第五話 『緋色の髪の剣鬼』 その30


 ルルーシロアは舐めている。全力じゃない。それでも十分に事足りると考えていて、事実、オレたちとの差は200メートル近くに広がっている。


 ゆっくりとだが、離されている。それもまた一つの事実ではある……だが、ルルーシロアは知らない。竜と同じように、ヒトが空を読むことを。


「……ルルーの後ろを狙うんだよ、ゼファー。ルルーは知らない。自分の翼跡に、風が吸い込まれていることを……そこを狙うの。5秒で追いついて―――残りの5秒で追い抜く」


 我が妹はオレの言いたいことを全て語ってくれていたよ。だから、オレはただ無言だ。待っている。ゼファーもミアも待っている……北へと向かうルルーシロアに追いつくための南からの風。


 わずかに離されていきながらもガマンして、待っている。


 ストラウス家の血が、囁いていた。来る。この空域では滅多と来ない南南西からの風。それが来るぞと教えてくれる。


 言葉では遅すぎるからな、オレはその気配を伝えるために、左の鉄靴の内側で、ゼファーの漆黒のウロコを叩いていたよ。


 ゼファーが翼を大きく持ち上げる。太陽が隠れてオレたちは一瞬の暗闇に包まれる。大きく広げた翼が、風を掌握していく。短いが鋭いその風を、翼で一杯に受けとめて、ゼファーは加速しつつ浮かんでいた。


 40メートルほど一瞬で浮かぶ……押し潰されるような力が全身にかかる。カーリーが心配だが、須弥山の修行を信じよう。彼女の小さな腕は、オレの胴体を強く抱きしめて、負けず嫌いの声が、うぐぐううう!!と強い意志を宿した呻きとなっていた。


 ……ルルーシロアを見下ろしながら、ゼファーはその長い首をしならせる。獲物に向けた。自分が行くべき軌道をゼファーは悟っているのさ。


 言葉ではなく。


 竜騎士は動きでも竜と語る。


 オレとミアは、上半身をさらに前傾させたよ。ストラウス兄妹の動きは命じる―――空を叩け、ゼファー!!


『GAAAHHHHOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHHHッッッッ!!!!』


 竜の歌が蒼穹の世界に響き。天使の住み処を脅すんだ。漆黒の翼が蒼穹を斬り裂くように叩き割り!!暴れる風を生み出して、黒い流星のように堕ちていく。


 すべては加速のために。


 翼の羽ばたきによる力、風による推進力、そして落下による勢い……それだけか?


 いいや。


 ちがうさ。


 この加速を生み出すために捧げられているものは、それだけなんかじゃないんだよ。


 黒ミスリルの鎧さえも、壊れていくほどの強力な力だ。ゼファーの背中の筋肉は盛り上がり、その背に乗るオレたちを吹き飛ばそうとする。


 邪魔している?


 そうじゃない。竜の翼は全力を出すと、その体をムダに上昇させる弱点がある。加速には、この余分な上昇は不必要なんだ。だからこそ、オレたちは抑えている。


 竜の飛行とは見かけによらず繊細で不安定なものだ。だから、ヒトのわずかな体重でも、その運動に適合させることで、大きな支えとなってやれる。オレたちは、まあ、ゼファーがムダに浮かび上がらないための重しなのさ!!


 最適な動きを選べばね、オレたちはゼファーの飛翔をより洗練させてやれる。これが、ストラウスの剣鬼の真骨頂だ。竜騎士というのは、竜をより速く空を駆けさせる技巧を持つ者を言うのだ、ルルーシロアよ!!


 加速する。


 ゼファーが翼を暴れさせる度に、ルルーシロアとの距離が狭まっていく。ルルーシロアは驚いてはいるようだが、オレたちの動きを見て理屈を悟っている。


 なかなかの技巧だろ?


 竜の飛び方を知り尽くして、なおかつ、ちょっとした武術の達人でもなければやれない行いだ。


 ……ルルーシロアの背後に入る。ミアの語った、道がある。ルルーシロアが風を壊しながら飛び抜ける場所。あの仔に突破された風は、翼の上下に分かれて乱れている。その上の風を翼で掌握するんだよ。


 その風はより速さをもたらす風。叩き甲斐のある風だよ。そいつを翼で受け止めながら、ゼファーは羽ばたく……。


 もう5秒使っている。


 ルルーシロアは、ようやく本気になっていた。


 白い翼が蒼穹の中で、うつくしい軌道で羽ばたいている。まるで、白い花のように思えたよ―――キレイな翼だな。白い『グレート・ドラゴン』……幻想的な美しさを持ち、そして……ゼファーよりも年上なだけに、その羽ばたきが生む風も凶暴だった。


「ミア、顔をゼファーの背につけろ!」


「らじゃッ」


 ルルーシロアの翼の生んだ暴風が、襲いかかって来る。ミアの体重では、それを潜らなければ耐えきれない。ミアはゼファーの首に完全にしがみつきながら、ルルーシロアの翼の風に耐えていく。


 強い風だ。


 強い向かい風。


 だからこそ、竜の翼は、それを掌握することで、より速く飛べる!!


 ゼファーの体温が、上がる。竜ってのは、少々の運動でも体温が上がることはない、身体機能はヒトよりも遙かに優れているのだが―――竜に挑む時は、別だということだ。全身の筋肉が熱を帯びている。


 ゼファーもキツいのだ。ルルーシロアに追いつこうとするのは、ゼファーにとっても難しい行いだった。


 だが。


 逆に言えば、ルルーシロアもそうなのさ。これだけの暴風を生む羽ばたきをして、まだ仔竜の体がそう長く保つとは思えない。


 骨格にヒビが入るだろう。まあ、その経験値を使い、明日にはより強い肉体に変異しているだろうがな。


 しかし……あまりにも頻繁で急速な変異は、ルルーシロアにも、そしてゼファーにも負担が大きい。


 だから。


 これからの1秒で、決着をつけてやろうじゃないか。ゼファーもこの9秒間で限界まで追い詰められている。肺も痛いし、心臓も痛い。骨格はバラバラになりそうだし、膨張した胸の筋肉のせいで、お気に入りの黒ミスリルの鎧が、また壊れて吹き飛んだ。


 泣きそうだよな?


 分かるぜ、ゼファー、この加速合戦につき合っているオレたちも、かなり辛いものがあるからな……。


 だから、1秒だ。


 この1秒を頑張るとしよう。


 鉄靴の内側で、最後の合図を送るのだ。


 全てを出し切れと命じたよ。


 ゼファーはその通り、翼に残る全ての力を消費する。羽ばたきの回数を跳ね上げて、ルルーシロアの作る暴れる風の道から飛び出した。


 自由なる空。


 オレたちだけの道しかない場所だ。


 加速はもう十分にもらっている―――あとは、この一瞬を、ただの力でねじ伏せれば、オレたちの勝利となる!!


 翼が暴れて、ゼファーの全身の筋肉が弾けんばかりに膨らんでいく。それを、オレたち四人の体重と重心移動が支えてやる……ほんのちょっとの手助けだが、仲間を背負って飛ぶ時……『家族』が一緒にいる時……竜ってのは、大いなる力を出すのさ。


 漆黒が蒼穹の世界で最も速く飛んだ時。


 ……なんというかね。


 オレも、ゼファーも、ミアも……見ちゃいなかったんだ。


 見ていたのは、ただ真っ直ぐ前だった。


 青くて、何も無いから、どこまでもキレイなその場所……何も無いからこそ、大いなる意味を持てる無限の蒼穹だけを、見ていたよ。ニヤニヤしながらね。ストラウスの兄妹も、黒竜ゼファーも、空の虜になっていた。


 ああ。


 なんて幸せなことだろう!!


 世界で最も速く、空を駆け抜けるという行動は……なんて、自由で。なんて、楽しいんだろうな。


 だから、笑うのさ。


「ハハハハハハハハッッッ!!!」


「あはははははははッッッ!!!」


『あはははははははッッッ!!!』


 竜騎士たちと竜が笑う。ルルーシロアの白い翼を、追い抜きながらも……その瞬間を見ていなかったことに、気づいたけど。別にいいのさ。


 魔法の時間が終わりを告げる。


 竜騎士の歴史と技巧が生んだ、最速の飛行は有限なんだ。乗り手も竜も、体力を全て使い果たしてしまうようだ。燃え尽きたように、オレたちの速度は失われて行く……だが。オレたちよりも地力が上のはずのルルーシロアは、ゼファーを抜かすことはない。


 ただ、黒と白の二匹の竜は、並ぶようにして北海の空を飛んでいたよ。疲れているが、何とも言えない達成感が、オレたちの全身を痺れさせている―――。



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