#12 Try jah love 〜何を試されるかわからないことを試されているようだった

 翌日。澄香は午後には元気を取り戻し、夕刻に2人で阿寒湖温泉街を散策した。


「わー、お土産屋さんがいっぱい。中で彫刻してるの?」


「本物の手作りだよ。実は札幌で作ってましたなんてガッカリ感はないだろ」



 澄香が貴明の腕から離れず、恋人同士にしか見えない2人。澄香は黒いフクロウの彫刻を手に貴明の表情をうかがう。


「わー可愛いなーカバンにもつけられるなーおや意外にお手頃価格ー?」


「買えと言っているのか」


「いやまさか…いいの?やったー」


「わざとらしいな!」



 と言って小さなフクロウを1つレジに持っていくが、


「こっちも!お揃いがいいの!」


「いいよ、俺はもう持ってる…」


 ま、妹とカムイを共有するのもいいか。2つを会計しながら店のおばさんと話す。


 

「あらーいいの選んだねえ。これね、エンジュの木なんだよ」


「エンジュ?」


 澄香が興味津々だ。



「そうね、延寿って字を当てれば、長寿の縁起物だね」


 長寿…今の澄香にこそふさわしいお守りだ。


「それにね、エンジュは幸福や安産の縁起物だからね。美人の彼女さんと持つにはピッタリだべさ」


「いや安産とか違…」



 貴明は慌てるが、澄香はすっかりエンジュのフクロウがお気に入りだ。さっそくダッフルコートの紐にくくりつける。


「えへ。幸福に長寿かあ…」


 そのまま2人は観光客で賑わう阿寒湖畔に向かった。



「で、湖はどこ?」


「どこって、今立ってるここだよ」


「この南極的な地面が?嘘でしょ」


 冬の阿寒湖は完全結氷し、氷上で様々な催しが開催される。



「氷の上とはいえ、実際はすごい量ですごい冷たい水の上に立ってるわけだ」


「そう考えるとちょっと怖いね。ね、あのテントは?」


 氷上では大勢がスケートやスノーモービルを楽しんでいる。その中でひときわ目立つカラフルなテント群。


「ワカサギ釣りだ。やる?」


「うん!面白そう」


 澄香は体を動かす遊びの方が好きだが、足が心配な今は釣りがちょうどいい。 



「くり抜いた氷、厚っ!てかめぢゃぐぢゃ寒いねお兄ぢゃん、これが−20℃…」


「まだ陽があるし−15℃くらいだよ。湖は風を遮るものがないから、気温以上に風がヤバイんだ。強風と氷の冷気で体感温度は−30℃だな。ま、中はストーブがあるし大丈夫だ」


「だ、だまされた…」



 澄香は貴明に寄り添い、興味深そうに糸を見つめる。ほどなくしてプラチナのような金属光沢に輝く魚体が次々釣れ出した。釣れたワカサギはその場で天ぷらにして食べる。


「これはうめえー!」


「スーパーで買うのと全然違うね!」


 冬の湖の幸を味わいながら、貴明は澄香がしきりに足をさすっているのに気づく。



「具合悪いか?」


「大丈夫。でも足の感覚が…」


「ごめんな、冷えたな。もう帰ろう」


「冷たくはないけど…」



 澄香の足はどんどん消滅してきている。爪先だけの時はさほど実感はなかったが、ここに来て、足に力が入らない感覚に襲われ始めていた。


「ほら、おぶっていくから」


 貴明が背を向けてしゃがむ。


「いいよ、恥ずかしいよ…子ども扱いしてー」


「何言ってんだよ、いいから乗れって」


 澄香は照れながらも貴明の背に乗り、きゅっと腕を首に回した。



「お、案外軽いな」


「どんな骨太のイメージだったのよ。てかもうやだ、最近優しすぎ。大好き…」


「はは、大事な妹だからな」


「違うもん。そういう意味じゃなくて…」


 澄香は言葉が出ない。これ以上喋ると号泣しそうだった。



「いつでも支えるよ、澄香なら」


 幼い頃、澄香は貴明におんぶされるのが好きだった。もちろん後付けで偽りの記憶だが、2人には温かく大切な思い出だ。



 ホテルに入り、澄香は感触を確かめながら地に足をつける。まだ歩けるが、貴明は時々よろける澄香の肩を抱き、部屋に戻った。


 夕食後、窓際の椅子に向かい合って座る。賑わう氷の湖面を眺めながら、澄香が切なげな表情で話し始めた。



「お兄ちゃん。すみかちゃんを大事にしてあげてね」


「当然だよ。なんだよ急に」


「うん。お兄ちゃんがすみかちゃんを愛してくれる限り…私も…」


「澄香…」


「2人が会ってると私も温かい気持ちになるんだ。きっとすみかちゃんが嬉しいから」


「そういや、お前がライブに来ないのはすみかちゃんのためだったんだな」


「そう。私たちは同じ場所にいられないみたいなの。すみかちゃんはこっちの世界に来るだけでも負担が大きいはずなんだ」



「でも澄香は1回だけ来たよな。嬉しかったよ」


「一度はこの目で見ておきたくて。楽しかったなあ。お兄ちゃんは楽器さえあれば素敵なんだね。楽器さえあれば」


「2回言うほど重要か⁉︎お前は、どうしていつも自分よりも他人を…」


「何言ってんの、すみかちゃんは私なんだよ」


 2人は向かい合ったまま、互いの手を取り合う。



「俺は澄香に会えて本当によかった。妹でもそうでなくても、絶対に離れたくない。そのために試したいことがあるんだ。もうすみかちゃんと梨杏とは決めてる」


「何を…」



「ここで、お前とすみかちゃんを会わせる」


「だめ!そんなことしたら何が起こるか」



「消えてしまう前に可能性を探るんだ。言い出したのはすみかちゃんなんだ」


「すみかちゃんもきっとタダでは済まない」


「覚悟の上だよ。すみかちゃんなりに、澄香への想いは強いんだ」


「私なんかもういいよ!消えればみんな忘れるんだから、2人で幸せになってよ!」


「そうはいくか!」


 貴明が澄香の隣に膝立ちになり、ぎゅっと肩を抱く。



「お前1人に寂しい思いはさせない。だからみんなで立ち向かうんだ」


「だめ!絶対だめ!そんな危ないこと…ならすみかちゃんとは会わない!」


「俺の性格は知ってるよな。今さらやめると思うか?」


「だって…だって…」


「俺とすみかちゃんが残れたとしても、お前がいなきゃ無意味なんだよ。だから3人でいられる方法を探す。梨杏も俺たちを助けると戒律に反して、立場がヤバいんだってさ」


「ば…ばか…バカ兄貴…」


 澄香は涙が止まらない。



「すみかちゃんは最強のエクストリームだし、梨杏も味方だ。そしてここはカムイの湖だぞ。いける気がしないか?」


「なんでそんなに強気なの…」


「強気ついでに俺は、万が一お前が消えても、絶対に澄香のことを忘れない自信があるからな。安心しろ」


「おにい…ちゃん…」


 

 澄香は少し落ち着きを取り戻し、貴明に寄りかかる。



「しょうがないよね。これが澄香のバカ兄貴だもん…」


「偉いぞバカ兄貴の妹よ。そうだ、これ見てくれよ」


 貴明は、すみかと撮ったプリクラを澄香に見せる。



「これが…想像より綺麗な人。私と似てるのかなあ?」


「澄香より小柄で雰囲気も落ち着いてるけど、やっぱり似てるよ。この写真の表情もそっくりだろ」


「でも私こんなに大人っぽくないよ。ていうかこれ思いっきり抱きしめてるしカメラ見てないし、普通こんなん撮る?むー!」


「そ、そこはいいだろ。で、今日うまくすみかちゃんと会えたとして…」



 真剣な表情に変わる貴明。澄香も重大さを認識する。



「私はどうすれば?」


「たった一つ。存在が消えないように気を強く持て。梨杏によると、消滅の進行はメンタルである程度コントロールできるらしい。澄香とすみかちゃんが出会って、最後に3人一緒が残っていたら、たぶん俺たちの勝ちだ」


「わかった。覚悟する。その前にこれを見て」



 澄香は浴衣の裾をめくる。貴明は信じられない光景に目を疑う。


「足が…くるぶしから下がないじゃないか」


「でもまだ歩けるの。これ見ると絶望しか…」



 貴明は透明なところを触る。畳は透けて見えるが足の形はあり、体温も感じる。 



「いや違うぞ澄香、これは希望だ。逆に考えろ、消滅にはだいぶ時間がかかるってことだよ。梨杏によると自然の力が高まるのは真夜中だから、決行は午前0時。それまで温泉で体を温めておこう」


「うん。お兄ちゃん…」



 肩に乗せた顔を上げ、澄香は貴明の頬に軽くキスした。そしてまたしなだれかかる。


「おま…意外に余裕あるな…」


 貴明はこの程度で相も変わらず真っ赤である。まあ澄香も同じく真っ赤だが。その後、景気づけとお浄めということで2人は大浴場に向かった。




 30分後。先に部屋に戻った貴明は澄香を待ちながら、今朝がたアザーサイドに行き、すみかと梨杏と話し合ったことを思い出していた。



「共存。融合。片方あるいは両方が消し飛ぶ。ま、どれかだろ」


「梨杏、本当はアホなのでは?それが可能性の全部だろ」


 澄香は消えゆく運命だからこそ、逆療法的な危険な賭けをする意味がある。だが、すみかは澄香と同じ時空でどこまで耐えられるのか。すみかの負担は免れそうにない。


「いいんです。無傷で済むなんて思ってない。全部私のせいなんだから」


「だめよ、犠牲なんて考えると破綻する。エクスペリエンストの力は心の力だもの」


「でも確かにすみかちゃんも心配だよ」


「いいの、未来のためなんだから。私だって貴明さんといたいもの。澄香ばっかり一緒にいて、あの娘にだけいい思いなんてさせるもんですか!うふっ」


 笑いながらペロッと舌を出す。貴明が大好きな可愛らしい表情だ。



「お、いいねえ泥沼の三角関係!これよー!」


「梨杏…少し黙っててくれんか?てかすみかちゃんキャラ変わってきたね…」



 和んだのも一瞬、梨杏が深刻な表情をみせる。


「貴明、すみか。私は禁忌に触れてるせいで監視されてるの。たぶんもうすぐあなた達に会えなくなる。とっ捕まったら謹慎300年だわ。あーあ、面倒な子の世話係になったのが運の尽きか」


「謹慎なんて…寂しい。ごめんなさい梨杏さん、私に変な力があるばかりに」


「研究材料としては超一級よ。神は喜んでるでしょ。私は面白くないけどね!」


「梨杏、人の心がわかるようになったな。俺は今たいへん感動している」


「うっさいわ小僧!」


「あは、なんだか貴明さんみたい」


「俺だって寂しいよ!でもその前に教えてくれ。どうやって俺たちのことを見てたんだ?」


「見てた?」


「そうなんだよ。こいつは普段から俺たちを覗いて…空からか?」


 あの初詣の逢瀬も見られていたと気づいたすみかの顔が、破裂寸前に赤くなる。



「はっはー!これも禁忌だが、どうせ謹慎一直線だから教えてやるか。天空からじゃ頭しか見えないから、お前たちの濃厚エロシーンを堪能できないだろ。ほれ」



 と言うなり姿がどんどん変わっていく梨杏。整った顔自体はそう変わらないが、手足が伸びて大人っぽくなり、メガネまで現れる。貴明とすみかは腰が抜ける。


「おま…美優か⁉︎なんというデタラメな…てかエロって何だ、しかも濃厚ってこのやろう」


「へっへっへー!あとは…」


 またも姿が変化する。巫女姿だ。



「向坂さん?うっそー⁉︎」


「誰だ?」


「ほら初詣の時、バイトを仕切ってた大学生の…休憩時間って教えてくれた人」


「そうよ高嶺さん。あの時は絶妙なタイミングで2人きりにしたおかげでいいもんが見られたわ。うひゃあ!」



 すみかと貴明は、揃って赤ら顔で下を向いて拳を握り、ワナワナしている。


「な、わかったろ。こいつをうかつに信じると斜め上方向に裏切ってくれんだよ」


「ま、逆に心強いわ。だってここまでバラしたのなら、もう裏切れないものね…」



 ふふふふ…と、2人は悪い笑顔で巫女姿の梨杏に詰め寄る。梨杏はさすがに慌てて、


「あれれ?お前ら根っこは同じなのかな?あは、あはは…」


 ひとしきり笑った後、3人はそれぞれ覚悟を決めて別れた。




 貴明はその覚悟を思い出しながら澄香を待つ。だがさらに1時間を過ぎても澄香は戻らず、嫌な予感に苛まれた貴明は、クローゼットを調べる。



 …やられた。貴明は自らの油断を悔いた。澄香の服がない。どこへ行った‼︎…その悲痛な思いに梨杏が感応したようで、意識の中で声が聞こえた。



(貴明!澄香がいないんだね)


「1人で消えてなくなる気かもしれない。吹雪いてきてるぞ…今日は穏やかな予報だったのにこれじゃ本当に−30℃だ。マズイマズイマズイぞ!」


「澄香は死でも消滅でも同じと思ってるんだ。絶望してるんだよ」


「あいつ!俺たちを信じろって…」


「無闇に探しに出ても、夜の森じゃ見つけられない。でも貴明!あんただけは澄香を追えるだろ。ドアを使うんだ」


「どうやって…」


「基本を忘れたかい?相手を想って…」



 貴明は強く澄香を想う。笑顔も泣き顔も声も匂いも、愛しい妹の全てを全部全部思い出す。



 …脳裏に浮かぶ激しい吹雪のヴィジョン。広大な氷の平原。そこに四つん這い、いや腹這いでボロボロになりながら、必死で何かに向かって進む人影が見えた。



(私はこの世界にあってはならない…)



 焦点の定まらない目でつぶやいている。間違いない。これは…



「澄香ー!お前は!阿呆なのかー‼︎」



 叫んだ直後、阿寒湖の中心に近い場所にピンクのドアが出現する。ドアから白い光とともに貴明が現れた。驚いて顔を上げる澄香。体じゅうに雪が吹き付け、手も顔も凍傷寸前だ。



「澄香!死ぬぞ!今日はもういい、一緒に帰ろう」


「お兄…ちゃ…」


 弱々しく腕を伸ばす澄香。貴明はドアの中から掴んで引き上げるが、光の壁に阻まれる。


「そうか、澄香はエクスペリエンストじゃない…」



 暗闇の中、貴明は氷上に降りる。愛くるしい自慢の妹が、雪原に取り残された廃屋のように朽ちかけている。貴明は無残な姿に衝撃を受けながら澄香に駆け寄り、すぐに毛布でくるんだ。少しでも暖を分けようと、赤く腫れた頬を掌で包み込む。



「こんなに凍えて…かわいそうに…氷の上でこの吹雪だぞ、死んじゃうだろ」


「澄香、怖くなったの。私だけがいない世界でみんな私を忘れちゃうの。それなら死んだ方が覚えててもらえるかなって…」


「何言って…そうだ足は?立てないのか?」



 足を見てギョッとする。両足の脛から下がない。さっきまでは肉体が透けている様子だったが、今はズボンがぺたんと潰れている。もはや実体も消滅に向かっているのか。


「転んだらもう立てなくて。澄香の足どうなってるの。怖いよう」


「…す、澄香!しっかりしろ!」 



 どうする。救出にドアは使えない。だが澄香を背負って歩いても、この吹雪では二次遭難になりかねない。第一、岸まで行けたとしても時間的に澄香の肉体は保つのか?



 考えている暇はない。貴明は澄香をおぶるが、意識が薄れて体の自由が効かない澄香は、夕方の何倍も重く感じる。なんとか担いで歩き出すが氷上で何度も転び、またおぶる。その繰り返しの疲れと低温で貴明の体力は削られる。



「お兄ちゃん…もういいよ。これじゃお兄ちゃんまで」


「バカ言うな!絶対に助ける!」


「ごめんなさ、ごめ、澄香、怖くて…お兄ちゃ…怖いよう…」



 もはや言葉はうわ言のようになってきた。ダメだ。本当に共倒れになる。



「ちっくしょう‼︎すみかちゃん!聞こえるだろ!助けてくれー‼︎」


 強風で貴明の叫びはかき消される。だがその直後、ブルーのドアと白い光が突如出現した。




「貴明さん!澄香!」



 すみかだ。貴明ほど的確な場所にドアを作る能力はないはずだが、強い想いに感応したのか。心が潰れそうだった貴明は、たった1人の少女の姿に軍隊さえ得た心持ちになる。



「すみかちゃん!やっぱり来てくれた!」


「ごめんなさい、場所がわからなくて何回もドアを作ってたの。澄香はこっちに入れないよね。なら…」


 と言ってすみかはドアから出ようとするが、


「きゃあっ⁉︎」


 電撃のような閃光。すみかは悲鳴を上げ、ドアの奥に飛ばされた。



「い、痛い…痛いよ!どうして…」


 すみかの手が火傷したように腫れている。禁忌の存在に対峙した代償とでもいうのか。



「だめだ無理するな。どのみち来たところで、どうやって…」



 手詰まり?大切な人が背中で死にかけているのに何もできないのか?



「ふ、ふふふ…こ、こーんなこともあろうかと!」


 すみかが突然悪い笑顔になる。よせばいいのに、どこかに恥じらいが残るのが彼女らしい。


「ああ…すみかちゃん。俺は君に悪い影響を…」


「モノなら大丈夫でしょ。貴明さん、これ!」



 すみかは毛布と共に青い何かを投げた。ソリだ。北海道ではボブスレーと呼ばれるプラ製のアレだ。ちなみに冬の北海道ではベビーカーやキャリーバッグとしても機能する。



「よし、これで引けば30分で岸まで行ける」


「それまで澄香の体は…」


「消えていくだろうがとにかく戻って暖めないと、その前に凍ってしまう」



 澄香を仰向けにボブスレーに載せる。体力低下が激しい。


「お、兄ちゃん…すみかちゃ…ごめんね…」


「澄香しっかりしろ。これ以上体を消えさせちゃダメだ」


「私、自分勝手…でもはっきりわかったの」


「澄香!声を聞かせて!」




「すみかちゃん…私は…もうやだ…」



 澄香の大きな黒い瞳から大粒の涙がこぼれる。まるで子どものように涙を両手で拭い、泣きじゃくりながら声を絞り出す。

 

「やだ…やだよう…消えたくない。生きたいの。私は…澄香はお兄ちゃんと一緒にいたい。お兄ちゃん、澄香を離さないで。好きなの…愛してるよう…」


「澄香…あなた…」



 すみかは両手で口を覆い嗚咽を押さえる。貴明も涙ながらに澄香を抱きしめる。


「俺もだ!いつも一緒にいるぞ!その強い気持ちが大事なんだ、よく言ったぞ」


「おにいぢゃ…どこにも…行かない、で…いなくならないで…」


「手をどうした?痛いのか?開けないのか?」



 貴明は澄香の右手がずっと握ったままで、手首に鎖のような物がかかっているのに気づく。手袋をしておらず真っ赤だ。破れる寸前の肌を傷つけないようそっと開いた掌には…


「お前…」


「澄香…それ…」



 小さな掌には、シンセのチャームとエンジュのフクロウがしっかり握りしめられていた。



「澄香…の…おまも…り…」



 果てしない大氷原の真ん中で、今際の際まで愛する者との絆を断たないために。破滅に向かって孤独に進みながらも、澄香はお守りを肌身離さず抱き続けていたのだ。

 


 澄香の切ない熱情を知った貴明とすみかは、涙が止まらず顔を上げられない。だが貴明はお守りを澄香の上着のポケットに入れ、むっくりと立ち上がる。その肩はワナワナと震え、顔は寒さのためではなく体の内側から紅潮していた。



「すみかちゃん…変かな?俺は今猛烈に…」


「やっぱり気が合いますね。私、こんなに頭に来たのは生まれて初めて…」


 2人は悪魔のような半笑いになり、天空にいる何かに向かって同時に、交互に叫ぶ。



「俺の大事な澄香を!」「私の大事な澄香を!」

「泣かせる奴は!」

「誰であろうと!」

「絶対に!」

「許さない!」「許さない!」


 

「お兄ちゃん…すみかちゃん…うああああああああん‼︎」 



 澄香は自分を深く想う強い言葉を聞き、一層泣き出してしまう。だがその直後、あることに気づいて少しだけ笑うことができた。


(あ…そっか、この2人って似てるんだ…)



 ここでやっと、聴き慣れた偉そうな幼女の声が湖に響き渡った。


「よく言った!そのくらいのエゴがないと何も始まらないのよ!」


 すみかのドア後方から現れたのはもちろん梨杏だ。怒りに猛る貴明とすみかは悪い笑顔のまま、


「梨杏!おっせーよ」


「梨杏さん!よかった…」


 感情が激しく揺れ動く2人に、少し安堵の表情が戻る。



「追手が厳しくて逃げ回ってたんだ。でもある意味、澄香が暴走してよかった。1時間後なら私は捕まって、ここには来れなかったよ」


 梨杏がいれば最悪でも澄香を岸まで連れていけるだろう。消滅はまだしも凍死の危機からは逃れられる。



「カッコいいねそのソリ。貴明、お前は風除けだ。澄香をしっかり抱いて絶対離すんじゃないよ。行くよ!」


 緊迫した状況にどこか楽しげな梨杏は、ボブスレーの紐を持ったまま、氷の影響がない20cmの高さまで舞い上がる。ボブスレーはゆっくり滑り出す。



「よかった…助かるぞ、澄香」


 心なしか足も少し戻ってきているようだ。梨杏がスピードを上げるが、その直後、


「きゃあ!貴明さん、後ろ!」



 ドアからすみかが叫ぶ。ほどなくしてバリバリバリ!という轟音とともに湖面の氷に放射状のヒビが入り、同時にあちこちで隆起する。中心部は氷が薄いとはいえ、不自然な割れ方だ。悪いことに割れ目はボブスレーに向かって走っている。



「梨杏、そのまま上だっ…」


 梨杏が上昇するが間に合わず、2人は大きく傾いたボブスレーから投げ出され、地獄の入口のように開いた氷の裂け目に向かって滑り落ちていく。


「貴明さん!」



 すみかがとっさにロープを投げる。貴明は澄香を抱いたままどうにかしがみつく。


「君は本当に素敵すぎ…うわああっ!」


 貴明の足が水につかる。氷の真下の湖水はほぼ零度の極低温だ。足がつかるだけでも全身に衝撃が走る。落水すれば数分で低体温症を起こし心肺停止に至る。幸か不幸か澄香は足が消えているので、水につかっていないようだ。


 

「貴明がんばれ!今行く…」


 梨杏が踵を返し2人の救出に向かう。2人分の重みと足を切り取られるような衝撃で、貴明は限界寸前だ。



「つかまれ貴明。澄香をこっちに…」


 梨杏は両手を差し出す。指先が触れてもう少し…というところで、さらに氷が割れ始めた。



「いやああああ‼︎逃げて!」


 すみかの悲鳴が響き、彼らの真下の氷が割れた。梨杏は貴明の指を握りかけて宙に舞うが助けは叶わず、支えがなくなった貴明は澄香を抱いたまま、黒い水中に飲み込まれて行った。



「い、いや、いや!いやあああああ!いやだーーーーー‼︎」



 すみかは錯乱し、ドアから出ようと何度も湖に向けて突進する。時折腕が通り抜け、出られる寸前までに進めるのはすみかの強い力ゆえか。だが結局は光の結界に跳ね返され、体は傷ついていく。上空に止まる梨杏にも怒りと焦りの表情が浮かんでいた。



「すみかやめろ、無茶だ…ちくしょう奴ら追いついて来た。時間がない!すみか!」


 梨杏が呼びかけるが錯乱状態のすみかは気付けない。


「聞け!すみか!ここはなんとかする。でもすぐに私は拘束されるだろう。そうなったら2人を守れるのはお前だけだ。泣いてる場合じゃないよ!」



 梨杏はそう言って上空に舞い上がる。数秒後、鮮やかで神々しい白い光とともに華麗な女神の姿が舞い降りた。背には竪琴?のようなものも見える。



「梨杏さん…いえ…女神…ミュ、ミューズ神?綺麗…」


 まばゆい光と美しさに、すみかは痛みも忘れ心を奪われる。ほどなくして鋭い水音と共に、梨杏は湖に飛び込む。真上には十数羽ものシマフクロウが見守るように空を舞っていた。



「ついに人間に姿を見せる羽目になったか。最大の禁忌、500年でも済まないねこりゃ」



 暗黒。低温。無音。真冬の夜の阿寒湖の水中は、カムイの懐とは思えない死の世界であった。梨杏はすぐに、ぼうっと淡い光を帯びた3m大の球体を見つける。


「お?でっかいマリモ?ここの神もやるじゃん」



 梨杏は笑みを浮かべ、球体に近づいた。中には貴明と澄香…意識はないが互いにしっかりと抱き合い、何があっても離れない様子だ。球体も水のようだが、どうやら温度が違う…温泉だ。温泉水が2人を包み、周囲の極低温水と遊離して球に見えていた。低体温症が進めば引き上げても絶望的だが、これならまだ溺水の処置だけで済む。



「ありがとよ、私の好きな連中を助けてくれて。カムイだっけ、あの偏屈者が信じるだけのことはあるね」


 梨杏は2人を包み込むように抱き、上昇。湖水から上がり少女の姿に戻った。



 2人を毛布の上に横たえる。すみかがドアから不安げに見守る。


「無事、なの…?」


「心停止してるが体温は下がりきってない。これならまだ梨杏さんのハンドパワーで…」


 梨杏は2人の胸に手を置く。白い光が放出され、ほどなくして2人ともビクッ!と痙攣し、水を吐き出して咳込み始めた。命に別状ないことを見届けた梨杏は急ぐ様子で、



「すみか。迎えが来ちまった。2人を頼んだよ」


「はい!命に替えても私が守ります」


「犠牲はやめろっつったでしょ。ったくあんたたちは…貴明!ほれ貴明!」


「んあ…梨杏…今さ、ミューズ神のパチモンみたいな派手な奴が…」



「気づいてたのか、やっぱ普通じゃないね。今日のあんたの力を見て確信した。あんたもエクストリームだわ」


「なん…だと」



「ひょいひょいとピンポイントでドアを作れる奴なんてそういないのよ。そもそもあんたの場合、作るドアにオーディナリー・ワールドとアザーサイドの区別がないのかもしれない。かなり特殊な力」


「何言ってるかわからん…回りくどいぞ」


「どのみち自分で深く理解しないとモノにならないよ。予感だがその力が苦境を打ち破る。ああ…最後だ。よく聞きな、『Try jah love』だよ」


「なんだか知らんがありがと…りあ…」



 言い終わらないうち、鋭い光が梨杏を拘束するように包み込み、そのまま点になって何事もなかったように闇に消えた。圧倒的な力で救ってくれた梨杏はもういない。貴明とすみかは安心も束の間、新たな絶望を感じざるを得なかった。

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