第2話

鹿島緋色は幼い頃から、世界を救った神の子という英雄に憧れ、いつか自分もそんなかっこいい、みんなから認められる人になることを夢見ていた。

だが、緋色はこの夢を胸に抱いたとほぼ同時に厳しい現実を知ることとなった。

神のキセキという力は子どもであれば誰にでも分け隔てなく与えられたが、それは決してキセキと呼ばれる力が平等であったというわけではなかった。そして、それはキセキの力に限ったことだけでなく、運動神経や頭の良さ、運命なども同じように誰一人として平等ではない。もし、似たような人間がいたとしても、それは必ずどちらかが優れ、もう片方は劣る。それは、勝負を行えば必ず勝者と敗者どちらかに決まるように、すべてことには優劣がつく。

彼は後者。敗者側の人間だった。

 これはまだ緋色が小学5年生の時、彼が本当に夢を諦めかけ挫折し、そこからある人に出会い、夢を絶対に叶えてみせると心の底から誓った時の話。

「待ってよ、二人とも」

 緋色は険しい山道を走る目の前の友達二人を必死に追いかけていた。前の二人に必死に食らいつくように追いかけるが、前の二人との距離は一向に縮まらない。

「もたついてると置いてくぞ」

言って先頭を走る少年の名前は神元周波(しんげんしゅうは)。緋色のクラスメイトで、周りからは周君と呼ばれている。

周波は、緋色と同じ学年の中では一番勉強もスポーツもでき、なによりキセキの扱いがとてつもなく上手い。キセキの扱いに関しては、まだ5年生だというのに学校の中でもずば抜けている。小学生はまだキセキの能力測定を行われないが、周波の実力は並みの中高生と比べても全く引けを取らない。むしろ、それ以上の実力をすでに有している可能性すらある。

「周波が早すぎるんだよ。ちょっとは俺たちのことも考えろよ」

 緋色のことを気遣いペースを落とすように周波に交渉する彼は、葛葉龍馬(くずはりょうま)。いつも周波と何かを競っており、この二人はいわゆるライバルといった関係だ。龍馬も戦闘センスのみであれば、周波に匹敵するほどの技術の持ち主で、同世代としては、頭一つ抜き出ている。それに加え、実家はかなり有名な武道の師範代であり、普段の動作からも緋色たちとはどこか動きが違う。無駄な動きが省略化、ショートカットされているといった感じだ。今こうして、ただ走っているだけでも、ワンテンポ動きが省略され無駄をそぎ落とされている。そんな素人目にはわからない動き。だが、自分たちとは何か動きが決定的に異なる違和感を確かに覚えた。

周波と龍馬は地元では結構有名な二人で神龍コンビと呼ばれている。

緋色はそんな二人といつも一緒にいれることが、ほんの少しだけ鼻高だった。

 そんな緋色が憧れる二人と緋色が出会いこうして、いつも一緒にいるようになった理由は、小学1年生の時に起きた出来事がきっかけだった。

 当時、まったくキセキが使えず、いじめられていた緋色をいじめっ子たち助けたのがこの二人。

 当時の出来事は緋色たちにとってはかなり昔のことだろうが、それでも緋色はあの時、二人に助けてもらった時の喜びと感謝を今でも鮮明に記憶し、念頭に置いている。


「おい、緋色。お前まだキセキも使えねぇのかよだせぇな」

「だせぇな」

 緋色は小学校に入学してすぐ、クラスのいじめっ子にキセキがうまく使えないことを理由にいじめられるようになっていた。そしてこの日もいつものように数人に囲まれ、馬鹿にされていた。

 正面にはいじめっ子3人、背後は教室の壁という位置に立たされた緋色は、四面楚歌までではないが、出口を塞がれ逃げ場がない状態に陥っていた。

 どうして、いじめっ子というのは複数で一人を取り囲んでいじめるのだろう。親から、学校に行くようになったら、イノシシを数人で囲んで仕留める練習でもして来いと言われているのだろうか。まったくもって迷惑な話だ。親の顔が見てみたい。

 いじめっ子に退路を断たれ緋色だったが、今日は言い返すと決めていたため勇気を振り絞り、言葉を発した。

「僕だって、すぐ使いこなして、神様の子になるんだ」

 その声は、緋色といじめっ子3人しかいない、静かな放課後の教室だったが、いじめっ子3人が微かに聞き取れるほど、弱弱しいものだった。

 だが、この時の緋色にはこれが精一杯だった。もしここで、大声で言い返したところで、いじめっ子達が逆上し、一斉に殴りかかってくるかもしれない。野生熊も同じで遭遇していきなり大声を出す、素早い動きを見せるなどをすれば、熊はパニックになり襲い掛かってくる。この習性と同じだ。

 それほどまでに彼らの行動は野蛮で愚かな行為だ。

 しかし、そんな緋色の様子を見たいじめっ子は、何か自分が他人より大きく秀でているわけでもないのにも関わらず、緋色のことをあざ笑った。

「アハハ、お前には無理だよ。お前みたいな才能ない奴じゃ、一生使いこなせねぇよ」

「そうそう、お前は一生何にもできないし、神の子どころか一生何にもなれもしませーん。ぎゃははは」

 いじめっ子達による心無い言葉を浴びせられる緋色は唇を噛みしめ、拳を強く握った。

 しかし、もしこいつらの言うように本当に緋色に何の才能もないことを、見抜くような力があるならば、絶対にマネージメント関係の職に就いた方がいい。小学1年生にして、そんな才能がすでにあるなら、とてつもなく羨ましいことだ。これからの人生で、進路に悩まなくていいというのは、相当なアドバンテージになる。

 だが、実際にはこいつらにそんな才能はこれっぽちもないのは、火を見るよりも明らかだ。せいぜいこれからの将来、自分の進路について思い悩んでくれればと思う。

「僕は誰に何と言われようと絶対に諦めない」

「緋色のくせに生意気なんだよ」

 いじめっ子は緋色の胸倉を掴み、頬を殴りつけた。頬にはジンジンと鈍い痛みが走る。

 頬を押え、そこで今まで我慢していたダムが崩れるように、ジワリと目から涙が零れ落ちる。殴られて痛かったというのもあるが、一番は殴られても殴り返す勇気がなかった自分が嫌だったから、情けなかったからだ。

 当時の緋色はいつもそうだった。いじめられても、何の反撃もできず、そんな自分がどうしようもなく、嫌だった。

 すると突然、教室のドアの方から声を掛けられ、振り向くとそこには当時はまだ、まったく話したことのなかった周波と龍馬が教室のドアに寄りかかっていた。

「おい、お前ら弱い者いじめしてんなよな」

「数で勝らないと威張れない奴らが偉そうにしてんじゃねえよ」

 教室に入り込む、夕日の光を背にその二人は、まるでスポットライトを当てられた正義のヒーローのように、その時の緋色には見えた。

「なんだよ。お前らには関係ないだろ」

「クラスの奴がいじめられて困ってるんだ。関係ないわけないだろ」

「そうだぜ、神の子を目指してる俺たちが、お前たちみたい悪者を見過ごすわけないんだよ」

「俺たちのどこが悪者なんだよ」

「どう見たって、そーだろ。クラスの奴いじめてる奴が悪者じゃなかったら一体どんな奴が悪者なんだよ」

「うるせぇ、いつか、神の子になる俺がしてることは全部正しいんだよ」

逆上したいじめっ子は拳を振り上げ、二人の方に殴り掛かる。

それを待っていたかのように、龍馬はニヒっと笑みを浮かべ、両手の指の先までを一直線に伸ばし、わきを絞めて構える。

「へ、必殺、超ハイパーティラノサウルスメガ盛り龍馬チョー、いたっ」

 必殺技の名前を言い終える前に顔を思い切り殴られた龍馬は、「この野郎!」と、それまで冷静だった頭に血が上ったらしく、指の先まで伸ばしていた手を握って拳を作り、いじめっ子に殴り返した。

龍馬といじめっ子は取っ組み合いの喧嘩になり、勝ったのは龍馬だった。

 喧嘩に負けたいじめっ子は泣きながら教室を飛び出し逃げて行った。その姿はとても滑稽だ。

「はぁはぁ、どうだ俺の武術を思い知ったか」

「いやいや、普通に喧嘩してただけだぞ、武術の要素は全くなかった。それになんだよさっきやろうとしてた必殺技の名前。ダサすぎだろ」

「ダサくねぇよ、めちゃくちゃかっこいいし」

「しかも、名前長すぎてその間に殴られてたじゃないか」

「そ、それは。相手が待ってくんなかったのが悪い」

「なんだそれ、傲慢だな」

「仮面ライダーだって、変身するときは敵も攻撃待ってくれんじゃん」

「あれは、作り話だからな」

「えっ、そうなの!」

 仮面ライダーが特撮の作り物だったことを知らなかった龍馬は驚愕し、龍馬が仮面ライダーに思い描いていたイメージはガタガタと音を立てて崩れていった。

「あ、あの」

「「ん?」」

「助けてくれてありがとう」

「礼なんていいよ。それより、今度から困ってるときはすぐに助けてって言えよ」

「うん、ありがとう」

「俺は神元周波、よろしくな」

「そんでもって俺が将来神の子になる男、葛葉龍馬だ」

「バカ、なに言ってんだ。神の子になるのは俺だ。お前は、将来神の子となった俺の古い友人としてインタビューに答える練習でもしてろ」

「うっせぇー。なんで、お前こういつもいつもそうやっていけ好かないんだ。神の子になるったらなるんだよ。俺は」

「っぷ、アハハハハハハ」

 緋色はその時の二人のやり取りを見てたら笑いをこらえきれず吹き出してしまった。さきほどまで別の理由で泣きそうになっていた緋色だったが、今はもう笑いすぎて涙が止まらなくなってしまった。

そんな緋色を見て二人はポカンと首を傾げた後、二人も緋色につられて自然と笑い声が漏れる。

「何笑ってんだよ」

「殴られて打ちどころが悪かったのか」

「ううん、そうじゃないんだ」

「じゃあ、なんだよ」

「わかんない、なんか面白くて」

「変な奴」

「それで、お前は名前なんて言うんだっけ?」

 周波にそう聞かれた緋色は、「鹿島緋色です。僕も神の子を目指してる」と答えた。だが、そんな自己紹介を聞いた二人は一度互いの顔を見合わせて、

「「神の子になるのは俺だ」」

と息っぴたりの返しをしてきた。


「はぁ・・・、はぁ・・、はぁ」

 緋色たちは山の中腹辺りにある開けた空き地までつくと、いつものように空き地の中央に行き、そこで腰を下ろした。

「疲れすぎだろお前ら」

「はぁ、周波が早すぎんだよ。普通の小五はこんなペースで山登ったらバテルんだよ」

「・・・・・」

 周波は決して強がりで言っているわけではなく、本当に余裕だという感じが彼の涼し気な表情から見て取れる。

龍馬は息こそ切らしているもののまだ余力を残しているようにも見える。

それに比べ緋色の体力ゲージのメーターはレッドラインに突入寸前だ。

このことからも周波が本物の天才であることがわかり、また、それ以上に底知れぬ才能を秘めているように感じられる。

 緋色はいつも周波を見ていると同い年とは思えずにいた。まるで、姿かたちは自分たちと変わらない子どもであっても、全く違う生き物なんじゃないかと思ってしまうぐらいに。

 緋色たちの息が整うのを退屈そうに待っていた周波は突然、思い出したと言わんばかりの表情を浮かべ、こんな話をし始めた。

「なぁ、神の目的って何だと思う」

 緋色は周波のその言葉の意味がよく分からず、首を傾げた。

「え、神様に目的なんてあるの?」

「そりゃ、あるに決まってるだろ。何の目的もなく、人に無償で何かを与える奴が本気でいるとは思えねぇよ。人が誰かに優しくしたり、何かしてやるのは見返りを求めているからに決まってるだろ」

 周波は聞き返した緋色の質問に淡々と答えた。

 ん~、周君はやっぱりこういう根っからの善人なんて絶対にいないと思っているタイプだから、どうしても言い方がきついというか、冷たい言い方をしてしまうきらいがあるんだよな。

 でも、確かに、神様に目的あるのかなど考えたこともなかった。だって、僕が思ってる神様って、この世界とこの世の生き物すべてを作ったと思ってたから、そんな何でも作れるし、なんでもできる神様が今更やろうとしている目的なんてものがなるのだろう?

という、疑問が緋色の頭に浮かんだ。

「確かに、何の目的もなしに俺たちにキセキなんて言うものを分け与える必要ねぇよな」

「ん~」

緋色はいくら考えてもわかるはずもない答えを考え、脳をフル回転させる。

「まぁ、そんなことどうでもいいじゃねぇか。優勝すれば願いを叶えてくれるって言うなら、叶えてもらおうぜ」

 一方、龍馬は毛ほども気にした様子はなくあっさりとこの話を終わらせた。

 内心、緋色はこの話をもっと続けたいと思ったが、もう一つ気になることができたので、大人しく話題を変えることを承諾した。

「そういえば、二人は神様の子になって、どんな願いを叶えてもらいたいの」

 緋色は4年以上この二人と一緒にいるけど、なぜか今まで一度もこの話を聞いたことがなくふと気になったので、唐突に聞いてみることにした。

 この話題を振った緋色だったが、自分自身、神様の子になって叶えてもらいたい願いごとはなかった。それでも、神様の子になりたかったのは、たった一人で戦争を阻止した英雄、初代神の子のような人物になりたかったからだ。

「俺は、世界中の女子からモテまくることかな」

「あははは、龍君らしいね」

「くだらね」

「くだらねーってなんだよ、じゃあお前の夢はさぞかしくだらなくない願いがあるんだろうな」

 龍馬は人差し指を周波に向けそう言った。

 それに対し周波は龍馬から目を逸らし、

「・・・あるけど、言いたくねぇ」

 と、どこか暗い表情で応える。

「?」

周波が顔を逸らしたためか、龍馬からはその表情が見えていないようだ。

この話の流れは周波にとってあまり深入りしない方が賢明だと思った緋色は、多少強引に話題を変えた。

「そういえば、僕この間ネットで見た都市伝説系の話なんだけど、最近流行ってるので、二十歳を超えてキセキが消えない能力者が町で犯罪に手を染めているとか、キセキを複数もった人間を作ろうとしている闇の組織があったり、深夜の街をバイクで爆走する小学生がいるらしい」

「なんだよ、その話。闇の組織とか映画かよ。それに、最後の一つに関してはキセキと全く関係ない話じゃねぇか」

「龍馬の言う通りだ。それに二十歳を超えてもキセキが消えない能力者なんてものが居たら、それこそ大事件だろ。今、全世界が躍起になって研究しているテーマの一つなんだ。もし、そんな奴がほんとにいたら、政府の人間に捕まって人体実験でもされるだろ。それこそ、その闇の組織とかも出できたりしてな」

「いや、それは知ってるけど、こういう都市伝説系の話って、ちょっと怖い気もするけど、なんかワクワクしない?」

「・・・する」

「するな」

そのことについては、二人とも軽く首肯し同意を示してくれた。

そんなたわいない話が30分ほど続き、話がひと段落着いたところで、突然周波が立ち上がる。

「そろそろやるか。いつものあれ」

言いながら拳を緋色たち二人の前に突き出し、クールに笑う周波。

 そして、龍馬も周波に倣うように拳を前へと突き出し、周波の拳に軽く当てる。

「今日こそはお前を倒す」

 緋色も二人の拳に合わせるように拳を二人の前へ突き出す。

これが、緋色たち三人のいつものあれを始める合図だ。

緋色たちは広地の中央からそれぞれ別の方向に10メートルほど距離を取り、位置に着く。

広場には日の光が差し込み、ちょうど緋色たちの位置を分断してくれている。微かにそよぐ風は緋色の体を優しく撫で、無数の木の葉を運ぶ。

このシチュエーションはまるでアメリカの西部劇のように思え、ワクワクと謎の高揚感が、緋色の鼓動をだんだんと加速させていく。

「よし、位置に着いたな。次にあの木に止まっている鳥が飛んだら開始だ」

周波は言いながら木に止まる右上の青い鳥を指さした。

まさか、自分が勝手に緋色たちのこの闘いの火蓋をきる役目を担わされていると全く思っていないであろう。この鳥は明らかに雀ではないがまさしく、雀の涙ほどもそんな役目を任命されたとは思っていないはずだ。無邪気な青い鳥は、首を傾げたような動きしながら緋色たちの方を伺っているようにも見える。

「オーケー」

「うん」

 周波が指した鳥を確認した緋色たちは、それぞれ首肯した。

 緋色たちが今からしようとしていることは、遊びじゃない。少なくとも、緋色たちは真剣だ。先ほど、周波が言っていた「あれ」とは、キセキを使用した戦闘訓練である。

 緋色たちが暮らす今の世の中では、キセキを使用すること自体は禁止とされていないが、キセキを使って人に危害を加えようとする行為、またその危険がある行為は、5年に一度開催される神の子を決める大会を目指す選手として認められた者が練習で使用する際以外、基本認められていない。しかし、だからと言って法律で禁止されている訳でもない。すごく微妙なラインだ。そのため、緋色たちはわざわざこんな山の中腹の人気のない場所まで着たのだ。誰の目にもつかないこんな山の中腹まで。

 緋色は、横目で周波が指した青い鳥を観つつ、二人の様子をうかがい、グッと腰を落として構える。この間、テレビでやっていた格闘家が確かこんな構え方をしていたからだ。

鳥はなかなか飛び立たない。だが、緋色が一瞬気を抜いて目を離したとたんに、大きく翼を広げ羽ばたき飛び立った。これと同時に闘いの火蓋は切られた。

しまった。

心の中でそう思った刹那、緋色は急いで二人の方へ視線を戻すと、二人がいた場所にすでに姿がなくなっていた。

「なに、気抜いてんだ。万年最下位」

 背中から声を掛けられ、緋色は振り返ろうとしたが、それはできなかった。

左肩と左袖を同時に捕まれた緋色は周波に後ろ向きのまま背負い投げをされ、気が付くと地面に頬をつけてうつぶせで倒れていた。

顔や体のいたるところが猛烈に痛い。口の中はじゃりじゃりと舌触りの悪い感触がし、若干血の味がする。おそらく口の中を少し切ってしまっている。これが原因で口内炎にでもなったら最悪だ。

また、キセキを使うことも使われることもなく倒されてしまった緋色。あまりにもあっけない。

しかし、いつもの緋色なら一度倒され、これで降参して諦めているところだったが、今日のこの訓練にかける緋色の思いはいつもと違う。絶対に今日こそは二人の内どちからか一本取ると決めていたからだ。

今日こそは二人を倒すんだ。と自分自身を奮起させ、拳を強く握りなおす緋色。

もう三カ月以上やって一度も二人のうちどちらも倒したことがないが、いつかはこの二人を超えなくちゃならないと自分の目標を思い出し立ち上がり、顔に着いた砂を袖で拭い、目の前の二人を睨むように凝視する。

周波と龍馬、二人が互いに自分のキセキを駆使しながら戦っていた。

十メートルほど距離のある緋色の下まで二人の緊張感が伝わってくる。

緋色のことを投げ飛ばした周波は、その場から一歩も動かずキセキの力を繰り出し続け、龍馬はそれをまるでヒップホップのダンスでも踊ているかのような華麗な舞でそれをかわしている。

周波の能力は【並々ならぬ波(ビートボックス)】あらゆる物を振動させ、波を作り出すことができ、音の衝撃は的を絞って放つことができる。だから攻撃は目に見えないため避けるのはまず不可能。しかも、それをほぼ連続で繰り出せるのだから、さらにたちが悪い。ほとんどチートだ。こういうチート能力としてはゲームのようにMPのような回数が必要不可欠に思えるが、この世界は生憎ゲームなんて生易しいものではなく現実だ。緋色も長い間、対策を考えてはみたもののこれといった攻略法はまだ見つかってない。

龍馬はそれを周波が繰り出す前に一瞬動きが止まる瞬間を見極めかわしている。どちらも緋色と同じ小学5年生とは思えない動きだ。

龍馬の能力は【悪魔の目(デビルズアイ)】。運動量や熱量なんかの力の向きと大きさが数字として目に見えるらしく、そのおかげで少しの動作なんかで次の動きがわかるというスキル。

龍馬の家には道場があって葛葉流という少し変わった武道を使える。だが、武道を用いた超近距離でしか戦えない龍馬に比べ、中距離や遠距離でも戦える周波の方が圧倒的に有利だ。いつも、周波の攻撃が避けきれずに龍馬が負けてしまうというのがいつものパターン。だが、緋色のように接近戦相手だとほぼ無敵、大人でさえ倒してしまうほどの実力を持っている。おそらく、龍馬からしてみれば、緋色と接近戦をやるということは、じゃんけんで後出しの権利を有した状態で勝利し続けるぐらいの難易度なのだろう。接近戦でしか戦うことのできない緋色からしてみればどちらも、チートだ。

そんな、圧倒的な実力差が緋色とこの二人の間にあるのだ。緋色がこの二人に勝つということはおそらく、トイプードルが百獣の王に勝つぐらいの難題だろう。

だが、緋色は何度負けようと諦めない。いつかは自分の能力を自由に操ってこの二人に負けないくらい強くなる。という自分との約束を果たすために、ただがむしゃらに挑み続ける。

そんな緋色の能力は【体内電気(バイオエレクトリック)】。自分の身体に電気を流すだけの能力。直接ものに触れた状態で電気を流せば電流は伝わるが、触れない限り体から電気を放出できないし、体に電気を流したら自分も感電してしまうという。いわゆる、特攻の自爆技だ。

前に緋色は母親に一度キセキの研究をしている大学病院に連れていかれ、その時に医者からは、最初に言ったように身体に電気を流すだけの力だと言われた。体の皮膚や筋肉に流すことはできても、それを何の媒体も使わずに放出するのは無理だと判断された。

なぜ、医者がここまで緋色の能力について断定し、結論づけたかというと以前緋色が自身の能力で感電し、病院に担ぎ込まれたことがあった。その時制御を失った状態でも電気は緋色の身体から放電されることはなく、この結果からの判断だった。ただ、放電はしていないが、その時、緋色の周りには磁場が発生していたらしく、病院の中にある緋色の周りにあった金属物のハサミやメスが緋色に向かって飛んで襲い掛かってくるという現象が起こったことがあった。緋色は危うく、自分のキセキに感電死させられるよりも先に、刺殺されるところだったのだ。

それはそうと今日の龍馬はなんだか調子がいい、波に乗っているというか、場の空気を自分のものにしているといった感じだ。

その証拠に、今日の龍馬は周波の動きを完全に見切り、すべてよけきっている。そして何より龍馬の眼はいつもと違う。覚悟のようなものをあの眼の奥に感じた。

龍君には悪いがいつもならとっくに周君の攻撃を食らって、もうとっくに勝敗が決まっていてもおかしくない頃だ。

「へへ、どうした。全然当たんないぞ」

 周波のことを挑発するように、笑う龍馬。しかし、その間も龍馬は一切集中を研ぎらせることなく、周波の攻撃を見切っている。

 それに苛立ちや焦りを感じているのか、周波の手数はだんだんとペースを上げていっている。

 この二人はまさに、互いを高め合うライバルといった感じだ。緋色も二人に負けっぱなしではいられない。どうにかして、このふたりの勝負に割り込まなくてはならない。

 周波の攻撃のペースは上がったが、そこに生まれた僅かな隙を龍馬はまるで狙っていたかのように、距離は詰めず、攻撃を回避することに専念していたが、ここで一気に距離をつめる。

 見えていないはずの音の砲弾をすらすらとかわす龍馬。周波との間合いが三メートルほどまで近づいたところで、「これで、終わりだ」と周波へと右手を延ばす。

それと同時に、先ほどまで音の砲弾を放っていた両手を重ね、地面に向ける周波。

その瞬間、ボンという音とともに空気が震えるのを感じ、周波が放ったであろう音の衝撃波は緋色の内臓まで響いた。

周波と十メートル以上距離があった緋色でさえ、何か大きいものが体の前側を思い切り叩かれたように感じたのに対し、今のを至近距離で食らった龍馬は緋色の比ではないだろう。

二人の方へ視線を戻すと、やはり相当な威力だったのか龍馬は電池が切れたおもちゃのように地面へ倒れこみ、衝撃波を放った本人である周波も手を膝に着き、息を切らしている。

それを見た緋色は、急いで二人の下へ駆け寄った。

山の鳥たちはあちこちで鳴き声を発し、緋色たちの頭上を右往左往と飛び回っている。もっと言えば、右左だけでなく上下左右あらゆる方向に飛び回っている。

それもそうだろう。あんな、とんでもない音は自然界にはそうそうない。それこそ、火山が噴火したときか、雷が落ちてきた時ぐらいだろう。それほどまでにあの衝撃は大きく、破壊力のあるものだった。

「大丈夫、二人共」

 緋色が駆け寄ると、周波は初めて緋色の前で見せる荒い息遣いのまま言った。

 周波が初めて息を上げているところを見た緋色は、周波でもつかれることあるんだなと、ちょっと安心した気持ちが一瞬だけ頭をよぎったが、すぐに消え去った。

「お前、今ならお前みたいな使えないキセキを持った奴でも、素手で俺を倒すことができるぞ」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ。さすがにやりすぎだよ」

 さっき、この訓練は遊びでなく、真剣だと言ったがそれは100%の力で相手を攻撃するということではない。いくら子どもとは言え、緋色たちが使っているのは神の力の一部なわけで、それを使っている以上、本気で人を殺そうと思えば簡単に人を殺めることのできるほどの力だ。一歩間違えただけで危険な力。だから、人に危害を与えることのあるキセキはあまり人前で使っていいものではない。

「大丈夫だ。かなり高威力だったが、直接音の砲弾を向けて撃ったわけじゃない。俺の周囲に拡散された衝撃波を食らっただけだ。それにほら」

 周波は顎で、緋色に向こうを見るようにいうと龍馬が四つん這いの体勢になり、立ち上がろうとしていた。

 周波はそう言うものの、少し距離があった緋色でさえ、かなりの衝撃を受けたのだから、それを間近で受けた龍馬が大丈夫であるはずはない。

衝撃を受けた龍馬の顔が見た瞬間わかるほど青ざめ、あの衝撃波の威力を物語っている。

「あぁ、なんか頭がくらくらする」

 龍馬は目を閉じたまま頭を押さえながらもうろうとする意識の中で、独り言とのようにそうつぶやいた。

 ここまで、弱った龍馬を見る機会もこれまでなかった。それほど、今日の周波は力をコントロールする余裕すらないほど焦り、追い詰められていたということだったのだろう。

「大丈夫、目開けられる?」

「おぉ、目は開けられるけど、ちょっと音が聞き取りづらい。それに頭の中がガンガンする」

 きっと軽めの脳震盪だろうか。

緋色は以前頭に強い衝撃を受けると頭の中の脳が揺らされ、めまいや頭痛が起こることがあるというのを前にテレビで見聞きしたことがあった。

 緋色は龍馬に肩を貸し、ゆっくりと立ち上がらせた。

 ぐったりとした龍馬の体重が緋色へと重くのしかかり、今の龍馬は自分の力で立つことさえままならないのだということがわかった。

「悪かったな。ちょっと加減する余裕なかった」

「ったく、あんな奥の手あるなら先言っとけよ」

「先に言っちまったら、奥の手の意味ないだろ」

「そりゃそうだ」

 龍馬は緋色に預けていた重心をゆっくりと自分の方へと戻し、自分だけの力で立とうとしたが、やはりよろけてしまっている。見ていてとても不安だ。

「悪いな、緋色。助かったよ」

「もう平気なの?」

「一人で立つぐらいできるっての、俺は将来、神の子になる男だからな」

 緋色はまだ回復しきっていないにも関わらず、強がって見せる龍馬に怪訝な表情を向けた。

すると、山の茂みの中からカサカサという物音が聞こえ、緋色たち三人の視線は一気に物音がした方向へと向けられた。

この山は普段地元の人間もあまり来ないほど、人気のない場所のため緋色たちは音のした木の影を凝視した。

「熊か?」

「さすがに熊は・・・、もしかしたらあるかも・・・」

 周波の発言を否定しようとした龍馬だったが、自信がなくなったのか否定入れず、そのせいで緋色たちの不安はますます募っていった。

 茂みの奥から、黒い影がうっすらと見え始めた。影はかなり大きく、少なくとも緋色たち三人よりは圧倒的だ。キツネやタヌキであることを望んでいたが、どうやらその望みは敵わないらしい。

 もしかして、本当に熊とか超大きい猪だったりするの⁉

 緋色たち三人は茂みから目を離さず、じっと息を殺してその影の正体を待ち構えたが、影の正体が本当に熊だったとすれば、緋色たちに勝ち目はない。普段の万全の状態であればともかく、負傷している龍馬に、スタミナを使い果たしてしまった周波。それに加え、自身を感電させることしかできない役立たずの緋色では、この今の状態は非常に分が悪い。

 緋色たちの額には脂汗がにじみ出し頬を伝って地面へと落ちて行く。周囲の空気からは今まで感じたことのないほどの緊張感が漂っている。先ほどまでの緊張感とはまた異質なものだ。

 心なしか、先ほどまで辺りを飛んでいた鳥たちの姿も見当たらない。

 ゴクリと唾を飲みこむ。

 そしてようやく、実際の時間にして約7秒。他の二人もおそらく同じくらいだと思うが、緋色の体感した時間としては約その十倍、この時間が1分以上にも感じられ、茂みの奥からその影の正体は姿を現した。

 その瞬間、緋色たちの顔からは一瞬で血の気が引いた。

 結果としては影の正体は熊ではなか合った。しかし、緋色たちにとってはまだ熊の方がよかったかもしれなかった。それほどまでに、その影の正体は、緋色たちにとってこの世で最もそこに現れてほしくない人物だった。

「と、父さん」

 そうつぶやいたのは龍馬だ。

 緋色たちの目の前に現れた影の正体。それは、緋色たち三人がよく知る人物だった。

手刀流剣術13代目当主、葛葉龍吾(くずはりゅうご)。がっしりとしたがたいの良い体格で黒い袴着た姿は、まるでまだ戦をしている時代からタイムスリップしてきた武士のような見た目、おまけにとてつもない威厳がある風貌。街で向かいから歩いてこられたら、無意識に道を譲ってしまうような、そんなオーラ彼は放っている。

葛葉流剣術とは、刀を使用しない無刀流の剣術である。刀の代わりに己の手、つまり手刀を使う剣術なのだ。剣を使っていないのに剣術というのもおかしな話に聞こえるが、一度緋色たちに見せた龍吾の手刀の切れ味は、テレビなんかでよく見る、日本刀の切れ味と何らそん色のないものだった。

 龍吾曰く、鍛え抜かれた己の素手はどんな刀より、よく切れ錆びることなく、また盗まれることもなく一生涯自分専用の刀として、常に身に着けていられる最強の武器らしい。

 今まで緋色が生きてきた中で一番恐ろしい人と言っても過言じゃない。それどころか、そんな恐ろしいなんて一言では言い表せないほど龍吾の纏うオーラは禍々しくそれでいて、背筋が凍るような圧迫感がある。

 いつもはクールで平然としている周波ですら顔が引きつっている。

 緋色に関しては足が震えて、金縛りにでもあっているかのように体が全く動かなくなってしまっている。

本当にこれほど恐ろしい人が他にいるだろうか。いや居ない。少なくとも、ここにいる緋色たち三人にとって間違いなく、今この世界で一番恐ろしい人物であることに間違いは無い。

前に一度だけ、緋色たち三人で龍吾に稽古をつけてもらったことがあったのだが、緋色たち三人とも、全員、手も足も出ずにトラウマ級の恐怖を刻み込まれてしまったのだ。

 そしてよりによって、そんなトラウマも級の恐怖を緋色たちに刻み込んだ張本人であるこの人に、今の緋色たちのしていたことを見られたのは最悪と言って他ならない。

 なぜなら葛葉龍吾は、神がかり的に神のキセキを嫌っていて、しかも法律で禁止されていないとは言え、公の場では認められていないキセキを使用して戦うところを見られてしまった。

 これは言うまでもなく、これは将棋で言うところの詰みだ

緋色たちは押し黙ったまま、龍吾から目を離さずに身構える。

「お前たち何をしていた」

 人の発した言葉とは思えないほど、冷酷な声で龍吾はそう言った。

背筋が凍るようとはまさにこのこと。北極や南極なんかの方がまだいくらかましかもしれない。ホッキョクグマや南極ペンギンもこの凍り付くような視線と声には、全速力で逃げ出してしまうほどに。

「えっと、父さん。これはあれなんだよ。なんつーか、将来のための修行というか」

「言い訳をするなバカ者!」

 その怒鳴り声を聞いた瞬間、三人そろって肩がびくりと反応し、フルラウンドを戦いきったボクサーのように汗がドバドバと顔中からあふれ出す。

 ああ、まるで死刑宣告を言い渡された犯罪者のような気分だ。

 遺言書だけでも書かせてはもらえないだろうか。

「まったく、以前あれほどお前たちに、神のキセキの力など極めたところで何の意味もないと説明してやったというのに、いいかもう一度だけ言ってやる。今お前たちがまるで自分の力のように、おいそれと使っている神のキセキと呼ばれる力は、大人になれば消えてしまう。そして、私は、若い間に能力を延ばすことだけに打ち込み、大人になってみじめな人生を送っている奴らを嫌というほど見てきた。私は、幸い優れたキセキではなかったため、愚かな夢を見ることなく道場を継ぐということに専念できた。お前もいずれは、双龍とともに我が家の道場を支えていかなくてはならないのだぞ」

「いやだ、俺は世界で一番になって、神の子になるんだ」

「世迷言を」

 ため息交じりに言い放ったその言葉は龍馬に対して言われたものだったが、同じ夢、目標を持っている緋色や周波にとっても無視できない言葉だった。

龍吾の言っていることにはしっかりとした根拠があり、また本人が言っていたようにそれで駄目になった人も大勢いるのも事実なのだろうと言っていることは緋色たちにも理解はできた。

だが、小学5年生の緋色たちには理解はできても納得することはできなかった。いや、したくなかった。ここで龍吾のように世の中の将来を夢見る人全員が龍吾のように、あれはダメ、これはダメ、お前には無理だと自分の意見を押し付け、子どもに言い聞かせたら、きっとこの世の中から、歌手やクリエイター、スポーツ選手にパイロットといった人気のある職業に就く人がいなくなってしまうに違いない。だから、緋色たちはこの龍吾の言葉に従うわけにはいかないと思った。

龍吾は緋色たちをゆっくりと見回した後、もう一度緋色の方を向いて言った。

「君は鹿島君と言ってかね?」

「は、はい」

 緋色は震える声でそう答えると、龍吾はさっきの話の続きを話すように口を開く。

「君も、私と同じでキセキには恵まれてなかったはずだな。なぜ君は今もまだ、こんな愚かな息子と一緒なって無駄なことを続けているのかね?早めに諦めた方が身のためだぞ」

 龍吾の声は極寒の大地よりも冷え切り、彼の言葉が「お前などいくら頑張ったところで無駄だ。さっさと諦めてしまえ」と直接そうはっきりと言われているようで緋色は今にも泣きだしそうだった。

だが、緋色は龍吾の顔を睨むようにして、勇気を振り絞って、

「僕たちの夢を勝手に無駄だとか決めつけるな!」

 というのは当然できるはずもなく。緋色はうつむいたまま何も言い返すことができなかった。

 龍吾は「はぁ」とため息をつき、呆れ果てたようにまた口を開いた。

「今後一切、息子とは関わらないようにしてくれ」

そういうと龍吾は踵を返し、「帰るぞ、龍馬」とつけえ加え、ゆっくりと歩き出す。

「待てよ、おっさん」

「ん?」

荒い言葉遣いで龍吾を呼び止めたのは、周波だ。

周波の拳は強く握られ、目が血走っている。それに、周波の龍吾への敵意は緋色が肌で感じるほどピリピリと伝わってきた。

まさかとは思うが、勝負を挑む気なのか。だとしたら、止めなくちゃいけない。

「なにさらっと言いたいことだけ言って帰ろうとしてんだよ。今後一切関わるなだ。てめぇがそんなこと決めんな」

こんなにも感情をむき出しにしている周波を緋色は初めて目にした。

体勢を低く構え両手をフリーにし、今にも飛びかかりそうな周波。

「威勢だけはいいな、小僧」

 龍吾もやる気になったのか、両手を指の先まで伸ばし、手刀の形にして構えをとる。

「ガキ扱いすんなよな!」

 周波は体勢を低く保ったまま右手を前へ突き出しそれを左手で支えるようにして、そこから連続して音の衝撃波を無数に繰り出し始めた。

 普通の人間であれば絶対に避けきれるはずもない攻撃。だが、龍吾は二百年以上続く葛葉流剣術の党首、龍馬のようなキセキを有していなくとも、周波の些細な目の動きや癖を一瞬で見抜きかわすことなど、増差もないといった様子で、かわしていく龍吾。

「はぁはぁ・・・、はぁ」

元々スタミナをほぼ使い果たしていた周波はすぐに体力に限界に達し、崩れるように膝を地面に着いた。

それを見た龍吾は、

「他者から授かった力を自分の力のだと過信し、自らの鍛錬を怠るからこういう結果につながる。これに懲りたら、貴様も早く愚かな夢を捨てて、しっかりと現実を見ることだな」

と言い捨て、また踵を返し歩き出す。

緋色の隣にいた龍馬は、「悪い」と一言だけ緋色にだけ聞こえる声でそう囁くと、龍吾の下まで走って行った。

龍馬のその後ろ姿は、とても悲しげで誰かに助けを求めているように見えたが、この時の緋色には、周波のように龍吾に言い返すだけの勇気も、立ち向かうだけの力もなかった。

しばらくして、太陽は傾き、空がゆっくりと夕日に照らされ始めた頃、疲れ切って気を失っていた周波が目を覚ました。

「はっ!龍馬」

周波は目を覚ましてすぐ、上半身だけを素早く起こし辺りを見回した。

「周君、大丈夫?」

「俺のことはどうだっていい。それより龍馬。あのクソ頑固おやじはどこ行った!」

飛び起きるなり、周波は緋色の胸倉を掴んでそう聞いてきた。

 だが、緋色はその問いに対して、周波の眼をまっすぐ見て答えることができず、少し視線を逸らして答えた。

「ごめん、僕なにもできなかった」

 緋色がそう口にした瞬間、自分で口にしたことで、自分の無力さと自分自身の心の脆弱さに改めて気づき、何もできなかった自分が許せなくなった。

緋色は悔しさと自分自身への嫌悪感で徐々に先ほどの後悔が募ってゆき、やがて緋色の心はダムが決壊し、いろんな気持ちが一気に溢れ出した。気が付くと緋色の目からは大粒の涙がこぼれていた。

その後、緋色と周波は一言もしゃべることなくそれぞれ自宅へと帰宅した。

 今日の出来事がこれから起こる事件の引き金になる事を緋色たちはまだ知らずにいた。


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