#11 Piece of my heart 〜心のかけらを粉々に飛び散らせるのは避けねばならなかった

 翌1月11日朝。澄香は夕べ泣き疲れたのか、いつもは無駄に早起きなのに8時になっても起きてこない。心配する貴明をよそに、梨杏がドアも開けずに侵入してきた。 


「うわっ!お前なっ、入る時はせめて声かけろって。心臓に悪いわ」


「だって澄香を起こしちゃうでしょ」


 2人は澄香を気遣って小声で話す。



「ちょっと話したいんだけど、出ない?」


「でもな、起きて1人じゃかわいそうだよ。今は一緒にいてやりたいんだ」


「妹には優しいね。ま、この様子なら2時間は起きないよ」


 その言葉を渋々信じ、静かに部屋を出て駅のロッテリアに向かった。



 梨杏は相変わらず口の周りをケチャップまみれにし、大喜びでポテトを食べている。下界?の食べ物が珍しいのか、いつも凄い勢いで食べるからそうなるんだとゲンナリする貴明。自身はうつろな目でコーヒーを口にする。


「梨杏、澄香のことは知ってたのか?」


「普通の人間とは違うだろうと推測はしてた。例えば記憶喪失でも脳の奥底には全部の記憶が残ってるもんだけど、澄香の記憶は不自然にスカスカだったからね。でも人間が分身を作るなんてケタ外れすぎて、全く想定していなかった。恐るべきはすみかだよ」


「あの人は特別なんだ。でも確かに澄香は、昔の話はあまりしたがらなかったよ。あいつは今後どうなるんだ?消える…のか?」



すみかは、妹が自らの真実を知れば存在が揺らぐ可能性があるということを言っていた。それはどういう意味なのか。


「もし消えるとすれば失踪や死じゃなく、存在の消滅だろうね」


「?」


「剣崎澄香という人間が、最初からいなかったことになる。記憶の操作が無効になり周囲の記憶から消える。元々この世界にはいない人間だからね…」



 貴明は、ダンッ!とテーブルを叩く。周囲の視線がこちらに向き自重する。


「おい残酷すぎるだろ!俺も妹がいた記憶がなくなるってのか?」


「なくなるというよりは、最初から妹のいない世界、つまり『現実』に戻る」


「お断りだね。てか本当にロクでもねえな神ってのは」


「そうだね、澄香には何の罪もないもんね。でも、前にも言ったけど私は傍観者。特定の人間の手助けは禁忌になる。そういや過去に似た例が…あっ…」


 梨杏が口ごもる。


 

「なんだよ、今さら驚かねーよ」


「うん…昔、自殺願望のあった女の子がエクストリームになってね。そう、恵美子だっけ?あの娘もそうだけど、極限状態になると能力が発現しやすいんだね」


「となると、別に極限でもない俺に能力があるのが意味不明だが…まあいいや。で?」


「その娘は分身こそ作らなかったけど、同じ自殺願望のあったアザーサイドの女性と、意識をシンクロさせた」


「どういうことだ?」


「1人で死ねずに仲間を探したんだろう。シンクロというよりハッキングに近いかもね」


 貴明は慄然とする。



「エクストリームの娘は相手に語りかけた。もちろん直接ではなく、時空を超えて意識を直結してね。相手の娘も生に絶望していたから、受け入れて影響されてしまったんだ。自分は忌むべき存在だと、心がどんどんネガな方向に向かってしまったの」


「澄香もそう言って泣いてたよ…でも少なくとも、その2人は澄香と違って普通の人間だろ。自分の存在が揺らぐなんてことがあるのか」


「たった1つの言葉で、存在意義が根底から揺さぶられることはある。例えば、別に特殊能力がなくてもノウハウさえあれば『洗脳』はできるでしょ。それで結局その2人は…」


 貴明は息を呑む。



「これを自殺なのか、死と呼べるのかさえわからないけど、同時に2人とも消えた。世界から『いなかったこと』になった。その場にいた別の傍観者に聞くと、体は爪先から叙々に消えたように見えたって。苦しそうではなかったらしい」


「おい。じゃあすみかちゃんと澄香が絶望したら、2人揃って消える可能性があるのか?」


「わからない。ただ妹の方はいわば偽りの生だから、より危ないのは確かだね」


「吐き気がする。何が神だ、人を弄びやがって」


「私も残酷だと思う。でも貴明。本当にすみかを愛するなら、どんな結果になってもあの娘を責めちゃダメだよ」


「ったりめえだ、すみかちゃんがいたから澄香ともいられたんだ。すみかちゃんを否定するのは澄香も否定することだろ、そんなこと絶対にしない。俺がするわけない」


「ほう。いじけた性格の割にはポジティブだね」

「ったりめーだっての。だが俺はそんなことよりも、今すぐやるべき最優先事項に気づいたよ」



「ん?」




「梨杏!そろそろ口の周りを拭けー!」




 気が重い。存在が消えるだと?あの明るく優しい妹がいない世界など考えられるか。


「私はとにかく澄香が心配だよ。状況次第では明日にも消えてしまうかも」


「ふざけろ。なら一体、あいつは何のために生まれてきたんだ。梨杏が手助けできないとしても、俺が消えさせねえからな」


「そうだね。澄香が何のために生まれたのかというなら、貴明のためだからね。何とかできるのはお前だけかもね」


「そうだろ!そうなんだよ。絶対そうなんだ」


 確実なことは何もない。だが思案するより先に、貴明はそう決めていた。




 2人は部屋に戻る。澄香はまだ寝ており、コーヒーを淹れながら目覚めを待つ。やがて寝室の戸が開き、澄香が目をこすりながら起き出してきた。


「おはよ澄香。ずいぶん寝てたな。珍しいね」


「おはようお兄ちゃん!澄香は寝過ぎて、溶けてなくなりそうです」


虚勢を張る元気さがいじらしい。にしてもなくなりそうという表現は、今はいかにも縁起が悪いだろう。



「澄香、ホットサンド買ってきたよ」


「梨杏さんありがとー!美味しいよねーこれ」


 何も変わらない日常。貴明はその尊さを切実に感じていた。今までの兄妹の日常は、もう既に普通ではない。それは今、全力で守るべき時間に変わっていた。



「大丈夫か、具合悪くないか」


「もーお兄ちゃん、病人扱いしないでよ、澄香は大丈夫だよ」


「だってお前…」


「大丈夫だって!ほらこの通り」



 と言って、澄香は貴明の首に巻きつくように抱きついてくる。体温。匂い。吐息。柔らかさ。残酷な真実を知る前と変わらない、ずっと感じていたい温もりがある。ここで梨杏が珍しくも申し訳なさそうに、澄香に真顔で話しかける。



「澄香、私の側からはどう言っていいのか…」


「いいの。梨杏さんは、ちゅうかんかんかんりよく的な立場で板挟みなんでしょ」


「慣れない言葉を無理矢理使うな妹よ。それよりお前、梨杏が何者か知ってたのか」


「神の使いだよね。異常な存在の私を見守ってくれてた。それがわかったのはつい最近だけど、こんな人がそばにいてくれて、澄香は嬉しいです」


「澄香…ほんとに何でこんないい娘が…」


「2人とも心配しすぎー。でも、たまに優しいのもいいですねー」


 と言ってペロッと舌を出す。ああそうか、確かにふとした時、おどけた時の表情はすみかと同じだ。瞳の色も肌の色もスタイルも声も少しずつ違うが、2人は同一人物だ。



「学校始まるまでゆっくり休もう。俺も疲れたしな」



 だが懸念した通り、この日から澄香の調子は少しずつ悪くなっていった。高熱などわかりやすい症状はなかったが、体調というよりは心の問題であるのは明白だ。生命の光が弱くなるような、嫌な感覚に覆われ始めていた。




 翌日。貴明はすみかに会うためアザーサイドに来た。この頃になると貴明は、会いたい対象がいる場所には簡単にドアを出現させられるようになっていた。パチモンなりに本家のどこ○もドアの機能性に近付いてきたともいえる。


「貴明さん。来てくれると思ってました」


 落ち合ったのはクリスマスの思い出深い60階通り。澄香は自らの存在の儚さを自覚したことで急激に脆くなってきたが、すみかもあまり顔色が良くないように見える。


「澄香が調子悪いから、すみかちゃんも心配になってさ。大丈夫かい」


「私は平気。でも澄香の生命力が弱くなってきたのは私も感じています。顔も知らないのに、意識はつながっているんです」


「今後どうすればいいのかな。ごめん、無理なこと聞いてるね」


「ううん、全部私のせいだもの。澄香と貴明さんを悲しませることは絶対にしない。どうすればいいかはまだわからないけど…」


「ありがとう。もう一つ、これだけは言っておきたいんだ」


「はい?」


「俺はね、何があってもすみかちゃんが大好きだ。それだけは忘れないでほしい。だから、変な考えを起こさないで」


「貴明さん…」



 すみかは涙を堪えて答える。


「今私が弱気になったり投げ出したりしたら、きっと澄香に悪影響がある。だから私もあなたと澄香を強く想い続けます。例え…」


 次の言葉をためらい、ぎゅっと唇を噛む。




「例え、私や澄香にとって辛い結果になっても…」




 ここまで言うとさすがに堪えきれず、涙が一粒流れる。貴明はその透明な涙をそっと拭い、手を重ねる。


「そう言ってくれると思った。2人が強い気持ちを持ってくれれば絶対に解決できる。そのためなら俺は何でもするから」


「わかりました。私も貴明さんみたいに、わがままを貫き通しますね!」


「うわわ、だんだん口悪くなってきた?俺の悪影響か…やっちまったかなあ」


「うふふ、人は似た者に惹かれると言いますからね」



 無理に笑顔を作りつつ、声は震えている。贖罪の意識に揺れているのか。この娘を責めるなんてできるはずがない。第一そんなことをしたら、澄香に烈火の如く怒られるのは明白だ。



 店を出る時、どちらからともなく手を繋いで歩く。互いの掌を強く握ったまま自動ドアを踏むと、白い光の中に貴明だけが消えていった。残されたすみかは唇を噛んだままうつむいていたが、その瞳には涙とともに、強い決意の光が宿っていた。




 翌日、1月13日。澄香は得意の料理をする元気さえ失われていた。顔色も悪いのに「大丈夫だよ」と強がる笑顔が痛々しく、貴明はあえて体調には触れないようにしていた。


「そういえばさ、こないだ阿寒湖で一緒に遊んだって話をしたじゃん」


「そうだね、私が泣いてたとかさ。なんで私が湖で泣くのよ、もう」


「あれはさ、ひょっとしたら『未来の記憶』なのかなと思ってるんだ。鮮明なヴィジョではないけど、澄香が雪の上で泣いてるんだよ。最近では夢に出てくる」


「わー/危ない人が/いるー」


「なあ梨杏、どう思う?」


 梨杏も澄香が気がかりで、毎日部屋に来ていた。



「また面倒くさそうなことを言い出したね」


「いや、エクスペリエンストの能力に、未来の記憶とか予知能力はないの?」


「うーん…すみかや恵美子が、お前が来る時はわかると言うのは、予知的な感覚に近いかもしれないね」


「だろ。俺さ、実は梨杏と初めて会うより前に、声や言葉をハッキリと聞いていたんだよね」


「ななんと!お前もなかなか底知れない能力の持ち主だな」



「俺の中の澄香の記憶は、確かに不鮮明で断片的だ。それはずっと思っていたから、記憶の操作があったのを認めるしかない。けど、阿寒の思い出は逆に強くなってるんだ。それが未来の記憶だとしたら、一緒に阿寒に行けばわかるんじゃないかと思う」


「妹を旅行に誘うだけでそこまで前置きする?まーあ面倒くさい男だわ」


「お兄ちゃん…ふふふっ」


 澄香が、フッと力が抜けた丸い表情になる。



「嬉しい。けど長旅する体力はないかも」


「大丈夫だって!これは病気じゃないんだろ。な、梨杏」


「そ…そうだね。まだ気持ちでカバーできる段階。体は大丈夫なんでしょ」


 そう言いつつ梨杏は、貴明に聞かれないよう言葉に出さず、意識下で澄香に語りかける。



(辛いだろうけど最後かもしれない。一緒に行っておいで)



 それを感じ取った澄香は、嗚咽を漏らさぬよう口を押さえる。しばらく間を置き、


「わ、わかったよお兄ちゃん。そこまで言うなら仕方ないな。澄香はついて行ってあげましょう」


「そうか!宿は響子に言えば大丈夫だろ。遠いっても釧路までは飛行機だし、空港からバスで1時間半だ。長旅ってほどじゃないよ。ずっと一緒にいるんだしな」


「うん、楽しみ。でも寒いんでしょ?」


「MAXで−20℃くらいだから、道北や十勝に比べればマシだよ。あそこらへんは平常運転で−30℃だからな」


「まあ−20℃も十分致死量だけどねえ。大丈夫かい、澄香?」


「は、はは、まあ裸で行くわけじゃないしね、はは」



 宿は響子に頼み、明後日に部屋が取れた。景護にも会いたかったが正月の振替休みで阿寒にはいないらしい。でも今回は澄香をこの世界に繋ぎ止めるための挑戦だ。他はいい。




 旅行前日。透矢から連絡が来て、なんとなく2人で会うことになった。澄香が気になっていたが梨杏が面倒をみるというので、半ば追い出されるように池袋西口まで来た。2人は安くて美味いお気に入りの鰻屋「うな錢」に入る。ここは鰻重はもちろん、カシラや、ヒレをぐるぐる巻きにした鰻の串焼きが絶品だ。


「どうしたタカアキ、なんだか元気ないな。あ、お姉さん、短尺2本と生ビール追加ね」


「そうか?いや別に妹のことじゃないんだけどさ」


「ぶふっ!お前はプロ自爆師か。で、澄香ちゃんがどうしたって?」


「うっ」



 わざとらしい自爆には理由がある。他人である透矢の記憶や意識を確かめたかったのだ。まだ大丈夫だ。澄香は友達の中でもまだ自分の妹だ。


「大したことないんだけどさ。ちょっと体調崩してて」


「いっつも妹の心配ばかりだなあ。ほんとお前といるとモテない理由がわかるわ」


「なんとでも言え。あいつは特別なんだよ」



 口にするのも小っ恥ずかしいセリフだが、澄香となると貴明はすぐにムキになる。これは昔からで(現実には4年前からだが)、透矢はそれを面白がってよくからかう。だが貴明が無意識に沈めている優しさを誰よりも的確に理解しているのは、澄香と、この透矢だった。



「旅行が伸びたら学校休むけど、よろしくな。伝えたからな」



 透矢が串をつまみながら、面白そうに悪い顔でつぶやく。


「ま、お前をよく知れば、モテない方がおかしいのがわかるんだけどな」


「ん?なんか言ったか?」


「いやなんでも。あ、お土産は毛ガニとメロンな。他は一切いらぬ」


「却下。湖に毛ガニはいねーし高すぎる。まりも羊羹1人1個!決定事項!」


 少し心が軽くなる。自分は友達に恵まれている。無論、それを簡単に口にする貴明ではないが。



 帰り際、澄香と梨杏に買った鰻重の折詰をぶら下げ、「これこれ、酔っ払いのお土産ったらこれだよな」などとしょうもない冗談で気を紛らわる。透矢への感謝は、どうやって表せばいいんだろう。


「ま、なんかあったら言ってくれ。お前は別にいいけど澄香ちゃんはほっとけないからな」


 その言葉を聞き、当面感謝中止!と貴明は決意した。



 

 旅行当日、1月15日朝。「えー!朝から鰻重!」と大喜びの梨杏と、「えー、朝から鰻重?」と不満げな澄香。両極端な声が響く。澄香は全開ではないものの楽しそうだが、少し変わったのは、常に貴明にくっついて離れなくなったこと。腕を組んだり、手を繋いだり。そのたびに嬉しそうな笑顔を向けるものだから、貴明は照れくさくても拒絶できない。この先万が一のことがあるとしたら…この温もりが、かけがえのない思い出になるはずだから。


 羽田を飛び立った飛行機の窓。北上するごとに風景の色は変わっていく。機体が傾くたびにチラホラ見える東北地方の白い風景に、定位置の窓側に座る澄香は感嘆の声を上げる。



「わーお兄ちゃん、すごいね。街も全部白いんだね」


「当たり前だ。でもな、北海道はもっと白いぞ」



 貴明は北海道に住んでいたので、厳しい冬の感覚を知っている。だが澄香は(偽の記憶はともかく)今回が初めての北海道。見慣れぬ雪景色に興奮していた。



「すごいなあ、初めて見たよ、こんな雪」


「澄香。もう偽りの記憶なんて関係ないんだ。これからは一緒にいろんなものを見よう。一緒にいろんな記憶を作っていこうな」


「お兄ちゃん…」


 澄香が窓を見ながら、隣の貴明の手をキュッと握る。



「私、生まれ変われるかな」


「おお、それいいな。今日からお前は本当の剣崎澄香になるんだ。なら今日、1月15日が誕生日だな!」


「えへ、嬉しいかも」


「そうだろ!てことは驚け、ジャニス・ジョプリンと同じだぞ」


「わ、すごい。歌が心に直接刺さる人だよね。でも私は早死にはしませんよーだ」



 澄香が一層強く手を握り、貴明の肩にもたれかかる。その力強さと明るい表情に一縷の望みを感じながら、貴明は手を優しく握り返した。



 ほどなく飛行機は北海道に差し掛かる。まずまず白かった東北に比べても、明らかに「白の温度」が違う。上空からでも気温の違い、空気の違いを感じる。


「ねえお兄ちゃん、本当にここに住んでたの?」


「そうだよ。場所はいろいろだけどな」


「えーずるい!私も住んでみたい。ほらあの山、ソフトクリームみたいで可愛いよ」


「羊蹄山かな?でもな、実際住むと冬はキッツイぞー。寒いし、何よりも雪かきがな」


「それは大丈夫、全部お兄ちゃんがやるでしょ」


「お前な…。かけ!澄香も毎日雪をかけ!ははは」


「えー、いやですうー!あははは」


 操作された記憶の呪縛が消えつつあるせいか、澄香は穏やかな表情を取り戻していた。



 釧路空港からバスで阿寒湖温泉に向かう。道中も澄香は興奮しっぱなしだ。


「わ!お兄ちゃんあれ!犬…じゃないね?」


「キタキツネだ、珍しくないぞ。普通に軒先まで来るからなあいつら。雪に足跡が一列につくからわかる」


「ほんと?もふもふで可愛いね。捕まえたいな!わー!あっちの斜面すご…え?あれエゾシカ?あんなに大きいの?見て見てお兄ちゃんあのツノ、捕まえたいね、ね!」


「お前は最強の捕食者か!」


「すごいなあ、すごいなあ、雪も動物も綺麗だなあ」



 北海道の湖の中でも、洞爺湖や支笏湖、サロマ湖などは比較的開けた場所にあるが、阿寒湖はそれらと対比するように深い山中にある。それだけに冬の気候は厳しいが、その自然は神秘的な輝きを放つ。


 湖を見下ろす2つの山も含め、阿寒湖はアイヌの聖地であり、数々の伝説に彩られたパワースポットだ。神を認めない不遜な貴明にして、阿寒のアイヌの神【カムイ】だけはなんとなく別格であった。



「ここでなら、きっと答えが…」



 貴明は湖やカムイの力を信じ、ここに澄香を連れてきたのだ。



 大騒ぎしながら2人は旅館に到着。響子が笑顔で出迎える。


「貴明ちゃん!またすぐ会えると思わなかったよ。こちらが前に言ってた妹さん?やーめんこいねー、本当に兄妹なの?」


 澄香がこの苦境に陥っているのは、ある意味響子の言葉が一因だ。だが、どうせ不可避だった挑戦のキッカケを与えてくれた響子には、むしろ感謝すべきかもしれない。


「妹の澄香。こちら阿寒の幼なじみの本間響子さんだよ」


「よろしくお願いします!」


「やー美人さんだわー。部屋は1部屋しか押さえれなかったけど…いいんでしょお?」


「なんでそこで悪い顔なんだよ⁉︎妹だっての」


「ああそうだ、私明日から会合で釧路に行くんだわ。私がいない間もごゆっくりね」 



 それは気が楽だと、貴明は申し訳なくもホッとした。響子が迷惑なわけではないが、この旅は何が起きても不思議ではないのだから。



 2人は部屋に落ち着く。日本旅館だが純和風ではなく、ところどころにアイヌ紋様の飾りがあった。貴明は阿寒にいる頃、素朴で力強いアイヌの文化に惹かれていたので、こうした演出は嬉しくも懐かしい。



 軽く荷物を整理し、さっそく大浴場に向かう。澄香が離れないとはいえさすがに風呂まで一緒というわけにもいかず、先に上がった貴明は澄香を待っていた。


「遅い!何時間入ってんだか」


「女ですもの、おほほほ。ここの温泉最高だね。見て、お肌がスベスベなの!」


「よかったな、ほらアイス」


「わーありがとう!あ、あれゲーセン?見てみようよ!」


 いい感じの侘しさがスパイスの、正統派の「遊戯場」に入った。



「お兄ちゃん。こ、これは…澄香はぜんぜん知らないゲームばかりです。なんですかこの画面に貼ってるセロハンは?」


「そりゃあ温泉ったらレトロゲームだからな。むしろ最新機種があると引くね。ほらみろ、このピエロのやつ!こいつの音源をYMOが大胆に引用してだな…」


「うわー温泉でも面倒くさーい。あっ!これやろお兄ちゃん、もぐらたたき」


「やるか、だが俺に勝てると思うなよ!」



 澄香はすっかり調子が良くなったように見える。普段の無邪気で可愛い妹だ。どうしてこいつが、残酷な運命に翻弄されなければならないのか…


 

 夕食。御膳が部屋に運ばれる旅館ならではの食事は、澄香は初めてだ。今までの記憶が偽りだとわかると、むしろ体験するすべての出来事が子どものように新鮮に映る。手際良くセットされる豪華な料理に、澄香は目を回さんばかりにはしゃいでいる。



「おおお兄ちゃん!これがジャ、ジャパニーズディナールですか⁉︎」


「落ち着け澄香。ディナールって何だ。待て待て!それは火をつけないと食えん!」


 一人鍋を即食べようとする澄香を制し、貴明が固形燃料に火をつける。


「ひやあー、すごいねえ。これお鍋だったんだ。ダ・和食だね」


「日本人でもなかなかこういうのは食べられないけどな。響子が気を利かせてくれたらしいが、カニもついてて豪華すぎないかコレ?支払いが…」


「お兄ちゃん!澄香は感動しています。このメザシ的な魚もとっても香ばしいね」


「落ち着け澄香。それは柳葉魚だ。今では高級魚だからよく味わうんだぞ」


「これが柳葉魚!子持ちだ!美味しー」


 両頬に手を当てて満面の笑みを見せる澄香。貴明は嬉しくなり、酒も手伝って饒舌になる。



「そうだ澄香、アイヌ語で神は『カムイ』っていうんだぜ。不思議じゃないか?和人が北海道に来る前からそう呼んでるはずなのに、発音が日本語の『神』と近いのは何故だろうな」


「へえ、そういえばそうだね。カムイってどんな姿なの?」


「自然崇拝だから、動物の姿を借りてるんだ。フクロウ、オオカミ…」


「確かにここの自然には、得体の知れない力を感じちゃうよね」

「でも鮭や柳葉魚とかの魚は神の化身ではなく、神が贈ってくれる食べ物だそうだ。昔は数が多くてなんぼでも獲れたんだな。ちょっと都合いい気もするけど、素朴で奥深いだろ」



 いつになく喋る貴明を、微笑みながら見つめる澄香。一緒の時間が宝物に感じる。ジャニスが歌った「心のかけら」。今の2人の心のかけらは、少しばかり散逸しているかもしれない。だが今はそれを拾い集めて分け合いたいほどに、互いを慈しむひとときを過ごしていた。



 その後も澄香は、御膳を下げ、布団を敷くところまで仲居さんがやってくれることに感動しっぱなし。あまりのハイテンションに体調が心配になり、2人は早々に寝ることにした。


「ね、こうやって布団が並んでると新婚さんみたいだね。ドキドキ」


「ばっばっバカ言え、いいから寝ろ。速かに寝ろ」


「あはー、お兄ちゃん真っ赤ー!大丈夫、すみかちゃんを悲しませることはしませんよ」


 と言いながらも、澄香は貴明の布団にいそいそと潜り込んでくる。控えめで柔らかな胸が左腕に当たり、乱れた浴衣の裾から覗く白い太ももがまぶしい。



「阿呆なのかー!それがすみかちゃんを悲しませるやつー!」


「えへ、今日だけ。休憩だけで何もしないからさあ、よろしおまっしゃろ」


「されてたまるか!あとエセ関西弁!」


「温かい…。私ね、偽の記憶とわかった今でも、子どもの頃にお兄ちゃんとこうやって一緒に寝た思い出は忘れたくないよ」



 澄香は貴明の胸に顔を埋める。洗い髪の甘い香りが鼻をくすぐる。貴明は愛しさあまって、壊れそうに華奢な澄香の肩を抱きしめ、静かな声で話す。


「俺はさ、カムイの力を借りるためにここに来たんだ。初めての神頼みだよ」


「さっそく効果ありかも。澄香は元気になれそうです。でも、もしも澄香が…」



 その先は聞きたくない。言わせたくない。


「な、もう寝よう。しょうがねえからこのままくっついててやるからさ」


「うん…お休み」


 澄香は目を閉じ、ここに来てついに顕著になってきた、重大な体の違和感を考えていた。



(さっきお風呂で、爪先が少し欠けてるように見えた。足は実際になくなってはいないし、痛くもなく歩けるけど…あはは、嫌だな。これが進んで最後に…私は消えるんだ…)



 澄香はあふれそうな涙を悟られぬよう、貴明の腕の中で寝返りを打ち、背を向け、想う。


(お兄ちゃん。澄香はきっともう終わりです。許してね。怒らないでね)



「ん…ど、うした…澄香ー。風邪引く、ぞー」


 寝ぼけて問いかける貴明。澄香は背を向けたまま振り向けず、涙を堪えるのに必死だ。



(ずっとあなたが好きでした。最後に気持ちを伝えなきゃ…)


 澄香は体を向き直し貴明を抱きしめ、その胸で涙を拭った。




 時は、迫っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る