ヴィエラ・コード ~ディオスの夢を見る少女に、聖断にして断罪の剣を~

久遠悠

序幕 審判者は終焉の楽園を夢見て大罪人と出逢う

Seven years ago

因果の淵に咲く花の名は (上)

 雨が降っていた。

 鬱陶しい灰色の雲が街を覆っている。

 石畳を打つ雨音が、ノイズとなって鼓膜に届く。冷え切った身体と雨を吸い込んだ服はまとわりつくように重たい。

 ひりひりと焼けつくような痛みを持つのが、怪我をしている部分なのか、身体全体なのかわからない。地べたに座り込んだまま、ドブネズミ色の建物に背中を預けて少年は空を仰ぐ。ドブネズミ色の空を。


 きっかけは、ほんの些細なことだった。


 彼が用心棒として雇われていた娼館にマナーの悪い客がやってきた。

 だから、対処しただけ。

 具体的にはナイフを急所にひたと押しあてて、震えあがる相手に脅し文句を言う。その程度の簡単な仕事だった。必要ならば制裁を加えて、二度と店に来られないようにする。彼の仕事で役目だった。

 その日も、同じように仕事をしようとして――そして、返り討ちにあった。ただそれだけのこと。

 彼に恐れをなして、無様に逃げる相手を追いかけて、袋小路に追い詰めた時だった。いつの間にか周囲にゴロツキのような男たちに囲まれていた。

 追いつめたつもりが、逆に追い詰められていた、なんていう話はどこにでもある話だ。まさか自分が愚を犯すわけがないと過信していたわけでもないが、こうも簡単に陥れられると逆に笑いたくなってくる。

 それから先は既定路線。多勢に無勢。数の暴力で一方的に行われる私刑。一回り近く年の離れた少年を遠慮なく殴って刺した。

 殴られて、ナイフで刺されて、ぼろ雑巾みたいになり果てた少年は、血を流しながら噴水のふちに背中を預けていた。すでに出血多量。おまけに雨のおかげで体温は冷えていくばかり。意識を失って、死ぬのも時間の問題だろう。

 通りがかる人々は皆一様に少年から彼から目をそむけ、足早に走り去ろうとする。何人かはぎょっとしたような顔をした。気の毒そうな顔をした者もいただろう。だが、いずれも、何もしないで立ち去っていく。

 犯罪と混沌の坩堝である王都グラ・ソノルの十三街区では見慣れた光景だ。誰かの視界の端に入っただけでも上等なものだろう。誰だって厄介事に首を突っ込みたくないのだから。

 こんなのは日常茶飯事。誰の気にも止められないまま、視界にも入らないまま、一人の少年が命を落として世界から退場する。そんな哀れな奴は世の中には吐いて腐るほどいる。少年もその中の一人になった。大したことではない。

 だというのに、少年は笑いだしたくなった。

 なんて理不尽で、不条理で、馬鹿馬鹿しい世界だろう。

 そんな世界を笑い飛ばしてしまいたかった。

 だというのに、喉の奥から出てきたのは生温かい血だけ。

 雨の中、むせかえるような匂いを発する液体を咳と共に吐いて、吐いて吐いて吐いて、ほんの少しだけ気分が楽になる。

 不意に。


「……君はここで死ぬのかい?」


 慈雨のような、穏やかな声が降り注ぐ。

 一瞬、その声を少年は天使か何かと思った。


「……見てんじゃねえよ」


 出たのは、血反吐を吐くようなかすれた声だった。

 少年は目の前に立っていたのは、黒い法衣にも似た、禁欲的な服を着こなした男だった。染み一つないまっ白なスカーフを首元に巻いている。まるで絵画に描かれた聖人のようである。

 放っておけば去るだろうと思っていたのだが、男は中々その場を離れようとしない。


「とっとと失せろよ……」


 精一杯の悪態をつけば、男は困ったように苦笑した。エヴァグリーンの双眸に憐れみのような色が混じる。


「私もそのつもりだったのだけどね」


 そう言って男はゆっくりと少年の前に近づいてきた。


「生きていくための力が欲しいかい?」


 歌うように清らかな声。

 神の祝福か、悪魔の誘惑か。まるで甘美な毒のようだと思った。


「驕りでもなんでもなく、私は君が望んでいる力を与えることができる。誰かに殺されない力。誰かを殺すための力。下種な輩に陥れられても、無抵抗のまま搾取されないための暴力を。ただし、その力を手に入れるからには相応の覚悟はしてもらうけれど」


 人も殺せないような人畜無害そうな顔をして、中々物騒なことを言ってくれる。


「はっ、イかれてんな……アンタ」

「そうかな?」


 聞き返してから、男は思い直したようだった。


「ああ、うん。そうかもしれないな」


 どっちだよ、と返そうとして咳き込む。


「まあ、要するに、君、私の後継者に――聖火騎士になるつもりはない? っていう話」


 いきなり呑気なことを言いだす。雨の日に、こんな場所で、しかも血みどろで死にそうな相手にする話ではない。


「要するに、お誘い。勧誘というものさ。以前、別の後継者がいたのだけどね、内乱の後にいろいろあって逃げられてしまって……。だから、新しい後継者を探しているというわけだ」


 のほほんと勝手に身の上話を始める男に軽い殺意が沸く。そんな手前の都合なんて知るかよ、と言いたい。

 男は少年を眺めた後、うなずいた。


「君なら割といい線行くと思うのさ。色々な意味で」


 理由を問いただしたいところだが、それすらも億劫だった。


「何より、君はここで死にたくないのだろう?」


 その問いかけに、少年は全身がかっと熱を帯びるのを感じた。

 ろくでなしだらけの世界。こうして産まれて生きて存在するというのに、こんな風にゴミクズみたいに打ち捨てられて死んでいくなんて御免だ。ああ、そうだ死にたくなんてない。こんなクソッタレな人生、誰が認めてやるものか。こんなところで死ぬ? ふざけるな畜生。大声を張り上げて叫んでしまいたかった。


「……死にたく、ねぇっての……っ!」


 それは、惨めで痛切な嘆き声というより、全ての不条理を憎むような怒りに満ちた声だった。復讐者が復讐を決意するときにも似た、それ。

 死にゆく絶望の中で生と命を渇望する少年に、


「うん、それは良かった」


 男は鷹揚に笑った。


「ここで死にたいなんて言われたら、私は君の意志に反して君を助けなきゃいけないところだったから。私の後継者になるうんぬんは別にして、正直な話、君には生きて欲しいと思っているし、何より生きてもらわなきゃいけない」


 段々とまどろむように意識が遠のいていくのを感じながら、少年は男の話を聞いていた。


「ここで助けた後で、あそこで死んだ方がマシだったなんて言われた日には目も当てられないからさ。でも、君は死にたくないと言った。それなら利害は一致しているし、私も後で恨み言を言われる心配もなさそうだ」


 本格的に意識が沈みかける。眠いわけでもないのに瞼が落ちていく。


「……アンタ、一体……何なんだ?」

「私はヴェルジリオ・サンクシオン。ただの聖火騎士さ」


 意識が完全に闇に塗りつぶされる寸前で、そんな声を聞いた。

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