竜の望むこと
竜が一歩近づいてきた。懐中電灯に照らされた鱗がギラリと光る。
サトルはこうして竜と正面から向かい合うのは初めてだった。その姿を間近にするだけで、生きようとする気力も希望も奪い去る、この絶望的なまでの威圧感はどこから来るのか。大きいから? 当然そうだろう。凶暴なのを知っているから? それもあるだろう。しかし何億年も生き続けてきた竜は、単なる野生動物などとは比べものにならない、すべてにおいて次元の違う生きものだということを感じる。
『俺はこんなものを相手にしていたのか。竜を守る? 自分の命さえ守れそうにないのに、なんて偉そうで、なんて大それた考えをもっていたのか。……いや、けれど今はそんなことより、これから何が起こるのか、どうやって逃げるのか必死に考えるんだ』
竜がまた一歩近づいてきた。軽い地響きがする。いや増す絶望感。
『どんな時でも考え続けろ。そうすれば最悪の事態は避けられる』
竜守り人になって何度聞かされた言葉だろうか。頭ではわかっている。これまでも危険な目には遭ってきた。だが今回は最悪の出遭いだろう。こんなときはどうすれば…。
『何がなんでも自分の身を守るんだ』
ほんの数時間前、あの人に念を押された言葉。このまま何もせずにいると、自分とこの娘の命が危ない。わかっている。けれどどうすればいい。なんとかするんだ。考えろ。とにかく考えるんだ。
『……やはりこれしかないか』
サトルはライフルを握り直した。一度そう決断したものの、手のひらに伝わる冷たい金属の触感が判断を鈍らせる。自分たちが助かったところで竜にダメージを与えては元も子もない。そんなこともわかっている。
『それでもいちかばちか、やってみるしかない…』
サトルはライフルを構えた。
『全身硬い鱗に覆われているが、急所はいくつかある。急所のど真ん中さえ外せば、致命傷を負わせることもなく、一時しのぎにはなるだろう。その間に何とか逃げられれば…』
「傷つけちゃだめ!」
ミキが声を上げた。
「わかってる。けどこれしか方法がないんだ」
サトルは竜から目を離さずに答える。
「だって泣いてるじゃない」
「竜が泣いてる? 何を言ってるんだ、雨で濡れてるだけだろ。そんなこと言ってるとこっちがやられてしまうぞ!」
「そうじゃない、とてもさみしそう」
「何言ってるんだ。君は竜の気持ちが分かるのか?」
「分からない。けど、そんな気がするの。だから少し待って」
「そんなことしてる間に…」
竜はふたりの目の前で大きくジャンプした。その巨体からは考えられないほどの軽やかな身のこなし。そしてそのまま羽ばたきながら空高く舞い上がり、あっという間に暗闇にまぎれ見えなくなった。ふたりは
頭上から「グルルルル」という鳴き声と、消しようのない大きな息づかいが聞こえてくる。頭上を旋回しこちらの様子を伺っているのだろうか。姿は見えないが相変わらずの圧迫感を感じる。
「今のうちに下に逃げよう」
「うん」
『これで助かるかもしれない』
サトルがミキの背中を追うように足を踏み出そうとしたとき、ビリビリと空気が震え、轟音とともにまた雷が落ちた。
それが合図だったかのように、バリバリバリ!と建物の壊れる大音響がしたかと思うと、天井から木の破片や細かい砂が降り注いだ。
サトルは思わず目をつぶり、そして再び開いた目の前には、信じられないことに、巨大な竜の顔があった。
人間の拳よりもはるかに大きな目、その中に自分の姿が映っている。これだけ近ければ、暗闇の中でもある程度ものは見える。けれどこの状況では恐怖感がとめどなく膨れ上がるだけで、何も見えないほうがよかったのかもしれない。視線を下に移すと、人間の腕よりも太く長い牙がびっしりと生え、丸太のようにひときわ太く長い牙が突き出ている。そして、獣とも違う独特のにおいが鼻をつく。
サトルの体は恐怖で固まり、手の指一本すら動かすことはできなかった。しかしもし動かせたとしても、その瞬間にこの牙の餌食になってしまうのではないか。顔から血の気が引いていくのがわかった。
『終わった…』
頭の中で記憶が暴走を始めた。子どもの頃の友人の額の傷、近寄りがたかった人の横顔、庭に集まった小鳥の群れ、日焼けのあと、竜守り人になった日の夕食…、憶えていても仕方のない、そんな取るに足らない記憶の映像ばかりが次々に駆け巡る。しかもすべて断片的なもののみで、まともなことは何も考えられなかった。そんな記憶が頭の中を一回りしたとき、ほんの少しだけ、今置かれた状況を把握できる程度に頭が働いてきた。
『このまま食べられてしまうのか、それとも尻尾のひとふりでやられてしまうのか…。せめて娘の顔をひと目見たかった……娘!? あんなに産まれるのを心待ちにしていたのに、忘れていたなんて、俺はどうかしてる…』
サトルは自嘲気味にそう思い、現実から目をそらしたくなるが、すぐ目の前の恐怖がそれを許さない。しかしながら、竜は一向に襲ってくる気配はなかった。先ほどから微動だにせず、「クルルル」とのどを鳴らすように小さく低い声を発しながら荒い呼吸を繰り返している。こちらの出方を伺っているのだろうか。
『そういえばミキは無事だろうか』
すぐそこにいるはずだが姿はまったく見えない。
『たぶん大丈夫だろう。いや、今はそう思うしかない』
雷が光り、一瞬だが竜の顔がはっきりと見えた。
生きている竜がこんなに美しい目をしているとは思わなかった。ガラスの層をいくつも重ねたように奥深く、そして吸い込まれるような濃い青色の瞳だった。しかし同時に、白くするどい牙がキラリと光るのも見逃さなかった。
それでも竜はぴくりとも動かない。どれくらいこうしているのだろう。ひょっとして助かるのかもしれない、そんな希望を抱いたとき、竜がサトルのほうへ顔を向けた。
『今度こそだめか…』
走馬灯が走るには十分すぎるほどの刹那。しかしもう頭をよぎる記憶はなく、目の前は白く塗られ、何も考えることはできなかった。
『あなたにわたしの子どもたちを守れるの?』
ふいに、がらんどうの頭の中にそんな声が響き渡った。
『何だ? ミキの声? 助けてと言ったのか? ……いや違う、そんなものじゃなかった』
耳鳴りだけがしていた。いつの間にか風や雨はやみ、部屋の中は静寂が広がり、遠雷が聞こえてくるだけだった。竜の息づかいも聞こえなくなっていた。
壊れた天井から月の光が降り注いできた。
冷たい光が竜の濡れた顔を照らし、その顔はまるで、
……泣いているみたいだった。
『いいえ。わたしの子どもたちを守ってくれないかしら』
今度ははっきりと聞こえてきた。ミキの声ではない。言葉が直接心に響いてくるのだ。
それはとてもやさしく、なつかしい声だった。
『子どもを守るって? 誰の子どもを?』
『すぐにわかるわ。わたしももういつまでもこのままではいられないの。だからお願い。頼まれて』
『わからないものをどうやって守ればいいっていうんだ…』
サトルにはその声の主も、何を守るのかもわかっていたが、頭が理解することを拒絶していた。
『あなたはやさしい目をしている。大丈夫、きっとできるはず』
『きっとできるって…』
『ごめんなさい。少しの間だけ眠っていて』
竜の目が淡く光ったと同時に、サトルはあやつり人形の糸が切れたように、足元からがくりと崩れ落ちた。
ミキが天井を見上げると、ぽっかり空いた穴から月が見えた。
これまでに見たことのない大きな月。
知っている月の何倍どころではない。
ずっと見ていると、吸い込まれるような不安にかられてしまう。
ミキは自分がケガひとつしていないのが不思議だった。
『わたしを守ろうとしてくれて、ありがとう』
ミキにも竜の言葉が聞こえてきた。とてもやさしい声。けれど何も答えられない。
『あなたとはいろいろお話してみたいけど、でも、ここにいてはいけないわ』
胸のペンダントがひときわ強く光り、服の中から竜の顔を照らした。
『やっぱりあなただったのね…。そう、そういうことなのね…』
『え?』
『いいえ、いいの。あなたは、あなたのいるべきところに帰らなくてはね。そのままわたしの目を見ていて…』
ミキは言われるままに竜の目を見つめる。深くて濃い青色の瞳。それがぼんやりと光ったかと思うと、体が軽くなるのを感じ、吸い込まれるように意識を失ってしまった。
***
気がつくとミキは真っ暗な部屋の中で横になっていた。ひんやりとした床。そして少し
ひとすじの明かりが差し込んでいた。ゆっくりと体を起こし、明かりに向って歩いていく。
扉を開け外に出ると、頬をなでる風が心地よかった。
空には月が出ていた。大きな月と小さな月。その間を黄金色に輝きながら羽ばたいていくものがあった。
濡れた髪を海風になびかせ、荒波の打ち寄せる断崖の上で、遠くの空だけを見つめていた。
『あれは何だったんだろう』
首から下げたネックレスをはずし、両手で優しく包み込んだ。
「おーい、ミキちゃーん!」
ふたりの男が手を振りながら駆け寄ってくる。それを見た時なぜかほっとして、その場に片膝をつき倒れ込んだ。
草の葉の上に連なったいくつもの雨粒が、太陽の光を反射し、水晶玉のようにきらきらと光っていた。
『あぁ、草のにおいだ』
ミキは深い眠りに落ちた。
ふたつの月は重なり合い、白くくっきりと輝きはじめた。
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