第4話 いいなりの男

「今日はわざわざ僕たちのためにありがとう」


 五年前から変わらぬ声でそう呼びかけられ、幾分か山本は戸惑った。自分は山寺からは恨まれるようなことしかしていないはずだ。すると山寺はそんな心の内を読み取ったように続けた。


「過去は過去。もう終わったことだ。君も随分苦労したんだろう? 聞いているよ」


 そのタイミングで食前酒をどうするのかを聞かれたので、美怜がお勧めのものを選び、それにつられて皆同じものを選んだ。運ばれてきた血の色さながらのワインを注いでもらい、グラスの足を軽く持ち上げて乾杯の意を示した。


  一皿目は野菜のスープだ。上品な手つきで何度もスプーンを口元に運んでいた美怜はふと主催者側意識を取り戻したのか「食事を楽しんでね」と一言こちらに行った。二皿目のサラダ、フロマージュといった前菜の後、舌平目のムニエルが運ばれてきた。それを楽しむ間、自然と話の内容は二人の関係になった。


「さっきも言っていたけど、一体二人はどうやってよりを戻したんだ?」


 そう尋ねると山寺は美怜の顔をちらりと見た。美怜はその視線に気づきながら一口ワインを飲んだ後、唐突に申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんなさいね。本当は結婚なんて真っ赤な嘘なの。確かに私たちは特別な関係だけど……、それはあくまで私が作り上げる至福の歯車に過ぎないの」


 至福? 歯車? 唐突に理解のできない単語が並び混乱した。一体彼女は何を言っているのか。

山寺の方をむくと柔和な表情のまま美怜だけを見つめている。その瞳が人形のように空虚なことに気づき、ぞっとした。


「人はね、美味しい食事や恋人、家族との時間を持つとき、それは何にも代えがたい至福だという人が多いらしいの」


 皿が下げられ、いよいよメインディッシュが運ばれてきた。カモのコンフィだ。オレンジソースがかかっていて色彩が奇麗だ。

一旦ナイフとフォークを手にした彼女はその両手首を皿の両端に伏せ、先ほどの会話の続きを話し始める。


「でも、私は違うの。こんなにおいしそうなものを見て、実際に食べてみたところで幸せにはなれない……」


 俯きながら皿を覗き込む表情があんまりに悲しそうなので、堪らず大丈夫ですかと心配してしまった。彼女はそのまましばらくじっとしていたあと、気が変わったのかナイフを肉の筋にそって切り始めた。山寺は終始変わらず食事を楽しみながら、彼女を見つめて微笑んでいる。不気味な二人だ。


「それには私の生い立ちが関わっているのかもしれない。私は一般の家庭よりのずっと貧しい家庭で、絵にかいたような貧乏人だったから」


切り取った肉を頬張りながら微笑む。あなたも聞き役に徹していないでどうぞ召し上がって、冷めてしまうから。あたかもそういうような微笑に促されるままカモの肉を口に運んだ。久しぶりに食べる上質な肉だ。こんなに素敵な晩餐はここ五年でまったくない。こんな贅沢をしていいのか不安にもなる。なんだかこれが最後の晩餐になる気がした。

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