第31話 優徒の気持ち

それからしばらくして、再びインターホンが鳴った。


あれからどれくらい時間が経ったのか。

外は完全に陽が落ち、明かりのついていない部屋は真っ暗だったが、目は暗闇に慣れていた。


玄関の扉を開ける。

そこに立っていた人物を目にして、僕は胸の奥に痛みを覚えた。


「ああ、よかった。ちゃんといたか。部屋の明かりがついていなかったから、心配したぞ」


安心したように微笑む、由加里先生がいた。


「友瀬、少し話がしたい。悪いが、上がらせてもらってもいいか」



リビングのソファーに二人並んで座る。

少し距離は近かったけど、向かい合うよりはありがたかった。今は先生の顔をまともに見られるとは思えなかった。


「少し、やつれたか」


先生の、労るような声が聞こえてくる。


「ちゃんと飯は食ってるか? 髪もボサボサで。ずっと制服のままだったのか」


僕は俯きながら、小さく頷いた。


「友瀬。私はこのまま終わらせるつもりはないぞ」


きっぱりと、先生はそう口にした。


「無実のお前が謹慎を受ける必要はまったくない。お前は絶対にカンニングなどしていない。だから私も絶対にこのまま終わらせない」


迷いも疑いも一切ない、力強い言葉だった。

どうして、と僕は呟いた。


「どうして、先生はそこまで僕を信じてくれるんですか」


以前にも、訊ねた言葉である。

由加里先生はフッ、と微笑んだ。


「前にも、そんなことを訊かれたことがあったな」


憶えていてくれたんだ。


「私の考えは、あの時から変わっていないよ」


そして、あの日の会話を再現するように、由加里先生は、忘れもしないあの言葉をもう一度、僕に贈ってくれた。


「君が、私の生徒だからだ」


嬉しかった。

嬉しくて、俯いたままでは泣きそうになってしまったけど、顔を上げることもできなかった。


「けど、君の方は私の言葉を忘れてしまっているようだがな」

「え?」

「言ったはずだろう。私が君の味方になると」


先生の顔に目を向ける。

いつかの微笑みが、僕を見つめていた。


「弱さを見せることに馴れていないなら、せめて私のことは頼ってほしい、と。苦しいときは、苦しいと言ってほしい、と」


昨日までは我慢できていたものが、頬を伝って零れ落ちた。


「立花先生……僕は……」

「悔しいよな、友瀬」

「はい……」

「すまない。教師の私が、もっとちゃんと力になってやれれば」


僕はかぶりを振る。

今日まであなたほど、真摯に僕の力になってくれた人はいなかった。


「先生……」

「なんだ」

「僕、初めてだったんですよ。こんなに何かを頑張れたのは」

「ああ」

「今回の試験にすべてを懸けてた。そのために、がんばってきた」

「分かってる。皆に認められようと、懸命にがんばっていたからな」

「いえ、そうじゃないんです。僕ががんばれたのは、先生に恩返しがしたかったからなんです」

「私に?」

「はい。それで……」


そう、僕がほしかったものは……僕ががんばれたのは……

全部、あなたがいてくれたから。


「それで、立花先生に、褒めてほしかったんです」


そのために、勉強してきた。そのために、どんな辛い虐めにも耐えてきた。


「私に、か……?」

「はい……」


それだけが目標で、生き甲斐だった。気付けば、毎日が楽しくなっていた。

毎日、がんばれた。


「けど、できなかった」


僕は、咲くことができなかった。


「全部、無駄になってしまった。何も、残せなかった。僕は―――……」


突然、柔らかいもので口が塞がれた。

先生が僕を抱きしめて、胸に顔が埋められたからだ。


「よくがんばったな、友瀬」


その言葉が、先生の声に乗って流れ込んできて、僕の心にそっと触れた。


「無駄などひとつもないさ。結果を出さなければがんばったことにはならないなんて、あるものか」


先生の匂いが鼻腔を通って流れ込んでくる。

なんで由加里先生の匂いは、こんなにも安心させてくれるのだろう。


「先生……けど、僕は……」

「なんだ? 信じられないか? なら、何度でも言ってやるぞ。今日まで私が一番、誰よりも近くで君のがんばりを見てきたのだからな」


先生は、さらに力強く抱きしめてくる。


「よく、がんばったな」


嬉しさと悔しさが涙となって溢れてきた。

本当は、もっと笑って報告したかった。

もっと笑って、褒めてほしかった。


けど今は、僕をちゃんと見てくれている人がいるということだけで、ほんの少しだけ報われた。


僕は先生のスーツの袖を握り締めて涙を流し、やがて、抱きしめ返していた。


「友瀬、今日はうちに帰ってこい。君がいないと、私はろくな飯が食べられん」


いったい何度、僕はこの人に感謝しただろう。

何度、救われただろう。


「さあ、帰ろう。合宿はまだ、終わっていないのだからな」


変わらず、この人は僕にとって大切な先生。尊敬する先生。



けどこの日、その大切に、新しい意味気持ちが追加された。



胸の奥に灯る熱が、むず痒い。

抱きしめた手を離したくない。

この気持ちは、間違いない。



僕は、由加里先生が……好きだ。


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