酒に呑まれた、七月。

1.疑念

 

 「課長、課長。今日、課の皆で飲みに行きません?」


 十日。金曜日。朝。


 出社してきて早々、得田がやけにテンション高くそんなことを言った。無邪気とも評せる声と表情だ。こいつは猛暑日の続く真夏でも元気で、うらやましいもんだ。


 「得田くん、今朝はなんだかご機嫌だね。何か嬉しいことでもあった?」


 「お。ひょっとして、得田にもついに彼女が出来たか?」


 課長が細い目をさらに細めて、問いかける。窓から降り注ぐ日光が課長の頭に反射し、きらきらと輝いている。窓際にある課長の席は暑そうだなと、俺は夏が来る度に思う。


 続いて、茶化すように笑いながら問いかけたのは、宮路みやじさんだ。経理課のメンバーでは一番の年かさで、この会社に古くから勤めている人間の一人である。眞鍋さんと似たタイプの人で、快活で話しやすく、誰にでも親しみやすさを感じさせる。経理課に来る前は営業をやっていたらしいから、他人と接するのが上手いのかもしれない。


 そんな彼も、今年度いっぱいで定年退職することが決まっている。


 この会社で過ごす最後の夏だが、今の所、宮路さんは惜しむ素振りも見せずいつものように年長者ならではの余裕を見せ、笑っている。今も俺の後ろのデスクで、何処か気だるそうに椅子の背もたれに寄りかかり、近くに立っている得田を見上げていた。


 「そりゃあ、大変だ。今日はこれから季節外れの大雪になるかもしれねぇな」

 「俺に彼女が出来るのが、そんなに信じられませんか……! っていうか、その、別にまだ……出来てませんし」

 「そうかそうか。それは残念だな。分かったから泣くなよ、得田」

 「泣いてませんっ」


 「うん、君にそう簡単に彼女が出来るとは皆、思ってないよ。でもどうして急に、皆で飲みに行きたいっていう気持ちになったの?」


 「天満さん……、地味にひどいっすよ!」


 にっこり微笑んで、天満さんがさらりと言葉を発した。こちらも得田と同様に、今日も絶好調のようだ。


 「俺はただ宇佐見さ……、げほん、皆さんとたまには勤務外で楽しく過ごすのもいいかなと思って、それで声をかけただけです。別に、他意はありませんから!」


 他意があるのがバレバレである。というか、絶対にわざとやっている。


 これに気づけたのは、俺が人間観察を趣味としているおかげでもなんでもない。中途半端に宇佐見さんの名前を出して咳払いをする、という得田の行為がとてつもなく嘘くさく見えた。ただそれだけのことだ。


 俺の隣りのデスク、すなわち宇佐見さん本人にちらちらと視線を送っている点も腹立たしい。


 こないだ注意したばかりだというのに、得田の分かりやすすぎるアピールは鳴りを潜めるどころか、ますますエスカレートしている。今もしているように、あからさまに宇佐見さんと視線を合わせようとしたり、出勤時や帰宅時の挨拶も、宇佐見さんにする時だけは妙に笑顔だったりと相変わらず地味だけど、周囲の者にとっては異様とも取れる活動を繰り返し行っている。昨日なんか、帰宅しようと会社のロビーへ向かう宇佐見さんの後をこっそり追いかけていた。一緒のエレベーターには乗らずに、敢えて階段を駆け下りている途中でずっこけ、残りの十段くらいを転がり落ちて行ったので、結局は宇佐見さんに追いつけなかったようだ。得田をいましめようと後をつけていた俺は、階段の下でうずくまって痛そうに尻をさすっている得田を見て、呆れると共にやっぱり「ざまあみろ」と思うのだった。


 「そうだね。久しく皆と飲みに行ってないし、そうしようか。皆の予定が空いていれば、だけど」


 「はい! 俺、空いてます!」

 「得田くん。それは多分、課長も分かってると思うからいちいち言わなくてもいいよ。――僕もぜひ参加させて下さい」


 天満さんは容赦なく得田を攻撃してから、自らも夜の予定が空いていることを告げた。俺の脳裏に〝独身貴族〟という単語が浮かぶ。


 「あ、俺はパスな。今日は孫が泊まりに来るんだわ。飲んで帰ったら、カミさんになんて言われるか分からんからな」

 「ミヤさんは欠席ね。他の三人は?」


 「俺は参加したいです。沖さんは――」


 「……、……行く」

 俺の問いかけに、少しの沈黙を置いて沖さんは答えた。この人の声を聞いたのは、およそ一週間振りだ。


 「宇佐見ちゃんは、どうする?」


 「へ。わ、わたわた私、ですか……?!」


 やわらかい口調で天満さんに問いかけられた宇佐見さんは、何故かあわてふためいている。バグが起きたゲームのように不自然ですよ。


 「んー? デートする相手が出来たのは、宇佐見の方だったか」


 「なっ、なな、う宇佐見さんにデートの予定が……っ?!」

 宮路さんの推理で、得田までバグってしまったらしい。というかお前、言っていることがちょっと失礼だぞ。会社を出てからどうしようと宇佐見さんの自由だろうが。彼女の出来る確率が低いお前が口を出すべきことでもない。


 ……と、俺らしくそんな風に心の中で突っ込んだのだが。


 実は、宮路さんの冗談のような軽い一言に衝撃を受けたのは、俺も同じだった。

 何故だろうかと考えるより先に、この事実に驚きそしてある種、納得している自分がいる。


 やっぱり、そうなのかもしれない。


 自分自身に一つの疑念を抱いたのは、六月の終わり頃、約十日前だ。


 宇佐見さんが経理課ここに来て、三週間近くが経とうとしていた。その間も俺は、教育係として色々と彼女のサポートをしてきた。


 停電の時にしたアドバイスが効いたらしく、宇佐見さんはまず、与えられた仕事に取りかかる際に小走りで対応する癖を改めた。否、改めようと努力し始めた。いくら気をつけていても、癖は癖。今でも時々、悪癖が再発して小走りになってしまっているが、途中で気がついて修正出来るようにはなった。彼女のおっちょこちょいな所は元かららしく、ごくたまに小さなミスは犯すものの課に来たばかりの頃よりは格段に回数も減った。

 反対に、彼女が課の人間と会話をする機会は増えた。ぎこちなさはあるものの、笑顔を見せたことだって何度かある。


 そんな彼女の様子を見ていた俺にも、変化が現れた。


 いつの間にか、宇佐見さんのことを〝もっと眺めていたい〟と思っている自分自身に気がついたのだ。


 職場の人間や友人、街を行く他人など、今まで色々な人間を観察してきたが、こんな気持ちになったのは初めてだった。得田のように、眺めていればその内面白いことをしでかす人は時折いる。電車の中で居眠りをこいてゆっくり前のめりに倒れていく人を見た時なんか、一人で吹き出しそうになったものだ。

 けれどそういう、面白いことが起きそうだから目が離せないというものとはまた違った観念から、宇佐見さんを眺めたいこの衝動は生まれているようだった。


 ひょっとすると、これは〝恋愛感情〟と呼ばれるものではないのか。

 これこそが、俺が自分に抱いていた疑念だ。


 初めて違和感を覚えた日から経過した約十日間のことを思い返せば、俺のコレがただの観察衝動とは異なったものだとよく分かる。

 宇佐見さんは容姿そのものが可愛らしいが、他にも可愛いと思える瞬間が格段に増えた。見られる頻度はまだ少ないが、笑顔は文句なしで可愛い。お礼を言う時にちょっとだけ頭を下げたり、何か話を振られてよく分からない話題だった時に小首をかしげながら一生懸命に返答の仕方を考える仕草にも愛嬌がある。何より今こうして、困ったように眉尻を下げてあわてている姿も可愛らしい。


 って。これじゃ本当に、俺が宇佐見さんに恋をしているみたいじゃないか。


 約一か月前、彼女に好意を寄せている得田に「恋敵」と言われた時には、あれほど簡単に「違う」と言えたのに。あの言葉には嘘偽りなどなかったはずなのに。

 それがどうだ。今や宮路さんが何気なく発した〝デート〟という単語に焦りを感じるまでになっている。決して顔には出していないが、心の中では焦りまくりなのだ。バグった得田のように。


 「え、えっと……。飲み会って、私なんかでも参加していいものなの、でしょうか……?」

 「もちろん。もしかして宇佐見ちゃん、事務員はそういうのにも呼んでもらえないと思ってた?」

 「はい……。だから、声をかけてもらって、すごくびっくりした……というか」


 「じゃ、じゃあっ! 今晩、誰かとデートするっていう訳じゃないんですねっ!?」

 前のめりになりながら得田が聞く。声には無駄に力が込められている。


 「え、ええ。私には、そういう相手はいませんし……」

 「よっし――」

 「それじゃあ、宇佐見さんも今夜の飲み会は参加ということで。それで大丈夫ですか?」


 社内中に響き渡る声で叫び出す前に得田の口を手で封じ、なるべくいつもの調子を装いながら宇佐見さんに確認する。

 彼女は「は、はいっ」とうなずいた。相変わらずこちらとは目が合わず、視線は俺たちの足元へ向けられている。宇佐見さんは、他人との会話以上に他人と目を合わせることに苦手意識を抱いているようだ。極度の人見知り、現代風に言えばというやつか。


 「じゃあ、ミヤさん以外は全員参加ということで。店は、俺の行きつけでいいかな?」

 「異論なーし。決まりっすね。課長、ゴチになります!」

 「えっ、おごるとは一言も言ってないんだけど……」

 「えっ、違うんですか。久し振りの飲み会なのに? 今日は、宇佐見さんが経理課に来て一か月の、めでたい日なのに??」


 あれこれ理由をつけて上司をいじめるな、得田よ。つかこいつ、課長がおごってくれるとなったら容赦なく飲み食いする気だ。なんて無遠慮な。


 部下から執拗におごりを迫られている課長に同情の眼差しを向けつつも、俺は心の中では全く別のことを考えていた。

 そういえば、宇佐見さんが経理課うちに来て、もう一か月が経つのか。

 あっという間だったような、意外と長く感じたような、微妙な感覚だ。一か月間という月日の中ではただでさえ様々なことが起きるというのに、彼女が来てからのこの一か月はより鮮烈な出来事が多かった気がする。一番は、言うまでもなくあの停電だが。それ以外にも色々と起きてはいたのだけど、なんせ会社のすぐ近くの電柱に落雷が直撃するというあの一件が衝撃的過ぎて、他はごく些細に思えてしまう。あんなにも落雷を間近に感じるなんて、二度と出来ない体験だろう。いや、出来たとしてもしたくはない。


 良かったことと言えば、眞鍋さんの体内に発見された腫瘍が良性のものであると判明したことだろうか。医師から心配はいらないと説明されたのが特効薬になったらしく、眞鍋さんは今まで以上に元気に働いている。未だ埋まらない総務課の事務員の穴を、充分すぎるくらいに埋める機敏さは二十代にも引けをとらないだろう。元気そうで何よりだと安心したのは、恐らく俺一人ではないはずだ。眞鍋さんが暗いと、フロア中の空気までよどんでいるように思えるくらいだからな。


 「仕事の後に楽しみが控えてると思うと、仕事もはかどりそうですよねー」

 ねっ、先輩。と、得田が馴れ馴れしく肩に肘を置いてくる。ええい、触るな暑苦しい。つか、職務時間はもう始まっているんだから、さっさと自分のデスクに戻れ。


 「俺、酔った勢いで宇佐見さんに告白しちゃうかもしれませんけど、そん時は、悔し涙を飲みながら見守ってくださいねー」


 嫌味たらしいことを耳元で囁くと、得田はやっと自分の持ち場へ帰って行った。


 俺はすかさず、その後ろ姿に殺気を送ってしまった。腹立たしい。あいつにだけは、宇佐見さんを渡したくない。もし俺が宇佐見さんの父親であっても、きっとそう思うに違いない。


 ……と、こんな風にライバル心を燃やしている時点で、もう充分に宇佐見さんに惹かれてしまっている訳で。


 あろうことか得田に気づかされる羽目になろうとは。


 俺は思わずパソコンを前にして深くうなだれ、ため息を吐いた。真向かいで沖さんがこちらを不思議そうに見ている気配が痛いほど伝わってきたが、知ったことではなかった。

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