第6話 決壊

そして、放課後。

僕は由加里先生の呼び出しに従って、生徒指導室に向かっていた。


両親が海外出張で一人暮らしをしている僕には、赤点を咎めるような相手はいない。

月に何回かの電話やメールで近況報告するだけだから、わざわざ心配させるようなことを言う必要もない。だから、虐めのことも特に報告はしていなかった。


けど、留年したらさすがに怒られるだろうなぁ。

そしたら学校辞めて働くのもいいな。そうすれば虐めからも解放されるし。

大していいことなんて無かった学生生活だったな。強いて言うなら担任が美人だったことだけかな。恐いけど。


そんなことをぼんやりと考えながら、僕は生徒指導室にたどり着く。

ノックをすると、入りたまえという由加里先生の声が聞こえてきたので、失礼しますと言って中に入る。


「そこに座りたまえ」

「はい……」

促されるまま、僕は先生の正面の椅子に腰を下ろす。


「呼び出された理由はわかるか」

「はいっ、すいませんでしたっ」


脊髄反射で出てきた謝罪。気づけば、鼻先が机に触れるまで頭を下げていた。

ものすごい美人だが、生徒指導部の先生顔負けな鬼教師として生徒から恐れられている彼女と二人きりで対面しているのだから、仕方ないだろう。


折り目正しく頭を下げながら、戦々恐々と身を縮こませていると、


「ん? なぜ君が謝る」

「え?」


そんな言葉が返ってきて、僕は思わず顔を上げる。

たしかに僕を見る先生の表情は怒っているようには見えない。

それどころか、よく見ればこちらを見つめる視線には、いつもの凛々しさは影を潜め、威圧感も感じられなかった。

そして、


「謝罪をするのは私の方だ」


そんなことを口にした。

そのために来てもらったのだと言って、申し訳なさそうに先生は目を伏せる。

状況が理解できず、僕が頭の上に疑問符を浮かべていると、先生は慎重に言葉を選ぶようにして本題を切り出した。


「君の……虐めのことだ」


一瞬、身が強張った。

同時に、僕がここに呼び出された理由を察した。


「先日、一人の生徒から相談されてはじめて知ったんだ。君が一部の生徒から虐めを受けていることに気付いてやれなかった。謝って済むことではないが、すまなかった」

「そ、そんなっ、立花先生が謝ることなんてなにもないですよっ」


慌てて彼女の言葉を否定する。

それは心底からの思いであり、僕は先生や他の誰かに助けてほしいなんて思ったことはなかった。


その理由は二つ。

一つは、僕自身どこか虐めに慣れてしまっていたところがあったから。

もう一つは、これまでの経験上、第三者、特に教師が介入することで虐めがさらに悪化することはあっても、解決したことはなかったからだ。


だから、僕は本当に誰かに助けてほしいなんて思ったことはなかったから、頭を下げられると困ってしまう。


「中間試験の結果は見た。あの結果はこの件が少なからず影響していたんだろう。だが、今後はクラスにより目を光らせ、虐めに加担した者達には私の方から指導を―――」

「やめて下さいっ!」


叫んで、先生の言葉を遮る。

予想だにしていなかったのだろう。先生の瞳には困惑の色が滲んでいた。


「気遣ってくれて、ありがとうございます。けど、余計なことはしないでください」

「余計なこと、だと」

「僕は現状を変えたいなんて思ってないんです」

「そう言えと、脅されているのか」

「いえ。僕自身がそう思ってるんです。本当に。勉強の方は、追試と今度の期末試験は頑張りますので……」


しかし、由加里先生は納得しかねるといった表情だった。


「なぜだ? なぜ、そんなにも他人の手助けを拒否するんだ」


いつもの、凛とした真剣な眼差しで僕を見つめてくる。

適当に誤魔化そうと思っていたけど、由加里先生には通らない気がして、僕は本当の思いを吐露した。


「先生、知ってますか? 集団生活において、人が結束するためには、誰かが生贄にならなければならない。人は誰かを攻撃せずにはいられない生き物なんです」


先生は黙ったまま、先を促す。


「ここで僕への虐めが止まっても、彼らの攻撃性がなくなるわけじゃない。僕じゃない誰かがターゲットにされるだけなんです。仮に彼らが退学になったとしても、次は別の誰かが虐めを始めるだけなんです。

だったら、僕が虐められてる分には、少なくともその間は他の誰も傷つかない」

「だから、今のままでも構わないと?」

「まあ、かれこれもう中学時代からのことですし。なんかもう慣れちゃいましたっていうか」


にへら、と頭を掻きながら言うと、


「ふざけたことを口にするなっ!」


バンッ、と先生が力強く机を叩いて声を荒げる。

そして、驚いて身を震わせる僕をまっすぐに見つめると、先生は静かに告げた。


「そんなことに慣れるな、バカ者」


怒っているような、それでいて優しげな、そんな声音だった。


「君の家はたしかご両親が海外出張で、君は一人暮らしだったな。ご両親はこのことを知っているのか」

「いえ……わざわざ言う必要はないと思っていたので」

「クラスメイトの中には」

「いませんよ。そんな相手、僕にはいません」


これまで一度でも、いたことなんてない。


「そうか。なら――」

けど、先生はそんな僕を憐むでも、慰めるでもなく。


「なら、今日まで、一人でよくがんばってきたな」


先生は優しく僕に微笑んだ。


「今日からは、私が君の味方になる」


その表情がとても温かくて、安心してしまって。

そして、僕は……


「お、おいっ! どうした」


気づけば、涙を流していた。


「あ、あれ? なんだ? なんで……」

僕自身戸惑っていたが、涙は堰を切ったように一向に止まる気配はなかった。


そんな動揺している僕の頭を、先生はぐしゃっと乱暴に撫であげると、


「バカ者。苦しいことに慣れるやつなんかいないんだ。生徒が教師の前で見栄を張るんじゃない」


そう、またしても優しく言った。


ああ、そうか。

誰にも助けられなくても、この先ずっと独りでもいいなんて、ただの強がりだったんだな。

本当は、ずっと誰かに助けてほしかったんだ。


「すいません……」


「バカ者。謝ることでもないんだよ」

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