第三節 『墨子』の城郭観の変遷とその背景
『墨子』と『孟子』の城郭観を比較すると、『墨子』の安全保障と城郭を密接につなげる姿勢は、『孟子』の「地利不如人和」に影響される城郭観よりも現実的であるといえる。
『墨子』には「利」という言葉に代表される実用主義の考え方があった。前節に引用した節葬下篇の論理は、厚葬久喪が国家人民を疲弊させ、人々の利益にならないというものであった。対して『孟子』では梁恵王上篇で以下のように主張している。
孟子見梁恵王、王曰叟不遠千里而来、亦将有以利吾国乎。孟子対曰、王何必曰利、亦有仁義而已矣。王曰何以利吾国、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、上下交征利而国危矣。万乗之国弑其君者、必千乗之家。千乗之国弑其君者、必百乗之家。万取千焉、千取百焉、不為不多矣。苟為後義而先利、不奪不饜。未有仁而遺其親者也。未有義而後其君者也。王亦曰仁義而已矣。何必曰利。
このように『孟子』は、上下の身分を壊す「利」ではなく、「仁義」を主張するのである。この違いが城郭の捉え方にも反映され、『墨子』は安全保障に現実的な「利」のある城郭を重要視し、『孟子』は城郭などの「地利」よりも、「仁義」による人間関係が達成された「人和」を重要視したものと考えられる。
しかし、『墨子』の城郭に関する記述が、成立の遅い篇に偏っていることは留意すべき点である。『孟子』の成書は現存する戦国諸子の文献の中で、その成立の早いものとされており、両者の比較には年代の隔たりを考慮した検討が必要となる。
城郭が防衛のために存在し、戦争に対するリスクから強化されていくものであることは明らかなことである。特に城を包囲して行う攻城戦は、大規模な土木工事的性格が強く、動員する兵力が多いほど有利であるため、城郭防衛への関心と兵力増大は密接な関係にあると思われる。そこで『孟子』に登場する魏の恵王の在位期間中(前三六九年~前三一九年)にあった、魏の戦争で兵力の明記されている記事を引いてみた。この時期は戦国中期を前後に分けると、おおよそ前半にあたる時代であり、孟子が遊説活動をする直前の時期にあたる。
斉人伐魏、殺其太子、覆其十万之軍。(『戦国策』斉策五)
恵王伐趙。戦勝乎三梁十万之軍、抜邯鄲、趙氏不割而邯鄲復帰。(『戦国策』魏策三)
斉軍入魏地、為十万竈、明日為五万竈、又明日為三万竈。(『史記』孫子呉起列伝)
昔者梁君将攻邯鄲、使将軍龐涓、帯甲八万至於茬丘。斉君聞之、使将軍忌子、帯甲八万至……競。(『孫臏兵法』禽龐涓篇)
『戦国策』、『孫臏兵法』、『史記』にある、戦国中期の大きな戦争であった斉、趙、魏の抗争で動員された兵数についての記載は、「十万」と「八万」である。戦国時代の動員兵力が数十万に達し、春秋時代に比べ遥かに増大していることは多く指摘されていることであるが(注20)、その動員兵力が激増するのは戦国後期のことであり、戦国中期の前半にあたる魏の恵王の時期にあっては、春秋晩期に示される十万程度の兵力がまだ一般的であったようである。動員兵力の増大は兵力を分割しての多方面攻撃のように戦争の空間的な規模拡大につながり、城郭を必要とする地域を拡大させたと考えられる。また先に述べたように攻城戦は大規模な土木工事であるから、兵力=労働力の増加は攻撃側の有利になり、それに対抗するための城郭の強化も必要になったと思われる。こうした戦争の空間的、量的拡大にともなって、城郭に対する意識の向上が起こったと推測できる。
ここで孟子の時代である戦国中期には、前章で検討したように『論語』などには見られない、城郭を引き合いにした議論の構築や、梁恵王下篇の滕の文公との問答で見られるような小国の防衛問題などに関して、城郭の需要は高まっていたが、まだ戦国後期に比べるとその必要性は相対的に低かったと想定することができないであろうか。そう考えれば、『孟子』の城郭への関心が『墨子』に比べて低く、また『墨子』にあっても城郭を問題とする記述が、成書年代の遅れると判断される諸篇に多いことも理解が可能のように思われる。少なくとも孟子の活動した時期にあっては、戦争の拡大傾向は続いていたが、それが戦国後期にあらわれる戦争状況にまで拡大していくという認識にはない過渡的段階であり、まだ『墨子』後期成立部分ほど、城郭を取り巻く社会環境に対して、強い緊迫感は持っていなかったものと思われる。
墨家が守城集団として活動を始めたのは前四世紀初の戦国初期であるが、この時期の兵学を伝えるとされる『孫子』には「其の下は城を攻む。攻城の法は、已むを得ざるが為なり」と、その労力から攻城戦に否定的な見解を示している(注21)。また、『上海博物館蔵戦国楚竹書』の中の「曹沫之陣」と呼ばれる、春秋後期から戦国初期のものとされる兵学に関する出土文字資料においても、会戦における勝利を重視し、攻城戦を主題に置いていない(注22)。このように攻撃側からも城郭に対する関心が低い状態であれば、守る側にあっても、ことさらそれを議論に加える必要はなかったのだろう。
これが戦国中期になると変化を生じる。伝統的に城郭の防衛機能を問題としたがらない儒家である孟子が、城郭を否定的にとはいえ議論に加える必要に迫られるほど、城郭の防衛機能への需要と関心は高まりを見せる。
さらに戦国後期になると、完全に戦国初期のような態度は許されなくなる。まず孫子兵法の後継である『孫臏兵法』においては雄牝城篇という、『孫子』では否定していた攻城を専門に論ずる篇が登場するようになる。そして防衛側はそれに対抗するかのように、『墨子』の後期成立部分に見られるように、もはや戦争開始前からの常態的な防御体制を確立しなければ、城郭の防衛はなされないとの強い自覚が現れ、自衛のためには城郭の存在はもとより、食料・資材の備蓄、場合によっては外交関係を含めた総合的な安全保障体制の必要性を説くようになったと考えられる。こうした状況は、今回検討しなかった『墨子』兵技巧書各篇にも見られ、渡辺氏は墨家の守備した城郭の規模が、初期墨家から末期墨家に至るまでに、拡大の傾向を示していったことを指摘している(注23)。
『墨子』の城郭史料に関しては、その成立時期それぞれの城郭を取り巻く環境の変化を反映していた。特に戦国後期の戦争拡大による城郭需要の高まりによって、『墨子』後期成立部分における、城郭の修築、食料・資材の備蓄などの総合的な安全保障体制を要求する城郭観を形成していったと思われる。
(注20) 楊氏前掲書、湯浅邦弘『中国古代軍事思想の研究』(研文出版 一九九九)、浅野裕一『孫子』(講談社学術文庫 一九九七)など。
(注21) 『孫子』謀攻篇「故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城。攻城之法、為不得已。修櫓轒轀、具器械、三月而後成。距闉、又三月而後已。将不勝其忿、而蟻附之、殺士卒三分之一、而城不抜者、此攻之災也」
また『孫子』の城郭観に関しては、浅野裕一「十三篇『孫子』の成立事情」(『島根大学教育学部紀要』一三 一九七九)に論及されている。
(注22) 浅野裕一「『曹沫之陳』の兵学思想」(湯浅邦弘編『上博楚簡研究』汲古書院 二〇〇七収録)
(注23) 渡辺卓「墨家の守禦した城邑について」(渡辺氏前掲書収録)。ただし氏はこの傾向を、墨家活動の保護者が微弱な豪族から、領土国家の君主へ移行したことにより、小国防衛の矜持から、大国の侵略主義への迎合へと変節したためと解している。しかしこの変化は、戦国後期の戦争大規模化にともなう、墨家の守城集団として求められる必然的な変化であったと解した方が、兵技巧書以外での『墨子』後期成立部分で見られる常時からの守備体制の要求との関係について、より理解しやすいものがあると思われる。
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