第一幕 主よ、汝の慈愛と祝福で傷をもてる我らを解き放ちたまえ

Ton.01 聖火騎士と少女と礼拝の乙女

 その日、彼は待ち合わせのために、街はずれに向かっていた。

 歩くたび、月のような輝きを放つ銀髪がさらさらと揺れる。途中、絵画の聖人を思わせるような美しい横顔に、幾人かの女性が小さな声を上げるのが聞こえた。


 そうして彼がやって来たのは、見上げるほど高い聖堂の前だった。

 天を目指すように灰色の石を積み上げて作られた二つの長い尖塔が象徴的な聖堂だった。その他、大小さまざまな背の高さの尖塔が針葉樹林のように立ち並んでいる。

 聖堂の前に立った彼は、葉のレリーフが浮き彫りにされた木の扉に手を伸ばした――直前、中から聞こえてきた歌声に気づいて、手を止める。

 しかし、彼は思い直したように手の平を扉に押し当てると、ぐっと奥へ押し開ける。

 開いた扉の先に続くのは、線対称に並べられた長椅子と、奥に伸びる大理石の通路。そして、一冊の書物が載った教壇。


 その手前に、一人の少女が立っていた。

 入り口付近に立つ彼に背を向けた、金髪の少女が。

 どうやら歌っているのは彼女らしい。聖歌隊のように澄んだ清らかな声が、高いアーチ状の天井に響き渡り、聖堂全体に広がっていく。

 やがて、少女が歌を歌い終えたところで。


「とても素敵な歌ですね」


 彼は万感の賛辞を込めながら小さな拍手を送った。反響音が聖堂内に散る。

 歌声の主である少女がゆっくりと振り返ってきた。黄金色の髪が、窓から差し込む陽光に照らされて小麦の穂のように揺れる。

 一言でいうなら美少女だった。金糸のような髪に陶器のように白い肌。小さな顔に象嵌されているのは翡翠色の瞳。着飾って座らせておけば深窓の令嬢にも見えただろうに、格好は顔立ちに反した快活そうな丈の短い赤い乗馬服キュロットだった。

 少女は、漆黒の法衣のようなもので身を包んだ青年の姿を認めると、ぱちくりと目を瞬かせた。遅れて、ゆっくりと口元を緩ませて微笑む。


「ありがとうございます」

「いいえ、こちらこそ」


 互いに軽い会釈のようなものを交わし、沈黙。

 先に声をかけたのは、彼――リュシアンだった。


「こんなところでどうしたのですか?」

「あ、すみません。きれいな建物だなぁって思って、ちょっとのぞいてただけなんです」


 そう答えてから、少女は心配そうに眉を下げておずおずと聞いてきた。


「……いけなかったですか?」

「いいえ。基本的に聖堂の観覧は自由ですから、問題ありませんよ」


 リュシアンは安心させるように優しく笑いかけた。

 すると、ほっと胸をなでおろしながら、よかった、と少女が一言。それから、ぐるりと建物を見渡しながら尋ねてくる。


「その……このきれいな建物は聖堂というんですか?」

「ええ。法典を学ぶための集会所のようなものですね」

「へえ……」


 初めて聞いたような反応に、リュシアンは小首をふと傾げた。


「もしかして、外国から初めて王都にいらしたのですか?」

「あ、はい。独立式典前の王都は賑やかになると教えてもらったので、用事ついでに観光しにきたんです」

「でしたら、どこにでもある聖堂より広場にあるオベリスクや噴水庭園などをお薦めしますよ。よろしければ途中までご案内しましょうか?」

「いいえ、ご迷惑をおかけするわけにもいきませんし。一人で大丈夫です。ありがとうございます」


 少女はあっさりと首を振って見せてから、


「あ」


 と声を上げた。そっと痛ましげな表情で切り出してくる。


「あの……右手、怪我してます」


 彼女の言う通り、リュシアンの手の甲には擦りむいたような小さな傷があった。


「ああ、これぐらい大丈夫ですよ」

「私、消毒液持ってるので、ちょっと待ってください」


 少女は肩から斜めにかけている鞄から消毒液と絆創膏を取り出すと、清潔なハンカチを消毒液で濡らした。ハンカチでリュシアンの手の甲をなぞろうとする。


「ごめんなさい、少し痛むかもしれません」

「大丈夫ですよ」


 自分の手のひらにリュシアンの手の平を重ね合わせる少女。彼女は壊れ物でも扱うように丁寧に消毒液をリュシアンの手にすり込み、最後に絆創膏を貼り付けた。


「はい。終わりました」

「ご丁寧にありがとうございます」


 完璧な騎士のように、胸元に手をあてて一礼。

 ふと、リュシアンは教壇の傍にあるひと際大きな柱を一瞥した。それから、少女に説くように人差し指を立てる。


「……じきに太陽も傾き始めます。完全に日が暮れる前にお帰りになさい。このあたりは何かと物騒ですから」

「物騒?」

「ええ。先日、すぐ隣の十三街区で若い娘さんが手にかけられたそうです。それも自宅近くで。惨いことです」


 痛ましげに睫を伏せた様子は見る者に同じ哀切の念を抱かせると同時に、息を飲むほど美しい横顔だった。


「……そうなんですか」


 つられるように不安げに顔を俯かせる少女。

 その様子を見て取ったリュシアンが、穏やかながらも力強い言葉を返す。


「そんなに心配されないでも大丈夫ですよ。たとえ凶悪な犯罪者だとしても、この王都グラ・ソノルには私たち聖火騎士がいますから」


 すると、少女が意外そうに目を丸くした。


「あなたは聖火騎士さんなんですか?」

「ええ。といっても、聖火騎士の端くれみたいなものですが」

「それじゃあ、ホーラの館ってどこにあるか知ってますか? 支部でもいいんですけど」

「ホーラの館のカリディア支部でしたら、すぐ近くにありますよ」

「本当ですか?」

「ええ。この聖堂を出て真っ直ぐ行くと大通りに突き当たります。それを右に曲がれば川沿いに円筒形をした二本の塔が見えてきますので、そこがホーラの館になります」


 説明してからリュシアンは逆に問いかけた。


「しかし、ホーラの館へ行きたいとは、何かお困りごとですか?」

「いいえ。用事があるだけなんです。教えてくれてありがとうございます」


 ぺこり、と、少女は礼儀正しくお辞儀をしてから、出口に向かって走り出した。扉の前で、肩越しに振り返りながら、


「歌、聴いてくれてありがとうございました!」


 元気に手を挙げてくる。

 そんな少女に、リュシアンも軽く手を振り返した。

 少女の足音が遠ざかり、何も音がしなくなってから。

 完全に一人きり――否、二人きりになったところで。




「――うーん、なんていうか、ちやほやしてくるお姉さんも悪くないが、たまにはああいう純真無垢そうなのも良いかもしれないな」




 先ほどまでの慎ましやかな品格はどこへ消え去ったのか。やけに気楽な口調でリュシアンはぼやく。

 ついでに、彼は背後に同意を求めた。


「どう思う? アルフィナ・トリステス?」


 少しの間を置いて、


「……その問いかけは、とても聖火騎士とは思えない問いだと思うのだけど? リュシアン・ヴェルブレシェール?」


 教壇の傍にある柱の影が揺れる。

 精緻な模様が彫られた柱の後ろから音もなく出てきたのは長い黒髪を真っ直ぐに伸ばした怜悧な美女だった。

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