#3 Beat it 〜この場合殴るのはいいとしてもできれば別の物を使いたかった

「理屈がわかれば、この光の海も楽しいな」


 ドアに入った貴明は、光の中をスイスイと進んでいく。実際に進んではいないのかもしれないが、気分的には、目標つまり欲望に向かって邁進するような高揚感があった。



 やや強いめまいを覚え、気づくと街の中。また電器屋か、今度はさくらやだ。池袋だけど今日は東口だな。斉藤由貴はイベント中かな?と辺りを見回す貴明。だが彼が唯一敬愛する稀代のアイドルの姿はなく、いつものガチャガチャした人混みが広がるだけだった。



「なんだよ梨杏のやつ、ドアは欲求を実現するなんて嘘じゃねえか。しかも来るのは池袋ばっか…東武と西武を潰す気か」


 つぶやきながら、ドアで会えそうな関係者はいないかとキョロキョロ探す貴明。不意にどすん、ふにゅんと誰かがぶつかり、さらに体が絡んで転びそうになってしまった。


「あ、すみません、俺よそ見してて」



「いいのよ、あらー、可愛いお兄さんね。ねえ、私今は忙しいんだけどさ、1時間くらい後にロサ会館の前に来ない?お詫びってわけでもないけど、ちょっと遊びましょうよ」


 太い眉、大きめに描いた赤いルージュ。完璧なるワンレンボディコンスタイルに、現実離れした大きな胸。理恵さえも及ばないフェロモン系美女を前にして貴明は緊張する。


「は、はい行きます!西口ですよね」


「うふふ、待ってるからね」



 女は誘う目つきで、胸を密着させながら貴明の腕に軽く絡みつき、すぐに足早に駅方面に消えた。


「昼からなんというエロさ…でも店の人だろうな。ま、ここは異世界だし、もし騙されても何とかなるだろ」


だらしない顔で能天気に妄想する。だがそれを少し遠くから見つめるもう一人の誰かがいることに、貴明は気づく由もなかった。



人混みに来るとわかってれば、大事なキーボードを背負ってこなかったのに。せめてケースに入れるべきだったと反省する貴明。


「ったくよ、池袋専用のどこ〇もドアなのか?大事なキーボードを全裸で持ち歩くとか、傷ついたらどうすんだよ。バイトしてようやく買ったのに」


貴明はなんとなく、60階通りを駅に向かうが、背後にはもう一組異様な視線を向ける一団がいたことにも、貴明は気づけなかった。



「おい、あいつか?」


「間違いねえ。佳奈、キーボードを持ったアホそうな男に渡したんだろ?」


「アガリを守るためとはいえ、通りすがりの奴に預けるとはふざけた女だ」



 さっきのボディコン。佳奈と3人の男はどうやら悪い仲間らしい。売り上げ金か品物を持ち逃げする途中だったが、上層部からは逃げ切れないと観念し、とりあえず偶然会った貴明にそれを手渡した。いや無理矢理に預けたようだ。



「そうよ。バカみたいに赤いキーボード背負ってて目印になるでしょ。弱そうだから何とでもなりそうだし」


「まあまあお前ら、俺が佳奈にやらせたんだよ。あそこで捕まってヘッドに渡るよりはマシだろ。そうなりゃ俺らだってどうなるか」


「この野郎…ムカつくが仕方がねえ。とにかくあいつが気づく前に取り戻すぞ。ちゃんと戻ったらお前らの手柄ってことにしてやるよ」


「ま、抵抗したら畳めばいいんだし?余裕っしょ」



 4人は適当な距離を取りながら貴明を追った。そのさらに後ろから、さっきから様子を見ている人物が、つかず離れずの距離で追跡していた。



 そんな緊迫感をよそに、喫茶店でコーヒーを飲む貴明。そういやこっちに透矢や紗英はいるのかな?連絡したらどうなるんだ?公衆電話、いやその前にテレホンカードは…などと、アザーサイドの過ごし方についてぼんやりと考えていた。


 憧れの斉藤由貴は、財布から取り出した50度数のテレカで微笑んではいるが、この辺にはいないようだ。帰るか…と喫茶店を出たところで、貴明は重要なことに気づく。



「あれ?どうやって帰るんだっけ?」


 こいつはイカン。考えを整理しつつ、彼はとりあえず自分の部屋に帰ることにした。



だいたい、こっちの世界に自分はいるのか?いないのか?梨杏は俺は1人だけと言っていたが、自宅でその真贋を確かめることが、帰りのヒントになるかもしれないと思った。


 とぼとぼと駅へ歩く貴明。そのうち、後方から漂うただならぬ気配に気づいた。


「おう兄ちゃん、ちょっと話があるんだけどよ」


 ダボダボで汚いが派手な色の服装にドレッドヘア、鼻ピアス。うわあ…チーマーさんがなぜ俺にと、貴明は面倒くさそうに答える。


「ええと、俺にはないけど、何?」


 言い終わらないうちに、女がいることに気づいた。あのボディコン巨乳だ。帰りのことで途方に暮れて、後で会うことも忘れていた。


「あ、さっきの巨乳!」


「ハーイ。お兄さんさあ、さっき私が渡したもの、まだ持ってるよね」


「え?俺何かもらったっけ?」


「まだ気づいてないみたいね。はい身体検査」


 男どもがわらわらと貴明に近づいてくる。これはアレだな、ヤバイやつだな。



 貴明は本能的に、駅方面の人が多い方へダッシュした。


「あ!待てこらてめえコノヤロー!」


 何だかわからん。俺は何か受け取ったか?と体をまさぐるが何もない。それでも走りながら必死で調べると、上着の右内ポケットに違和感があった。


「ビニール袋…粉?これって…」


「絶対逃がすなよ!」


 たった1日で児童略取誘拐に運び屋か。ドアのせいで俺は犯罪ルートまっしぐらだと絶望しつつも、生きる本能でとにかく走った。



 ヒラヒラと人混みをかわして走る貴明に対し、チーマーは残念なことに4人が一列になって追いかける形になっており、効率が悪い。奴らの頭の悪さに幸運を感じつつ、目に止まったホテル…「森村ホテル」に逃げ込む。


 フロントの目を盗んで上階に上がるも、毛足の長いカーペットに足を取られ、何回転もするほど派手に転んでしまった。したたかに脇腹を打ち、悶絶している間に奴らに追いつかれてしまう。



「返せよ。おとなしく返せば何もしねえ」


「嘘だね。返してもどうせ俺は東京湾に沈められるんだろ」


「返さなかったら確実にそうなるんだぞ。つまり、どっちにしろてめえはおしまい」


 ホテルは、チェックアウト後の掃除の時間だ。人影は見えず、ところどころにギャッベの詰まったカートが置かれている。貴明はカートを盾に奴らと正対する。


「いやだね。どうせ死ぬなら俺は正義を貫く」


「何が正義だこのタコ…っておい!」


 貴明は袋を取り出し、それを破くそぶりを見せた。彼は極限状態に陥ると無駄にテンションが上がる類の、とことん面倒くさく迷惑な性格であった。


「うはははー!こいつをシーツの山にぶちまけちゃおうかな?濡れたタオルも入ってるし、いい具合に溶けてなくなりそうだなあ」


「おいやめろ、いいからそれを渡せ」


「待てよ、このふかふかのじゅうたんにまくだけでも回収不能だな。そりゃ手軽でいいや



 貴明が袋を切りかけた瞬間、1人の男が飛びかかってきた。貴明はとっさにキーボードRK−100を突き出す。重いボディが見事に男の脳天に当たり、相手はもんどり打って倒れたまま動けない。


「あ“あ”あ“!大切なキーボード…壊れてないかおい?」


「貴様…もういい、こいつは殺そう」


 残った2人の男が貴明を取り押さえにかかる。乱闘の中、1人にRK−100のネックの先が眉間にヒットする。


「痛え!それやたら硬いな、ふざけんな」


「ったりめえよ、コルグなめんなよ。本物の高級感漂う堅牢な作りには、昔から定評がございます。オラオラオラ!K・オーギ・ケーン!」



 貴明は謎の技?を慇懃に言い放つと、今度は脳天を狙ってRK−100の重いボディ側を振り下ろす。これがいい勢いでジャスト・ビート・イット。RK−100はショルダーキーボードの歴史に残るスタイリッシュな名機だが、相当に重く、ステージでは非常に疲れるという難点があった。だがここではその重さが確実にいい方向に作用した。



「こう・きゅう・かん…」



 無意識のコルグへの賞賛?とともに奴は崩れ落ち、戦闘不能に。残りは1人だ。



 こうなると最後の1人は必死だ。こんな時ポケットから取り出す得物は、ジャックナイフと相場が決まっている。



「てめえ、いい加減ブツ渡せ。それか死ね!」



 どでかいナイフ対RK−100。武器対楽器。圧倒的不利ながら、貴明の脳内では大好きなポリスアクション映画のテーマ曲が鳴り響いていた。ちなみに貴明は、起きている間は常時脳内で何かしらの曲を再生しているという音楽性変態である。なおこの時のセットリストは「Axel F」「Cheer down」などなど…。


 男がナイフを振り回す。切っ先が貴明の左腕を的確にとらえ、まあまあシリアスに出血し激痛が走る。マズイ。喧嘩慣れした奴のナイフをかわせるわけがない。体力も限界だ。ああアザーサイドなんて関わりたくなかったと、今さらながら後悔する貴明。男はじりじりと距離を詰め、その後ろには薄ら笑いを浮かべた佳奈もいた。



 絶望的。だがここで突然、廊下の一番遠いところから声が聞こえた。それは真剣に誰かを思う気持ちがこめられた、必死な声。



「ゲート!ドアを開けて逃げて!」



 女の子か?佳奈にぶつかったときからずっと後をつけていた人物らしい。遠くて顔はわからないが、その高温でよく通る声はどこかで聞き覚えがある。気がした。


「えっ⁉︎なんで知って…」


「なんでもいいから、とにかく開けてください!」



 ホテルなので部屋のドアはたくさんある。だが果たしてこの中にゲートはあるのか?


「誰としゃべってんだよてめえ、そろそろ切り刻んでやんよ。ブツはその後でいい。やるぞ佳奈」


 男が突きつけるナイフを必死に避け、貴明は一番近い部屋のドアに手をかける。だがこれは普通のドアだ。開けるとホテルの部屋が見えた。



 「違う、一番したいことを思って開けるんです!わかるでしょ!」


 女の子の声が響く。そうか欲求だ。梨杏も言ってた。貴明は考える。



 今一番したいこと…帰って寝たい。キーボードが壊れてないか確かめたい。ダークローストのコーヒーが飲みたい。斉藤由貴は…いやそれはもういい。そんなことを考えながら次々にドアを開けるが、どれも全部普通の部屋だ。5つめのドアを開けたところでついに奴らに組み付かれ、そのまま部屋になだれ込んでしまう。目の前にはナイフが迫る。



 もうダメだ…なんで俺はこう素直じゃないんだ。マトリ気取ってる場合かよ、素直に渡せば何もなかったかもしれないのに。


 相手をキーボードで押さえてどうにかナイフを止めながら、貴明は深々と後悔する。その時、いっそう力のこもった女の子の絶叫が耳に飛び込んできた。



「一番会いたい人のことを考えて!世界で一番大切な人のこと!お願い貴明さん!」


 大切な人か…でも誰だ…親?透矢?紗英?



 …そうか、あいつだ。その人の顔を思い浮かべ、貴明は静かな心持ちを取り戻す。



「お兄ちゃん!あははっ!」



 妹の澄香の声。笑顔、泣き顔、不機嫌、甘えた様子…いくつもの表情が浮かんでくる。この危機的状況においてさえ、そのどれもがたまらなく愛しかった。



「妹に…。澄香に、会いたい」


「そう、それでいいの!これからは綺麗な女の人には用心してくださいね!」



 微妙に怒られた感じだが、遠くの声の主は嬉しそうにガッツポーズしたようにも見えた。



 ナイフの攻防で貴明が押しつけられていたのは、トイレのドアだ。貴明は渾身の力で相手を蹴り飛ばし、翻ってドアノブに手をかける。瞬間、ドアはピンク色に染まった。


 ドアが開いた隙間からは、白い光が見えている。



「死ね!死にさらせ!」



 ドアを開けてトイレに逃げ込もうとする貴明の背後から、男が首筋を目がけてナイフを振りかざす。あと3センチで貴明の脳幹に突き刺さりThe End…というところで、なぜかナイフはその凶悪な動きを止める。何もないのに何かに当たったような、不自然な止まり方だった。よく見ると、ナイフと首筋はちょうどドアの境界線を挟んで両側に位置していた。


 一瞬の静寂。トイレの中の貴明に外の佳奈たち。お互いわけがわからないまま対峙するが、貴明はなんとなく、光の中に入れば安全なことを直感で知っていた。



「ふははは!正義は勝ーつ!これはこうしてやるぞ、よく見とけチーマー野郎!」


 貴明は袋を破り、粉を便器の中にサラサラと落とし始めた。


「やめ!…」


 男と重なって倒れていた佳奈が、粉を捨てるのを止めようといち早く手を伸ばす。だがその手は貴明には届かず、代わりに2本の手が中から伸びてきた。手は馬鹿馬鹿しいことに、佳奈の両の胸をいいだけまさぐり続ける。


「ちょ、何やってんのよあんた、いいからそれを…」


「うっせー!俺を利用したお返しだ、この巨乳の感触で許してやるよ!うははは」


「や、や、やめてよー!」



 佳奈は袋を取り返そうと前に進むも、光の壁のブロックに加え、胸を手荒に揉みしだかれるのに耐え切れず、尻餅をついて後ろに倒れこんだ。


 それを見た貴明は、おもむろに水洗レバーを大方向に上げる。スゴゴゴゴというイカス水音とともに、末端価格数百万円の何かが地球に帰っていった。



 茫然とする佳奈たち。どうやら彼らは、国家権力や上層部から逃げ回るだけの、現状に輪をかけてくだらない人生が確定したようである。



 貴明は一層の光に包まれる。間一髪で帰還することができそうだが、おっとその前に…








「ねえ廊下の誰か、ありがとう!おかげで助かったよ、お礼するから!」


救いの声の主に呼びかけたが返事はない。逆恨みや騒ぎを避けて、すでに立ち去ったか。



「じゃあな、無駄巨乳。刑期が済んだら真っ当に生きるんだぜ」


 チーマー以上に憎らしく悪辣な笑顔を浮かべながら、貴明は光の中に消えていく。彼が消えた直後、ホテルには通報を受けた警察が到着し、佳奈たち4人はあえなく拘束された。




「だから、キーボードを背負った奴だっつってんだろうがよ!あいつはどこ行った!」


「やれやれ、薬でキマって内輪揉めか。お前なあ、街なかでキーボードを背負って歩くようなド阿呆なんているわけないだろ?話は署で聞くから来い」


「内輪揉めじゃない、私が揉まれたのよ!」


「いやなんか上手いこと言ってもダメだから。いいからこっち。はい歩く」



一味は貴明の存在を不思議がりつつも、警官に促され渋々パトカーに乗った。




 貴明の部屋のドアが開く。光の中から、腫れとアザと出血でズタボロの貴明が転がり出てきた。



「いたか梨杏。なんで俺がこんな目に…」


「バカ!ちゃんと話を聞く前に、勝手にゲートを使うからでしょ」


「勝手なのはそっちだろ!もうこんなの懲り懲りだ」


「懲りるくらいでちょうどいいかもね。ゲートはね、純粋な思い以外は拒否するんだよ」


 

梨杏は貴明の手当てをしながら話を続ける。殴られてほてった頬に、細く冷たい指の感触が心地いい。



「何を言う、俺の斉藤由貴ちゃんへの思いはピュアそのものだ」


「リアルバカなのはわかってるけど、次からそんな不純な気持ちでドアを開けちゃダメよ。いつか死ぬよ」


「次も何も、もうあんなドア開けたくねえよ。もう出さないでくれ」


「そこなのよね。本来ならアイドルに会いたいくらいのふざけた気持ちで、ゲートが出るはずがないんだけどなあ。おかしいなー」


「まるで俺がおかしいみたいな言い方だなオイ。こっちは被害者…」


「あんたは確実におかしいわよ!まあどっちにしろ、アザーサイドで死なれると神的にもいろいろと処理が厄介なんで、やめてよね」


「俺だってこっちで死にたいわ!いや死にたくねーけどね?」



 話しているうち、何故かみるみる痛みが取れてくる。腫れの引きも早い。


「もう痛くないでしょ?神のハンドパワーを思い知るがよい。あ、お礼はいいから」


「へえ、実はすごいのか?お前。でも礼など言うかよ。だいたい誰のせいで…」


 お礼の流れで貴明は思い出す。



「そういえばさ、女の子だと思うんだけど、誰かが帰り方を教えてくれたんだよ」


「嘘でしょ?ゲートを知ってる人間が同じ場所にいるケースなんてまずありえない。また妄想じゃない?」


「そうかもな。でもさあ、なんとなく聞き覚えのある声だったような…」


「ないない!ほんと妄想癖は一流なんだから。さ、疲れたでしょ。もう休んだ方がいいよ」


「そうだな。横になりたい…」



 ベッドに入る貴明の隣に、あくまでそうするのが自然という体で梨杏が潜り込んできた。その温もりに無事に戻れたことを実感し、つい、梨杏の子鹿のようにほっそりした体をふんわりと抱きしめる貴明。心地よい体温を感じながらも、数十秒後に我に返り…



「うっわ、だから捕まるっての!」


「誰も見てないし、合意の上なら大丈夫だってー、もう、女慣れしてないんだからあ」


「女だったらいいけど児童はアレなの!…とっととベッドから出ろ」


「しょうがないなあ。じゃあ見ててあげるから寝なよ」


 梨杏は床に座ってベッドに頬杖をつき、貴明の顔を見つめる。指が彼の頬を軽く撫でる。


「こんなんで寝られるかよ、落ち着かねえな…」




だが、すぐ近くにある梨杏の顔を見ていると、不思議に眠くなってきた。たぶんこの安心感は美しさが理由ではなく、梨杏の表情に不思議な慈しみを感じたおかげだろう。



そのまま朝まで眠り続ける。目を覚ますとすっかり痛みも腫れも、傷さえもなくなっていた。だが梨杏の姿はない。貴明はホッとしつつも、親しみを感じ始めていた彼女の不在に一抹の寂寥感を覚える。通学路にも梨杏は現れなかったが、学校に着くと、友人たちが賑やかに出迎えてくれた。



「お、タカアキ!よかったなやっと復活か」


「待ってたよ、やっぱお前がいないと曲がまとまらないわ」


「今日は1曲完成するまでセッションだからな」


バンドメンバーの透矢、達哉、純一。貴明の不在でバンド活動は滞っており、本人への心配も相まって気が気じゃなかったらしい。



「貴明…だ、だいじょ…」


 紗英が、理恵を伴って不安そうな表情で寄ってくる。あの夜を思い出した貴明は照れが出てしまい、つい目をそむけて斜め下を見ながら答える。


「や、やあ紗英、心配かけたね」


「か、勘違いしないでよね、誰が心配なんて…」


 ああ、やっぱり紗英はいつもの紗英だ。でもこの方がなんだか安心だ。談笑するうち、すぐに仲間ならではのこなれた空気感が戻る。そんな中、貴明は梨杏の話を思い出す。



(俺がいなくなったら、誰が悲しんでくれるのかな。やっぱ、こいつらは裏切れないよな)



やがて授業の時間になり、各々が専科の教室に向かう。紗英はひとしきりいつも通りの悪態をついていたが、立ち去り際に、



「でも本当によかった。心配させないでよ…」



 他の者には聞こえないほどの小さな声で、深い安堵を込めてそうつぶやいた。

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