第20話 隙 ~由加里~
「おい! 廊下は走るなよ」
午前中の授業を終え、私、
「だってー! 早く購買行かないと人気のパン売り切れちゃうんだもん」
「由加里ちゃんも買い弁でしょー? 早くしないとなくなっちゃうよー」
「先生をつけろバカモノ。それから、今日は昼食を持参しているから問題ない」
珍しー、と言い残してから再び駆け足気味になりかけたところを再度念押しして見送る。
そうだ。今日は友瀬が作ってくれた弁当がある。
あいつが来てから、食事がまともになった。
私は家事や料理が大の苦手であることに加えて、仕事が溜まってしまっていることが多いので、大抵はカップ麺かコンビニ弁当だった。
だから、毎日とても助かっているのだが、弁当まで気を使わせてしまったな。
けど、あいつの気遣いは素直に嬉しいよ。
席に着き、弁当を取り出す。
って、今朝は気に留めなかったが、よく考えれば学校にこのナプキンを持ってくるのはまずかったな。明日から入れ物だけは変えてもらおう。……かわいいんだけどな、ミッ○ー。
弁当の蓋を開ける。
うん、中々バランスのいい彩りじゃないか。あいつはもしかしたら、将来いい専業主夫になるかもな。まあ、そうなると相手はバリバリ働く女性でなければならないか。
弁当の前で一息ついて、私はふと、先程廊下で注意した生徒達と交わした会話を思い出す。
由加里ちゃん、か……。
生徒達と親しくなるのは嬉しいことだが、距離感を間違えてはならない。生徒に寄り添うことは大切だが、立場や関係を曖昧にすることとは違うからだ。
だと言うのに、最近はやたらとちゃん付けで呼ばれるようになってしまった。
それもこれも、原因は全部……
「由~加~里ちゃん!」
突然、後ろから抱きつかれる。もちろん、犯人は一人しかいない。
「鬱陶しい! 離れろ、まゆ……
「そこはまゆ美でいいのに~。いつもみたいに、ね」
なんて言って可愛らしくウィンクする
「ここは学校だ。節度は守れ」
「はいは~い。もう、相変わらず由加里ちゃんは真面目だなぁ~」
私が手を払い除けると、まゆ美はパッと私から離れて、シャツの上に羽織った薄桃色のカーディガンの裾を靡かせる。
そう言ってあざとくふくれ面するお前も相変わらずだがな。それと、さっとく無視するな。
彼女、三村まゆ美とは、大学時代の同級生であり、同期だ。
ふわっと肩まで伸びた髪は、私よりもう少し明るいウェーブのブラウンヘアー。派手すぎないメイクは、自分をどう可愛く魅せるかを熟知した上で施されている。文句なく華やかな見てくれだ。
柔らかい物腰と口調で、いつも笑顔を絶やさずに振る舞う彼女は、それだけ見れば実に愛らしい女だが、こいつの真の姿は獣である。
大学時代から交友関係が派手で、男がいないことなんてなかったが、長く続いた男もいなかった。
別れる度にヤケ酒に付き合わされるが、実際のところ、振っているのはこいつの方なのだ。飽きたとかなんとか言って……まったく溜息が出てくる。
まあ、騙される方も騙される方なのだが、あれの本性を見抜くのはそれなりの付き合いが要るので、仕方がない話でもある。
「お昼一緒に行きましょー……って、あれ? 由加里ちゃん、今日お弁当なの」
後ろから覗き込んでくるまゆ美の顔が近づき、強すぎず弱すぎずといった香水の匂いが漂ってくる。
「珍しいわねぇ~。どうして突然?」
これの本性を知悉している私の前でも可愛らしく首を傾げているのは、職員室にいる他の先生方の手前だからだろう。だとしても、寒気がする。
「まあ、たまにはな。気分転換というやつだ」
まあ、本当のことは言えまい。だが、ちゃんと感謝しているぞ、友瀬。
「ふ~ん。なんとなく嬉しそうなのは気になるけど、ま、いっか」
「へぇ。今日はお弁当ですか、立花先生」
向かい側の席からひょっこり顔を出してそう声を掛けてきたのは、社会科の
「え、ええ、まあ」
「いいですねぇ、家庭的なところも。まったく、なんで今まで隠してたんですかぁ」
「いえ、そういうわけでは。忙しくて、中々時間がとれなくて」
もちろん、言い訳だ。
「それより、根本先生もこれからお昼ですか」
「ええ。僕はいつも通り食堂で。いやぁ、早く愛妻弁当でも食べてみたいですねぇ~、なんて」
自分の発言に照れながら、根本先生は短く刈り上げられた首元をさする。
根本先生はこの学校に赴任二年目で、教師としてはたしか八年目になるから、今年三十路だったか。
「えー、根本先生ならすぐにいいお相手が見つかりますってぇ~」
営業スマイルながら平坦な声色で言うまゆ美。
こいつが相手の未来の話に自分を挟み込まないときは、その相手には脈なしということだ。同僚だろうと節操なく手をつけるこいつだが、どうやら根本先生のことは見送るようだ。
「ところで立花先生。その心境の変化はもしやそういうお相手ができたということなんですか」
「あー、それ、私も気になっちゃう~」
突然そんなことを訊いてくる根本先生に、悪のりしてくるまゆ美。こいつは後でシメてやろう。
「違いますよ。本当に、ただの気まぐれです」
「そうですか。まあ、立花先生は部活の指導でお忙しいですからねぇ。今年はバスケ部全国行くぞって、みんな期待してますよ」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、僕は食堂に行ってきますので」
そう言って、根本先生は職員室から出て行った。
「やっぱり、気になるみたいねぇ~」
「ん? なにがだ」
「いーえー。なんでもないですよぉ~」
言葉を濁すまゆ美の口許は、悪戯っ子のような笑みが浮かんでいた。
「それよりさぁー、来週の休みは空いてる~?」
「なんだ? また男に振られたのか」
「違うわよぅ! パークに遊びに行こうよって話よぉ~」
「ああ……」
そうだった。先月に約束していたんだった。けど……
「すまない。最近それなりに多忙でな。しばらくは行けそうにないんだ」
休日は部活の指導と、友瀬の授業がある。貴重な休日はみっちりやらねば。
「ええ~、つまんないよぉ~! 行きたいよぉ~」
「おい、間違っても生徒の前ではそんなくねくねと情けない姿は見せるなよ」
「はいは~い。ま、たしかに由加里ちゃん忙しいものね」
そう言いながら、彼女の視線は机の上の弁当に向けられていた。
「けど、仕事ばかりにかまけてたら、ずっと独り身かもよぉ~。焦って変な男だけは掴まされないでね~。由加里ちゃん、しっかりしてるようで意外と隙だらけだからなぁ」
「余計なお世話だ」
鬱陶しげに返す私は、本当に隙だらけだったのだろう。
事が大きくなるまで、何も気づけなかったのだから。
だから今も、職員室の外からねっとりとした視線がこちらにからみついていることにも、気づくことができなかったのだ。
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