第32話 加速
「こ、これは……」
二日ぶりに由加里先生の部屋を訪れた僕は、目の前に拡がる光景に、開いた口が塞がらなかった。
念のためにもう一度言っておこう。僕は二日ぶりに由加里先生の部屋を訪れた。
「空き巣にでも入られたんですか」
「いや…………すまない」
足の踏み場もないとは正にこのことで、リビングには主にプリント類、寝室にはぬいぐるみなどのディ○ニーグッズが床一面に散乱していた。
僕は嫌な予感がして、恐る恐るキッチンへと向かう。
無惨だった。
洗い物は大量に溜まり、パンパンに膨れたゴミ袋が山のように積まれていた。
「……僕、二日しかこの家空けてないですよね」
それなのになぜ、こんなことに……
「本当にすまない。やはり私は、君がいないとダメなようだ」
その言葉に、思わずドキッとする。今そういうことを言われると、ものすごく意識してしまう。
そうなると、彼女の普段恐くて厳しい先生が、実は家事が全くできないというギャップも、不思議と愛しく感じてしまう。
これがギャップ萌えというやつか。いや、恋は盲目、か?
「明日は大掃除ですね」
ちょっと困ったように言ってみると、先生は面目ないというように眉尻を下げて、頬を掻いた。
「とりあえず、今日寝るスペースだけは確保しちゃいますね」
僕の使っていた布団はぬいぐるみやグッズに埋もれており、とても寝られる状態ではない。
さっそく片付けに取りかかろうとしたが、
「いや、もう時間も遅い。いま物音を立てては近所迷惑になるだろう」
それもそうか。
僕達はここへ来る途中に、ファミレスで夕食を済ませてから来たので、時刻はもう21時を回っていた。
「そしたら僕は……あ、ソファーお借りしますね」
「そこではゆっくり休めまい。かえって身体を痛めてしまうだろう」
「それなら、僕はどこで……」
由加里先生は、顔色ひとつ変えず、僕にこう告げた。
「今夜はベッドの方で、私の隣に寝るといい」
「はい?」
思考が止まる。
おっと。恋は盲目どころか、耳にする言葉もピンク色に脳内変換されるらしい。
もう一度訊ねる。
「僕はどこで寝ましょう」
「? だから私の隣で寝ろと言っているだろう」
どうやら変換されていたわけではないらしい。
いや、それはダメだ!
元々ダメだけど、今は特にダメだ!
しかし、由加里先生はそんな僕のドギマギしている様子など露知らず、
「このところ色々あったからな。今日は風呂入って、早めに休もう。シャワーでいいか?」
※ここからは、しばらくの間、優徒の心の声だけでお楽しみください。
明かりを消し、布団に入る。
僕の使っていた掛け布団も当然埋もれていたので、先生と二人で一枚の掛け布団を使っている。
ヤバい。
近い。
心臓バックバクしてる!
まだ暗闇に目が慣れていないから、それ以外の五感が冴え渡る。
耳元に先生の吐息。
いい匂い。同じシャンプー使ってるはずなのに。
羊が一匹。
全然眠くない。
羊が二匹。
あ、今ちょっと手が触れた! 柔らかい。
ってか僕、なぜか今、気をつけしてる。
体動かしたら迷惑だよな。
羊が三匹。
全っ然眠くない!
あ、また手が触れた。
ていうか、ホントいい匂い。
「友瀬」
耳元で、名前を呼ばれる。ビクッと身体を震わせる。
「は、はいっ! な、なんでしょうか」
「もう一度約束しておく。私はこのまま終わらせるつもりはない」
声色から、力強い意志を感じた。
「先生……」
「明日また、教頭に掛け合ってくる。それでダメなら、校長や理事会にも直接出向いてやる」
「ありがとうございます、立花先生」
嬉しいけど、本当はそこまでしてもらわなくてもよかった。僕のがんばりはもう、あの抱擁で報われたから。
けど、それは口にしなかった。
なぜなら、きっと、由加里先生の教師としての信念が、それを許さないと思ったからだ。
「友瀬の方は、もう大丈夫か」
「はい。先生のおかげで」
「また辛くなったら言え。話ならいつでも聞いてやる」
「慰めてはくれないんですか」
「慰めてほしいのか? それはそれで構わんが」
「冗談です。それじゃあ、ご褒美になっちゃいますよ」
「そうなのか? ああ、そういえば、お前にはがんばった褒美を何かあげようと思っていたんだ」
「え? そうなんですか」
「当然だ。お前の頑張りには、きちんと報酬があって然るべきだ」
「そう、ですかね? けど、先生からご褒美なら、もう貰いました」
「なに? あげた記憶はないが」
「ちゃんと貰いましたよ。言ってくれたじゃないですか。「がんばったな」って」
「あんなものでよかったのか?」
「あれが嬉しかったんです」
「そう、か……」
そしてしばらく、沈黙が訪れる。
「友瀬」
改まった声で呼ばれ、僕は顔だけを先生の方に向ける。先生も、僕の方に顔を向けていた。暗闇に慣れてきたのか、目が合ったのが分かった。
「そんなものでいいなら、お前が頑張ればまた何度だって言ってやるぞ」
布団の中から手が伸びてきて、由加里先生がそっと僕の頬に触れる。
「だから、これからも頑張れ。決して、これで終わりなんかじゃないんだからな」
そう言って、由加里先生は微笑んだ。
あれだけ絶望していたのに。明日なんて忘れていたのに。
今はもう、前を向けている。
僕も布団から手を出し、僕の頬に触れる先生の手に、自分の手を重ねる。柔らかくて、温かかった。
「ありがとう、ございます。先生がいてくれて、本当によかった」
想いが、加速する。
ギリギリ法定速度を超えないでいられるのは、立場だとか、年齢だとかがブレーキを踏んでいるから。
けど、この先……
もしも、それらがブレーキを踏むことなく、アクセルを踏み続けてしまったなら。
僕はきっと、もう……
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