嵐の前に

「ちょっとラジオをつけさせてくれ」

 サトルは思い出したように言い、机の上の小型の機械を操作すると、どういう仕組みになっているのか、壁から声が流れてきた。

『…北東の風、のち南西からの風が強くなり、ところにより激しい雷雨となるでしょう。なお海は大時化おおしけ、船舶はできるだけすみやかに避難してください』

「おかしいな、今朝の予報だと天気が崩れるのはまだ先のはずだったんだけど、低気圧の進み方が速くなったのかな…」

 独り言のように言うと、窓に額をくっつけるようにして、外の様子を伺った。

 空はどんよりと黒い雲に覆われ、その下をちぎれた雲が足早に流れていく。窓は頻繁にカタカタと鳴り、雨粒がいくつか風に乗ってガラスに張り付いた。

「予報どおり雲行きがあやしくなってきてるな。ひょっとしたら今晩はほんとに嵐になるかもしれない…。まずいなこれは」

「嵐が来るとたいへんなの?」

 サトルはひとりで考えにふけっていたが、そう話しかけられてミキがいることを思い出した。その存在を忘れてしまいそうなほど、一瞬で心の余裕がなくなっていた。

「そうか、君はここがどういうところか、ほんとに何も知らないんだな」

「ごめんなさい」

「いやいや謝る必要はないよ。さっき竜ヶ島って言ってたから当然知ってるものと思ってた。知らないんだったら仕方ない。けどこれからひと晩、何事もなく朝を迎えられたら上出来、最悪の場合大ケガ、いやそれよりもっとひどいことになってしまうかもしれない。その覚悟をしてくれないか。もちろんそうならないように全力を尽くすけど、へたな期待をもつとあとがつらい」

「え…それはどういうこと…? 何が起きるの?」

「答えてあげたいけど、今は話している時間が惜しい。一刻も早く準備を整えておいたほうがいい。おれは作業をするから、君はここで休んでいてくれ」

「は、はい。あ、いえ、何かわたしで手伝えることはないの?」

「手伝ってもらえるなら、それに越したことはないけど。…体は大丈夫なのかい?」

「ええ、もう何ともないと思う」

「それじゃ、ちょっとお願いしようかな。こっちへ来てくれ」

 サトルは階段を上がり暗闇の中へと消えていき、ミキもあとに続いた。明かりが灯ると、ホコリのにおいにまみれた部屋はオレンジ色に包まれ、ミキの知らないいろいろな道具がところ狭しと置かれていた。サトルは部屋の隅に行き、そこにある木の小窓を開けていく。ふたつめの小窓を開けた瞬間、びゅうっという風の音とともに、パラパラパラと雨粒が入り込んできた。

「こっちに来てくれ。合図をしたらこれを下に垂らしてほしい」

 サトルの手には船のイカリのようなものがあり、その先はロープに繋がれ、小窓の上の壁から生えた滑車を通り天井へとのびていた。

「外から合図をするから、四隅のものを時計回りに順番に下ろしてくれないか」

「ここの次はあそこのを下ろせばいいのね?」

「そう。軽く引っ張ればロープが下りてくるから、そのまま下に投げてくれればいい。お願いできるかな」

「任せて」

「じゃあ声をかけるまで、濡れない場所で待っていてくれ」

「うん」

 サトルが階段を下りていき、しばらくして扉を開け閉めする音が聞こえてきた。部屋の中は急激に生命いのちの気配が失われ、風の音と雨粒が外壁に叩きつける音だけが響いていた。ひとり残されたミキはなにも考えず、ただサトルから声がかかるのを待ち続けた。

「…おーい」

 サトルの声だ。

 小窓から顔を出すと、とび色のコートを身にまとったサトルが下から見上げていた。顔に当たってはじける雨粒が痛い。

「いつでも投げてくれー」

「わかったー」

 ミキはロープの先のおもりをつかんで引っ張り、小窓の外へ投げ捨てた。しかしそれは存外に軽く、すぐ下の外壁に当たったのが音でわかった。

「もう少し下ろしてくれないかー」

「ちょっと待って!」

 ミキは滑車にかかったロープをたぐり寄せ、小窓の下へと流していった。

「もう大丈夫だー。すこし時間がかかるから、濡れないようにしておいてくれー」

 ミキは部屋の片隅に移動した。前髪は額に張り付き、それほど体を動かしたわけではないのに、体は少し熱くなった。風も強くなってきたようで、部屋を包むオレンジ色の明かりは電球とともに揺れ、小さな窓からひっきりなしに雨粒が吹き込んでくる。

「…おーい……」

 サトルだ。

「小窓を閉めて、次はあっちを頼む!」

 ミキは窓を閉めようとするがロープが邪魔でうまく閉まらない。あとでなんとかしてくれるだろうと次の小窓に移り、先ほどと同じ作業を繰り返していった。

「もう大丈夫だー。下に行って休ん……れ…」

 ごおっとときおり風が強く吹き、サトルの声はかき消される。半開きの小窓がガタガタと鳴り響く部屋をあとに、ミキは階段を下りていった。


「さて、準備もひと段落したし、お茶でも飲みながらさっきの続きを話そうか」

 外から戻ってきたサトルは雨でしとどに濡れたコートを脱ぎ、階段を上がってなにやらごそごそとしていたかと思うと、さっぱりとした格好で下りてきて、今度は下へ行き、そして湯気の立ちのぼるやかんとコップを手に上がってきた。ミキにコップを渡し、その中へココアを注いでいく。そしてソファーに並ぶように座り、自分のコップへもココアを注いだ。ミキは黒い砂糖を入れてスプーンでかき回している。

「さっきは何をやっていたの?」

「ん? あれね。あれはこの建物が飛ばないように、ロープで固定したんだ。見ての通り土台は岩でしっかりしてるんだけど、建物は木製で軽くて弱いから飛ばないようにね。ただ手伝って貰っておいてなんだけど、気休めにしかならないかもしれないけどね」

「それで、これから何が起こるの?」

「うん。君はここがどういうところかよくわかっていないようだけど、さっき言ってたろ、竜ヶ島って」

「ええ、確かにこの島はわたしの知ってる竜ヶ島に似てると思うんだけど」

「その竜だよ」

「え?」

「竜が来る…」

 サトルは窓の外に視線をやりながら真剣な表情でそう告げた。その確固とした言葉は、ミキの疑問などはなから拒絶するものだった。

「考えたくないけど、たぶん今夜だ」

 これは冗談などではないんだ。ミキの頭の中は真っ白になり、ふたたび軽いめまいを覚えた。

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