どこぞのドアと澄香とすみか 〜妹と同じくらい好きな彼女が出来たら神と喧嘩する羽目になったのは一体どういう了見だ〜
#8 Nothing compares 2 U 〜あなたと比べられるものなど何もないなんて一度は言ってみたかった
#8 Nothing compares 2 U 〜あなたと比べられるものなど何もないなんて一度は言ってみたかった
昂りが治まらないのか、澄香はいつになく甘えた様子でくっついてくる。貴明は離れたがらない妹を寮まで送り届けるが、別れ際、澄香は切なげな表情で、
「お兄ちゃん、あの…新潟に帰るのって明後日だよね」
「うん。明日お前は俺の部屋に泊まって、明後日の朝一緒に新幹線だ」
「じゃ明日行くね」
やはり、澄香が思いを伝えようと貴明の袖を引っ張る。
「ね!お兄ちゃん、偉かったと思う。紗英さんにちゃんと向き合ってた」
「何言ってんだ、俺は最悪だ。また自分が嫌になった」
「ううん、そんなことないよ。紗英さんはわかってると思う」
「わかんないのはこっちだ。紗英はなんで俺なんかを…ほら風邪引くから早く行け」
「はーい。お休みお兄ちゃん」
盛りだくさんの年明けの数時間。だが今、心が一番会いたがっている人に関しては何一つ満たされていない。
「すみかちゃん、どうしてるかな」
元日深夜1時半。すみかも初詣をしているかもしれない。ただしアザーサイドのどこかで。どんなに好きになっても、簡単に声さえ聞けない寂しさに潰されそうだ。仕方なく部屋に帰ろうと、初詣客で混み合う東上線に乗り込んだ。
…乗り込んだ…はずが、電車のドアをくぐった瞬間に白い光に包まれた。そしていつもの目が廻る感覚。気がついたら神社の境内にいた。
さっきの神社ではない。でもゲートで飛ばされたからには理由が、と辺りを見るが誰もいない。だがおみくじを売る声には聞き覚えがあった。
「こちらの札を引いてください…何番ですか?はいどうぞ」
なんと、社務所に巫女姿のすみかがいた。白い装束に赤い袴が眩しい。貴明はダウンした気分が一転、おみくじを買うためにいそいそと列に並ぶ。神になど任せないと大言していたポリシーはどうした、ポリシーは。
「おお、おみくじを1杯、いや1本?」
「はいこちら…たたたた貴明さん⁉︎」
しばし見つめ合い固まる2人。その時社務所の奥から「高嶺さーん、キリのいいとこで休憩入ってね」という声がナイスなタイミングで聞こえた。2人は裏手に移動する。うっそうとした鎮守の森が、そよそよと穏やかで心地よい葉音を立てている。
「貴明さんって、いつも私をドキドキさせるタイミングで現れますよね」
「ご、ごめん、なんでかな、あはは」
貴明は緊張でしどろもどろになるが、視線はすみかの巫女姿に釘付けだ。赤い袴に合わせたのか、髪を片側で結っている赤いリボンが破壊力満点。いつもの赤いメガネも巫女装束に相応しく、「可憐」「清純」という要素を完璧に具現化している。
「すみかちゃん、巫女さん…可愛いね。驚いた」
「恥ずかしいです…母がここの職員さんと同級生で、中学の頃から巫女のアルバイトさせられてるんです」
「噂には聞いたけどほんとにバイトなんだね巫女って」
「あは、そうですよ。最初は嫌々だったけど慣れました。でも装束が可愛くて、私なんかが着ても…」
「何言ってんのー!むしろ『す巫女』さんと呼ばせてください。いやー、西洋の神はアレだけど、日本の神の美意識は素晴らしい!」
梨杏の風体や用語からして、ドアを操るのは西洋の神に違いない。神前でどさくさ紛れに和洋の神を比較する、罰当たりな男がここにいた。
「やだもう恥ずかしいよー…」
貴明はすみかとの再会に舞い上がっていたが、晴らすべき疑念を思い出した。
「すみかちゃん。あのさ、ドアのことなんだけど」
「はい、ゲートのことですよね」
「あまり驚かないんだね」
「だって、貴明さんもエクスペリエンストなんでしょ」
「そこまでわかってたの!」
「はい。あなたが私と同じ能力を持っていることも嬉しくて。だから貴明さんは私の特別なの」
「…いつから知ってたの?」
すみかはさほど驚かない様子で続ける。
「たぶん、最初に会ったときから」
「まじか…そうだ、ずっと引っかかってたんだ。池袋のホテルで助けてくれたのって」
すみかは微笑みながら、
「そう、私です」
殺されかかった池袋の森村ホテル。窮地を救うヒントをくれたのは、目の前にいるこの女の子だ。そう思うとさらに特別な感情が込み上げる。
「やっぱりそうか。君がいなかったら俺は今頃東京湾の底で、江戸前の魚の餌だよ。つまり俺が江戸前だよ」
「そうですよ。せっかく出会えたのに江戸前になったら困るもの。くすくすっ」
すみかは少し大人っぽい表情で笑い、話を続ける。
「私はエクスペリエンストとしての能力が少し強いらしいの。貴明さんが来る時は何となくわかるんです」
「それで俺が飛ばされた時にはよく君がいるのか」
「そうかもしれないけど、必ずしもそうじゃないです。ゲートは開ける人の望みが形になるものだから」
すみかは、胸の前でもじもじと指をクロスさせる。
「つまり…ですね。貴明さんが私の前に現れるのは、きっと私のことを強く想ってくれた時…だと思います」
2人とも鳥居のようにカーッと顔が赤くなる。相変わらず中学生レベルである。
「ははは…でも来るのがわかるのに、俺が現れるとすごい勢いで驚くのはなぜ?」
貴明に少し余裕が戻り、いつもの意地悪心が顔を出す。
「そ、それはあの…来る場所はおぼろげにわかるけど、タイミングは正確にはわからないし、それに…あうあう…」
「それに?」
「あなたのことを考えている時を狙ったように現れるから、驚いちゃうんです!もーー!」
そうまくし立て、すみかは軽く逆ギレしてみせる。プンッと膨らませて赤く染まる柔らかそうな頬の質感に、貴明は悶絶する。
「はは、ごめん。でもわからないのは、見ただけで俺を好きになる人なんているわけ…」
習慣的にモテない前提で話し始めるが、さっきの紗英を思い出して自重する。
「そうですね。貴明さんは確かに第一印象が悪い!」
「ふおおっ!」
大人しいと思っていたすみかは、2人でいると意外にしゃべってくれるし、不意打ちのユーモアもあり会話が楽しい。
「でも、すぐに思いやりが深い人だってわかるもの。最初はライブだったんです。中学生の頃、4年くらい前」
会場ですみかを見かけるようになったのは4年前という、透矢の言葉と符合する。
「うわ!中学生でライブなんて。この人不良ですよー神様ー」
「実はヤンキーでしたー!なめんなよ!」
すみかはウィンクしながらペロッと舌を出しておどける。もはや間違いなく可愛い人だ。
「あの頃の私は…」
すみかは、ふっと辛そうな表情に変わる。様子を察すればこれ以上話さないほうがいいのかもしれない。だが事情があるのを感じた貴明は、
「嫌でなければ話して。いろんなことを共有したい」
「嬉しい…でもつまんない話ですよ。私が中学1年の時、両親が離婚したんです。父は東京の家に不倫相手を迎え入れるからと、母と私を追い出しました。悲しくて、心細くて」
親の離婚など珍しくもないが、その数だけ傷つく子どもがいるのもまた珍しくない。貴明は自分が何を言っても空虚に感じられ、黙ってすみかの言葉を待つ。
「まともな分与も養育費もアテにできない父でした。母は心が病んでしまったのか、調停も投げやりで中途半端に打ち切り、2人で九州の親戚の家に無一文で転がり込んだんです。そこには母の兄、私の叔父がいたんですが…」
すみかの顔が曇る。
「ごめんねすみかちゃん。無理に話さなくても」
「いいの。今まで誰にも話せなかった。嫌われるかもしれないけど…私はその頃、叔父から…その…」
嫌な予感しかしない。すみかはうつむき、消え入りそうな声で告げる。
「い、悪戯を…」
貴明の身体中の血が逆流する。自分でもおぞましいほどの負の感情が込み上げる。
「なっ…ごめんすみかちゃん、本当にもういい。やめよう」
すみかは涙を浮かべながら、それでも続ける。
「いいんです。それでも私は、どうにか耐えようと思った。気持ち悪いけど暴力はなかったし、叔父も最後まではしようとしなかったから。私さえ心を閉じれば我慢できるって。無理矢理そう思ってた」
貴明は、震える拳で自分の太ももをバシバシと殴る。怒りを抑えるのに必死だ。愛する者が背負う呪縛への、やり場のない怒り。初めて覚えるやり切れなさ。
「でもあの時私が本当に絶望したのは、母に対してなんです。追及して叔父たちを怒らせるのがマズイのはわかりますが、私自身の恥にもなると考えたようで」
「見て見ぬふりをした?」
「はい。遠い九州で、私は世界に1人の味方もいなくなったと思いました。積極的に死のうとは思わなかったけど、何もしなくてもこのまま死んじゃうのかな、消えちゃうのかなって。毎日そう感じてました」
いつもの彼女らしからぬ無表情で話を続ける。
「その家には叔父の長男、私のいとこの男の子がいたんですが、その子が私とお父さんの異常な関係に気づいたみたいで」
「そいつも思春期だろうからなあ」
「学校でふざけ半分に話したらしいんです。それに尾鰭がついて、私はいつのまにか叔父を誘惑するビッチにされてしまいました。笑われて、無視されて、いじめられて。男子の先輩や同級生からはいやらしい目で見られて体を触られたし、女子も陰湿だった。母も、他の父兄から汚い言葉を浴びせられたようです」
「そんなことが…」
時として子どもは残酷である。だが、いとこにしても悪気というよりは、父に対する苛立ちから間違った行動に及んだのかもしれない。悪いのは大人だ。
貴明は自らを恥じた。自分はロクなモンじゃないと思うが、それでも両親がいて、友達がいて、何よりも大切な妹がいる。多感な時期に、理不尽な辱めを受けたこの人に比べれば…
「高校に行ったらリセットできると思ったんですが、私はもうダメになっててますます殻に閉じこもった。誰もいないとこに行きたい、でも1人でいいから味方がほしいって。考え方がおかしいですよね。そしてある日、家のドアを開けたら具合が悪くなって…」
「ゲートだ」
「そう。私はあの時エクスペリエンストになったらしいんです」
すみかは抱え込んできた感情を出し切り、観念した表情で目を伏せる。話せば楽になることもある。だがすみかには、そうできる相手が今までいなかったのだ。
「…やっぱり私は、貴明さんに相応しくない…」
「何言ってんだ!」
すみかはビクッとして貴明の目を見る。
「俺をなめてもらっちゃ困りますね。そんなの、今のすみかちゃんさえ平気なら、蚊に刺されたようなもんだよ。ま、その小汚ねえ蚊はいずれ駆除したいとは思うけどね」
「貴明さん…私でいいの?」
「あのね、怒りますよ。俺がすみかちゃんを嫌になる理由が、今の話に一つでもあった?俺には君以上の人はいない。それは全然変わってないよ」
「私…私は…」
すみかの目から一筋の涙がこぼれ落ちる。数年間耐えてきた感情が詰まった、たった一粒の重い涙だった。
「エクスペリエンストになってからもずっと、私は無意識に理解者や味方を探していたのだと思います。そのために与えられた能力なんだと、やっとわかりました」
「よかったね…それで会えたのかい?味方には」
すみかは泣き顔から一転、不思議そうな、呆れたような面持ちで貴明を見つめる。
「ええ?な何言ってるんですか?味方なら今、私の目の前で缶コーヒー飲んでますよ」
「お俺かっ!そうかあ…」
「むしろ違うのっ⁉︎もう、本当に鈍いんだから。もっと自覚してくださいね!」
すみかは笑顔を取り戻す。
「最初にゲートで飛んだのが、あのライブハウスの近くだったんです。音楽は好きだけどライブなんて行ったことがなくて怖かったのに、なぜか入らないといけない気がして」
「俺のいたバンドの…」
「そう。勇気を出して入ったけど暗いし狭いしうるさいし、やっぱり怖くてもう帰ろうと思ったとき、ピアノの音が聞こえてきたんです」
高校生の頃、透矢と共に所属した新潟のバンド。貴明は当時からメリハリをつけるため、セットリストにピアノメインのバラードを織り交ぜることが多かった。
「スティーヴィー・ワンダーかな。あの頃は俺様の曲をあまり使ってもらえなかったから、腹いせによく弾いてたよ」
「あはは。そうです。一所懸命調べてレコード買いました。水族館のやつ、2枚組で高かったなー」
またペロッと舌を出すすみか。この可愛さ、わざとか?
「あの曲だけでなく全部最高ですよね」
「あれは超名盤だよ。ベスト盤としてはビートルズの赤青と双璧だと思う」
「そうなんですか!貴明さんの音は澄んでいて、心に直接染みるようで、涙があふれてきて。私、それまでずっとふさぎ込んでて感情がなかったんですけど、その時は何年ぶりかで心が揺れたの」
「わ、ちょっと照れるかも」
「それに、貴明さんがなぜか白く光って見えたんです。言っときますけど『ライトが当たった』んじゃあないですよ?くすっ」
すみかは悪戯っぽく笑う。
「その音と光で、あ、この人だってわかったんです。考えたんじゃない、わかったんです。味方はこの人だ。この人に会うために、私はここに飛ばされたんだって」
「でも俺は君が来ていたのを知らなかった。ごめん。その頃の俺は、ドアなんて無縁だったはずだけどな」
「私、人が怖くてコソコソしてたからしょうがないですよ。でもきっと、私だけが貴明さんの能力を信じていたんですよね。えへへへ」
懸命に話してくれるすみかをますます大切に感じる貴明。すみかは両手で持っている缶のお茶を口にする。何気ない仕草さえ可愛らしい。
「その後も貴明さんのライブを見に行くたびに、自分を覆っていた靄が晴れていくのを感じました。傷は簡単にはなくならないけど…でもね、母が最近」
「お母さん、どうしたの」
「母が去年、あの頃のことを謝ってくれたんです。泣きながらごめんねって抱きしめてくれて。私は母の気持ちも立場もわかろうと努力していたつもりだったのに、どこかで母を恨んでた。でも母が泣くのを見て後悔したんです」
すみかはあふれかけていた涙をそっとぬぐう。
「母はあの時、コトが発覚してから1ヶ月で私を連れて九州を出て、東京に戻ってくれたんです。たった1ヶ月でそんなお金、どんな思いで作ったのか…。それに見て見ぬふりは最初だけで、その後は家で孤立しながら私を守ってくれたの」
すみかが感極まり、貴明の手を握る。
「よかったね、すごいね」
「いえ、すごいのは母です。家を出る日に親戚一同を呼びつけて、その場で叔父を思いっきりグーでぶん殴ったんですから!」
「ははは、バカ兄貴ざまあみろだ!やるねお母さん、なんだかスカッとした」
「私もです!でもその後、気持ちを整理して前向きになれたのはあなたのおかげです。貴明さんと音楽が、捨て鉢になっていた私を強くしてくれた」
貴明は愛しそうにすみかを見つめた後、目を離してふとつぶやく。
「な、俺が好きになったのは素敵な人だろ、澄香」
「え?私?」
「いや、そ、その…妹の方…」
「あはは、会ってみたいな。名前以外も私に似てる?」
「いやいや名前だけだよ。あいつは生意気でうるさいし乱暴なくせに泣き虫だし、全部逆」
「ふうーん?」
と言いながら、すみかはニカっと悪い笑顔になり、下から貴明の顔を覗き込む。あれ?こんな表情や仕草は澄香に似てるかもと、ドキッとする貴明。愛しい気持ちが最大に高まり、意を決した。
正面から、がしっとすみかの両肩をつかむ。すみかは「きゃっ!」っと少し驚きつつも、拒む様子はない。
「すみかちゃん、好きだ。俺はずっと、何があっても味方だから」
「私も大好きです。貴明さん、貴明さん…」
自然に唇が近づく。腕を互いの肩に回し、ゆっくりとキスを交わす。だがその直後、ピンクのドアが貴明の背後に出現した。
「ああ…」
すみかが、白い光を放ちながら徐々に開くドアに気づく。貴明は強制的にドアの光の中に吸い込まれていく。
「すみかちゃーん‼︎」
「いや…こんなの…貴明さん!」
互いの身体と想いを繋ぎ止めようと固く結んだ手は、神の力になす術もなく引き剥がされる。光と共に、貴明はいつものごとく自分の世界に引き戻された。
「ああああ…!」
残されたすみかは泣き崩れる。でも、私は以前の私じゃない。味方がいるならもう絶望なんて必要ない。運命?とことん抗ってやる。そう固く決意した。
髪を結っていた赤いリボンが、スローモーションのようにひらひらと落ちる。貴明を引き留めようとした時に解けたらしい。それが不意の風でふわりと空に舞い、神木に引っかかる。はためくリボンの赤が、夜空に鮮烈な色彩を放つ。それを強い視線で一瞥し、あふれる涙を拭いながら、すみかは社務所に戻った。
またも強制送還された貴明。部屋には待ち構えるように梨杏がいた。
「梨杏…てめー本当いい加減にしろよ。寸止めの神様って悪趣味すぎなんだよ」
「ふふ。でも諦めないんだろ。私もだんだんお前がわかってきたよ」
「ったりめえよ、誰がこの程度で凹んでやるか。神ごときに屈してたまるか。俺は絶対にすみかちゃんと一緒になる。なぜなら彼女と比べられるものは他に何もないからだ。ざまあ見やがれだな、ハハッ!」
「いいねえ、やれるもんならやってみな。あれ?でもそこに澄香を加えなくていいの?」
悪い笑顔で貴明を煽る梨杏。
「妹は別枠!しょうもないツッコミすな。いいか、俺はドアのルールなんかブチ壊してやる。覚悟しとけよ、そんときゃなんでも言うこと聞いてもらうからな」
「いいよ、楽しみにしとく。何にせよウジウジしてなくて安心したよ」
「そうだよ。ちゃんとしないと紗英や理恵に殺されるしな」
ドアに出会ってから、貴明は少しずつ変わり始めている。人嫌いがすぐに治るわけではなさそうだが、今までは心の奥底に潜んでいた優しさが、澄香以外の人間にも向けられるようになっている。紗英やすみかの心痛を、自分の痛みとして感じられるようになりつつあった。
「成長してるな貴明」
「何だよ、親みたいに。いや、親というよりひいばあちゃ…」
「あ”あ“ん!?褒めて損した!」
梨杏はひらりと宙を舞い、座っている貴明に首四の字固めをかける。
「俺…折れ、る…わかったごめん」
「ふん、言葉には気をつけるこったな。お前の悪い癖だ」
「悪かったよ。代わりに明日からこの部屋使っていいよ。俺と澄香は来週まで実家に行くからさ。どうせ鍵なくても入れるんだろ?」
「そうか助かる。エクスペリエンストの家を渡り歩くのも疲れてなあ」
「そりゃまあ年齢からして体力的には…」
「全然反省してないな…」
と言って、梨杏はボキボキと指を鳴らす。
「だーっ、わかったごめんて」
「肉体は借り物だから大して疲れないが、メンタルはやられるんだよ私だって。お前みたいにすんなり受け入れる鈍感ばかりでもないんでな」
「その図々しさでか?ナイわー」
言い終わらないうちに、猪木仕込みとも思われるパーフェクトな卍型めが決まる。だが梨杏の低身長で無理矢理かけるものだから、貴明は不自然な形に体が折れ曲がり、リアルに死線を意識する羽目になった。
「阿呆かー!死!死のドア!長く曲がりくねった道の先に見える…」
「よし、貴明は卍型めで死ぬ、と。澄香に報告ね」
「ひょっとしてお前のプロレス技って」
「澄香師匠直伝だよ。あいつの身体能力はエクセレントだな。体育会を3つ掛け持ちしてるらしいが納得だわ」
「ふふふ、澄香…明日の電車、窓側禁止だ。覚悟しとけ、ふふふふ…」
「お前たちは本当に仲がいいねえ、ははははー」
「許さんって話をしてるんだよ!」
元日からベッドを梨杏に取られ、貴明はソファに横になる。でも今さらだが梨杏がいてよかった。バカ話でもしてなきゃ、すみかが気がかりでおかしくなっていたかもしれない。
「すみ…おれがまも、る…」
貴明の寝言に、切ない表情をみせる梨杏であった。
翌1月2日夕方。必要以上に元気な様子で澄香がやってきた。巨大なボストンバッグとスーツケースが計3個も見える。
「やあやあお兄ちゃん!澄香はとってもよいお正月を過ごしています」
「おま、夜逃げか?これ電車に乗せていいものか?」
「大丈夫。2人で4つ、つまり1人2個ならいけるって」
「俺が1個って決めつけてんな」「違うの?」「うっ」「しかもどうせ紙袋でしょ、そんなん0.3個分だよ」「ううっ」
梨杏が茶々を入れにやってくる。
「相変わらずテンポいいねお前ら」
「梨杏さーん!」
澄香は、嬉しくてたまらないという体で梨杏に抱きつく。
「澄香、何かあったの?すごい勢いね」
「うん、初詣でお兄ちゃんの男気を見せてもらいましたから。ぐへへ」
「なるほど。ぐへ、」
「ぐへへへへ」
こういう余計なところ、2人はピタッと息が合う。
「何をっ…いいから少し休んで、晩飯はおせちを全部片すぞ。スーパーのだけど」
「はーい」
「ところで俺もうっかり馴染みかけてるんだけどさ、この部屋に梨杏が普通にいるのは、澄香的には問題ないの?」
「なんで?」
「だってこいつも一応紗英や理恵と同じ同級生…で、一応女だし、普通はさあ」
嘘をつき通すのは面倒くさいと貴明は毎度参っている。梨杏め。
「あーそゆことなら大丈夫。梨杏さんは別格だから。男・女・梨杏みたいな?なんかさー、他人という気がしないというかさ、もはや姉?」
「妹の間違いだろ」
「いやいや、人は見かけによりません。梨杏さんは私やお兄ちゃんなんかよりも、不思議に大人の魅力を感じるんだよねー」
ここで梨杏が大喜び。
「わかるか澄香!のーんとボケ倒してる兄貴と違って賢いなお前は。可愛い奴ー」
澄香を膝枕してぐりぐりと頭を撫でる。澄香はまるで上機嫌な猫のようだ。
「えへへー、梨杏さーん」
などと騒いだ後、食卓を囲んだ3人はささやかな正月気分を味わう。おせちは出来合いだが雑煮は澄香の手作りだ。同級生のついでに梨杏はハーフで外国育ちという嘘の上塗りをしているので、こうした和食は格好のネタになる。
「これは何だ?パリパリして美味いけど意味がわからん」
「数の子だよ」
「これは?小さいのに堅くて意味わからん。味わい深いが」
「田作だよ」
「これは?めそめそしてるやつ。こいつが一番意味わからん」
「だーっ!いいから静かに食え!てか料理でめそめそってどんな表現だよ。意味わからんどころか、おせちは全部意味があんだよ」
「もう、お兄ちゃんは新年も相変わらず驚異的に心が狭いなあ。ほら梨杏さんこれ美味しいよ。栗きんとんだよ」
「これまた意味わからんペースト状…う、うまっ!甘さは美味さだね、澄香!」
「ほらお雑煮も。私が作ったんだけどさ。お餅溶けないうちに食べてね」
「ああ、これはいいわー。結局澄香の料理が一番美味しいのよね」
「もう梨杏さん、正直なんだからー」
「ま、それは俺も否定しない…」
「お兄ちゃん!そこ大事だからもっと大きな声で聞き取りやすく!」
最後まで大騒ぎで食事を終え、明日は早いので寝ようということになった。パジャマ姿でじゃれ合う2人は微笑ましいが、梨杏の素性を考えると、どうしたもんかな?
翌1月3日7時。
「じゃ梨杏、留守番頼むよ。楽器に触って壊さない限り、部屋は好きに使っていいから」
「楽器しかない部屋で楽器に触らなかったら、何に触ればいいのよ」
「梨杏さんにお土産買ってくるね。笹団子がいいかなあ」
「本当!でも笹って美味しいの?パンダ的な?」
「いや笹の団子じゃないからな。そんなもん俺も食いたくないし、名物なわけがねえ」
部屋を出る2人。4つの大荷物はもちろん全部貴明が持つハメになる。それが元で息の合った口喧嘩を繰り広げながらも上野駅に着き、新幹線に乗り込んだ。
「そうだお前、梨杏にプロレス技教えてるらしいな。おかげで俺は体中の関節がルーズになってるんだぞ。どうしてくれる」
「梨杏さんスジがいいんだよー。すぐ覚えちゃう」
「んなこたいいの!今日は罰として、窓側には俺が座ります。お前は通路側に…」
澄香は反論するより先に、捨てられた仔犬のような涙目を貴明に向け、無言で圧をかける。
「おわっ!わかったわかった、ほら窓側行けよ、ったくしょうがねえな」
「わーい定位置定位置ー。おやつおやつー。ここで早くもポッキー登場ぅ!」
この妹には一生勝てねえなと、楽しげで愛らしい横顔を見ながら貴明は改めて思った。
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