいたことについては留意が必要である。これについて考えるために、『荀子』の他の箇所での城郭についての記述を見ていく。

 さて、『荀子』に見られる城郭についての記述を集めていくと、「兵勁城固」という語が頻見されることに気付く。以下、「兵勁城固」の語を含む史料を引用してみる。


①王制篇

殷之日、案以中立無有所偏、而為縱橫之事、偃然案兵無動、以観夫暴国之相卒也。案平政教、審節奏、砥礪百姓、為是之日而兵剸天下勁矣。案修仁義、伉隆高正法則、選賢良養百姓、為是之日而名声剸天下之美矣。権者重之、兵者勁之、名声者美之。夫堯舜者一天下也、不能加毫末於是矣。権謀傾覆之人退、則賢良知聖之士案自進矣。刑政平、百姓和、国俗節、則兵勁城固、敵国案自詘矣。務本事積財物、而勿忘棲遲薛越也、是使羣臣百姓皆以制度行、則財物積、国家案自富矣。三者体此為天下服、暴国之君案自不能用其兵矣。何則彼無与至也。彼其所与至者必其民也。其民之親我歡若父母、好我芳若芝蘭、反顧其上、則若灼黥若仇讐。彼人之情性也、雖桀跖、豈有肯為其所悪賊其所好者哉。彼以奪矣。故古之人、有以一国取天下者、非往行之也。修政其所、莫不願、如是而可以誅暴禁悍矣。故周公南征而北国怨、曰、何独不来也。東征而西国怨、曰、何独後我也。就能有与是闘者与。安以其国為是者王。


②王覇篇

徳雖未至也、義雖未濟也、然而天下之理略奏矣、刑賞己諾信乎天下矣、臣下曉然皆知其可要也、政令己陳、雖覩利敗不欺其民、約結已定、雖覩利敗不欺其与。如是則兵勁城固、敵国畏之、国一綦明、与国信之、雖在僻陋之国、威動天下。五伯是也。非本政教也、非致隆高也、非綦文理也、非服人之心也、郷方略審労佚、謹畜積、修戦備、齺然上下相信、而天下莫之敢当也。故斉桓・晋文・楚莊・吳闔閭・越勾踐、是皆僻陋之国也。威動天下、彊殆中国、無他故焉。略信也。是所謂信立而覇也。


③君道篇

故上好礼義、尚賢使能、無貪利之心、則下亦将綦辞譲、致忠信、而謹於臣子矣。(中略)故賞不用而民勧、罰不用而民服、有司不労而事治、政令不煩而俗美、百姓莫敢不順、上之法象上之志、而勧上之事、而安楽之矣。故籍斂忘費、事業忘労、宼難忘死、城郭不待飾而固、兵刄不待陵而勁、敵国不待服而詘、四海之民不待令而一。夫是之謂至平。


④君道篇

君者民之源也。源清則流清、源濁則流濁。故有社稷者、而不能愛民不能利民、而求民之親愛已、不可得也。民之不親不愛、而求其為已用為已死、不可得也。人不為己用不為己死、而求兵之勁城之固、不可得也。兵不勁城不固、而求敵之不至、不可得也。敵至而求無危削不滅亡、不可得也。危削滅亡之情、挙積此矣而求安楽、是狂生者也。狂生者不胥時而楽。


⑤彊国篇

刑范正、金錫美、工冶巧、火斉得、剖刑而莫耶已。然而不剥脱不砥礪、則不可以断繩。剥脱之砥礪之、則 盤盂刎牛馬、忽然耳。彼国者亦彊国之剖刑已。然而不教誨不調一、則入不可以守、出不可以戦。教誨之調一之、則兵勁城固、敵国不敢攖也。彼国者亦有砥礪。礼義節奏是也。故人之命在天、国之命在礼。人君者隆礼尊賢而王、重法愛民而霸、好利多詐而危、権謀傾覆幽険而尽亡。


⑥楽論篇

夫声楽之入人也深、其化人也速。故先王謹為之文。楽中平則民和而不流、楽肅莊則民斉而不乱。民和斉則兵勁城固、敵国不敢嬰也。如是則百姓莫不安其処、楽其郷、以至足其上矣。然後名声於是白、光輝於是大、四海之民、莫不願得以為師。是王者之始也。楽姚冶以険、則民流慢鄙賤矣。流慢則乱、鄙賤則争。乱争則兵弱城犯、敵国危之。如是則百姓不安其処、不楽其郷、不足其上矣。故礼楽廃而邪音起者、危削侮辱之本也。故先王貴礼楽、而賤邪音其在序官也、曰修憲命、審誅賞、禁淫声、以時順修、使夷俗邪音不敢乱雅、太師之事也。


 以上、六箇所に見られる「兵勁城固」の文脈上での使用法を見てみる。


①王制篇 刑罰が公平で、民衆が和合し、風俗に節度のある政治を行えば、「則ち兵勁く、城固くして、敵国は案に自ずから詘す」としており、さらにこうした政治を行えるものは、「是を為す者は王たらん」としている。つまり理想的王者の政治を行える者は、その徳に従って自然に国威を増し、軍隊は強く、城郭の守備は強固になり、敵対する国も服従して天下を治められるとしている。


②王覇篇 「信」を大事にして天下の諸侯に信頼され、政令の定まる国は、「則ち兵勁く城固く、敵国之を畏れて、国一に綦明からにして、与国も之を信じ、僻陋に在るの国と雖も、威は天下を動かさん」と、国力を発揚させる覇者の国になることができるとする。


③君道篇 君主が礼儀を好んで賢者を尊んで能力のある人物を使い、利益を貪るような心を持たなければ、臣下もよく働き、民も君主に懐いて、君主のために働くようになる。そのため、城郭や兵器をことさら君主が無理をして備えなくとも、城も兵も持てる力を最大限発揮してくれるから、自然と城は固く兵は強くなって君主が手を加える必要はなくなり、敵国も戦うまでもなく屈服して、四海の内の民も命令を下すまでもなく君主を中心にひとつになり、理想の統治状態が到来するとする。


④君道篇 君主が民を愛してその利益になるような政治を行なっていないのに、民に自分のために死をも恐れずに働いてもらうことを求めることはできない。そうした状況にあって、「兵の勁く城の固きを求め」ても不可能であり、さらに「兵勁からず城固からざる」状態にあって、「敵の至らざらんことを求め」ても不可能であるとし、さらにこの状態で「敵の至る」ことになれば、「滅亡せんことを求め」てもそれを避けることはできないとする。そのため、君主は常に自らの政治を省みる必要があると諌めている。


⑤彊国篇 人民を「法」や「利」ではなく、「礼」によって教化する重要性を説く。そして民衆を教育して調和統一することができれば、「則ち兵勁く城固くして、敵国も敢て攖れざるなり」という状態になるとしている。


⑥楽論篇 楽論篇は墨家の非楽論に対する反論で、正しい音楽の重要性を説いている。そこでは正しい音楽で人々を導けば、「民の和して斉えば、則ち兵勁く城固くして、敵国も敢て攖れざるなり」という状態になり、政治は安定して、君主が天下に王者となる第一歩とすることができるとする。これと反対に人心を惑わす乱れた音楽が広まれば、「則ち民は流慢して鄙賤なり。流慢すれば則ち乱れ、鄙賤すれば則ち争う。乱れ争えば、則ち兵は弱く城は犯され、敵国も之を危くす」という状態になり、国が侮られ弱体化する原因になるとしている。


 これらを見通して気付くことは、①、②、③、⑤、⑥ともに共通して、「礼」や「信」にかなった政治を行うと、その結果として「兵勁城固」になり、敵国が屈服したり、自国に干渉したりしてこなくなるとする点である。この「兵勁城固」と敵国の干渉を退けることは、④に見るように、君主の要求する国家状態を指していることは明らかであり、これらの要求はまた富国強兵の要求である。こうした富国強兵の要求が、『荀子』においては①、②、③、⑤、⑥に見られるように、「礼」の達成によってなされるものであるとしているのである。

 ここで『荀子』における「礼」理論を確認しておかねばならない。本来「礼」とは、原始社会に自然的に形成されたタブー観念が、社会発展の中で社会秩序や道徳規範に転化して、個人の行動基準や国家・政治の秩序として重視されるようになった社会的慣習であった。こうした「礼」を、尚古主義である儒家はその主張や行動の理論的根拠としていたのである。荀子はこの「礼」を発展的に解釈し、人間の性悪である欲望を抑制する「度量分界」の機能を持つものとして、古代の聖王が定めた制度とした。そのため荀子の「礼」は「聖人は思慮を積み偽故を習い、以て礼儀を生じて法度を起こす」「聖人は性を化して偽を起こし、偽の起こりて而して礼儀を生じ、礼儀の生じて而して法度を制す」(性悪篇)と、君主の「偽」と呼ばれる作為的な政治によって人間の悪性を矯正して作り上げた「礼儀」の社会秩序であり、それはまた「法度」とあるように法治的性格を含むものであった。そして「礼を隆び法を至せば則ち国に常有り」(君道篇)と、こうした法治的性格を帯びる「礼」による統治は、国家を永続させる秩序原理であり、荀子の思想が現実に求める目標であった。

 この「礼」理論をふまえて『荀子』に見られる城郭の記述を見ていくと、その城郭観は『孟子』に似通って城郭の防衛上の機能を二義的なものに考えていながら、『孟子』離婁上篇に「故に曰く、城郭完かならず、兵甲多からずは、国の災いに非ざるなり。田野辟けず、貨財聚まらざるは、国の害に非ざるなり。上に礼無く、下に学無く、賊民興れば、喪ぶること日無けん」とあるような、城郭の防衛上の機能も「礼」や「学」などの、人々を儒教的に教化する必要性に比較すれば、価値のほとんどないものとする城郭観とは異なり、むしろ「礼」による統治の実現によって、はじめて国家の持つ能力が最大限に機能して「兵勁城固」を実現し、特別な対策を行わなくても城郭の防衛機能が十分に発揮されて、敵国の干渉も退けられるようになるとする、『荀子』独自の城郭観であった。そしてこの「兵勁城固」は④に見るように、君主の富国強兵要求のあらわれであり、そのような要求を達成するためにこそ「礼」による統治が必要であると、『荀子』には説かれているのである。

 『荀子』においては、議兵篇に見られるよう「堅甲利兵」「高城深池」「厳令繁刑」の使用は、国を強くするために「礼」を使用するのに比べて「不足」であると、否定的な立場を持っていた。しかし、これらを「不足」と呼んでいたことは、むしろ「堅甲利兵」「高城深池」「厳令繁刑」、つまり「兵勁城固」が『孟子』の主張するように全く不要なものであるとは考えておらず、富国強兵に一定の役割を果たす効果のあるもの、もしくは「礼」の統治によって国威が増強された状態の体現であると考えていたと推測できる。こうした態度は、賦篇によくあらわれている。


爰有大物。非絲非帛、文理成章。非日非月、為天下明。生者以壽、死者以葬、城郭以固、三軍以彊。粹而王、駁而伯、無一焉而亡。臣愚不識、敢請之王。

王曰、此夫文而不采者与。簡然易知、而致有理者与。君子所敬、而小人所不者与。性不得則若禽獣、性得之則甚雅似者与。匹夫隆之、則為聖人、諸侯隆之、則一四海者与。致明而約、甚順而体。請、帰之礼。礼。


 この篇は謎かけの形式で主題を導く文章体裁であるが、ここでは「生者は以て寿き、死者は以て葬られ、城郭は以て固く、三軍は以て強し」とするものが何であるのかという質問に、それは「礼」であると解答している。ここに『荀子』において城郭の防衛機能は完全に否定されるものではなく、むしろ「礼」の実現によってその機能を発揮するものであるとされていたことが明らかとなる。

 しかし、その理論は果して妥当なものであるのだろうか。「礼」による統治によって、社会が安定して民心が集まり、民の自発的協力を得られるようになって、社会機能の最大限の活用を行えるようになり、そこから「兵勁城固」を達成するという理論は、まだ理解可能である。しかし⑥の正しい音楽によって「民和」することによって「兵勁城固」になるとする理論に至っては、その因果関係が「民和」=「兵勁城固」だけであり、ともかく「礼」に則って「民和」さえ実現すれば「兵勁城固」になるという、かなり強引な原理的理論展開になっている。こうしてみると『荀子』においては、これらの理論的妥当性の有無よりもむしろ、君主の要求する「兵勁城固」という結論に、「礼」による統治という自己の理論の結論を近づけることによって、君主の説得をより容易にならしめることの方を目的とする、一種の修辞法であったと考える方が妥当であると思われる。

 『荀子』においても『孟子』と同様に、「礼」や「仁」などの儒家の徳目を主張していたことには変わりはない。しかし、その主張の展開方法と城郭の関係については、『孟子』が城郭の防衛上の機能を重要視する説得対象の認識を利用して、城郭の防衛機能を否定的に引き合いとして用いることで、「礼」や「仁義」といった儒教の徳目の重要性を主張したのに対して、『荀子』においても城郭の防衛上の機能を重要視する説得対象の認識を利用していることには変わりはないが、「礼」による統治体制の樹立という荀子の掲げる目標を実現することによって、はじめて城郭の強化が果たされると主張し、だからこそ「礼」が重要であると説得するという、『孟子』とは反対の利用方法を示しているのである。これは一種の利益誘導型の説得手法であると捉えることもでき、儒家としては特異な修辞法であると思われる。

 以上に見るように、『荀子』において城郭の防衛上の機能は、絶対的必要性こそ持っていないが、全体的に容認の傾向にあったようである。そして『荀子』はそうした傾向を利用して、城郭の防衛機能を活用した新しい議論展開方法を構築していた。では、『荀子』のこうした城郭観と、儒家としては特異な修辞法は、どのような背景によって成立していたのか。こうした『荀子』の傾向は、前章に検討した『墨子』後期成立部分の城郭観の形成理由と同様に、戦国後期の戦争拡大による城郭需要の増大という環境が影響していると思われるが、その判断は『荀子』全体の思想的背景を考察してから判断すべきものであるだろう。そこで次に『荀子』の城郭観をその思想的背景から考えてみたい。

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