Episode 12

 家に帰った僕たちは疲れからか、シャワーを浴びてすぐに眠りに落ちた。それから数日の間は有は発情期の真っ只中なので元から休みを取ってあった。その一方で透はダンスのレッスンと雑誌の撮影で忙しいようで、すれ違いの日々が続いた。

 今回は2日目に抑制剤を大量摂取したせいで最も精神的に辛い4日目を眠って過ごすことになったが、その跳ね返りが期間の長さに訪れた。大抵の場合は7日から8日で終わる発情期だが、8日目になっても発情の症状が治まりそうにない。

 毎日起きてから少しのシリアルを口にして薬を飲み、昼まで欲に任せて眠り続ける。有は発情期だと特に精神が不安定な状態になり、胃に物を受け付けない。口にするのも面倒だと感じるために、冷蔵庫の中の食べ物が一向に減らない。



 ── また、透に心配かけるかも……



 そう思ったが、食べられないものは食べられない。そんな葛藤を心に抱えたまま、ベッドに寝たきりの8日目が終わろうとしていた。しかし透も身勝手だと思った。有が最もパートナーを求める期間に、セックスしないだなんて宣言をされたことを些か疑問に ── というよりかは不安に思った。

 有の辛さを心から理解しているとはいえ、オメガとセックスするのは本当は嫌なのではないか……と。


 番のいるオメガは、「巣」を作ろうとすると聞く。これは透から何ヶ月か前に教えてもらったことだ。巣は番の洋服などを重ねることで作り、番の匂いで包まれることが目的らしい。

 有は今、同じような衝動を抱えていた。薬を飲んで寝ているだけでは全ての欲は鎮まらない。身体的な症状は顕著に抑えることができても、精神的な問題を解決することは難しい。でも、僕は透と番ではないのにそんなことをして意味はあるのだろうか ── そう考えもしたが、欲に負ける形で体は動いた。


「……」


 静かに透が寝ているところに移動する。有と透の寝るベッドはクイーンサイズで2人横に寝る形だ。近場とは言え掛け布団と枕だけ別なので、透の匂いを感じるには充分な場所だった。

 掛け布団をしっかりと両手で掴んで、スウっと匂いを嗅ぐ。いい匂い ── というのはどういう基準なのか分からないが ── 透の匂いだ。



 ── 会いたいなぁ……



 今すぐ抱き締めたい。ただいま、と言ってキスがしたい。透と結ばれて初めての発情期は、自分の心からの欲望が精神に直結するものだからとても辛い。今まではできないと軽くあしらっていた心が、「今はできるのに」と急に我儘になるのだ。

 耐え切れず、頭に当たっている枕を手探りで横に持ってくる。抱き寄せて匂いを嗅ぐと、まるでそこに透がいるかのような気持ちになった。同じシャンプーの香り、でも透は少し有とは違う柔らかい匂いがする。それが堪らなく好きで ── 透と話したい。


『有、好きだよ。有』


「ん……僕も……好き……だよ」


 まるでそこにいるかのような ──


『有は甘えたさんなんだね』


「んー……」


『有、俺の名前、呼んで』


「とー……る」


 ドサリと何か落ちる音がした。足音が近付いてきて、掛け布団をふわりと捲られた。見慣れた髪色が顔を覗かせる。


「ありあり、どうしたの」


「……とおる……?」


 大好きな人の顔は何故か少し困ったような、引き攣ったような顔をしている。無断で透のベッドに潜り込んでいたことが嫌だったのかも、と少し悲しい気持ちになった。でも無理もないし当たり前のことだ ── 有と透は番ではない ── 巣を作りたいという衝動に駆られるなんて、自分でも信じられなかった。

 透の困り果てたような目に見つめられていると、段々と自分がとても恥ずかしい状況にあると気付いた。でもここから抜け出す気にはなれない ── 発情期特有の欲求がまだ身体の中で疼いている。自分がいつもの自分でなくなっているのが有にも分かった。

 透の背後に脱ぎ捨てられたダッフルコートを認めた直後、フッと口付けを落とされる。それを自然に受け入れた後、透は嫌がっているわけでも怖がっているわけでもないと分かった。有を見る目は愛おしさと慈しみに満ちていて、自分を許容されているのを感じた。


「……枕と俺どっちがいい?」


「へ……?」


「帰ったら電気ついてるのに返事なくて、トラウマ蘇った。また倒れてるんじゃないかなって……そしたらこんなかわいいことになってるし、勘弁してよ、ありあり」


「ご……ごめ……」


「で? どうしたの? 人恋しくなっちゃった? 俺の匂いに包まれたくなっちゃったの?」


「なんか……変で……番でもないのに……」


 咄嗟に口から出るのは言い訳ばかり。素直に「うん」と言えない性格に腹が立つと同時に、これは仕方ないことだとも思った。



 ── だって、透に嫌われたくない



 不安は心の中で増幅していき、口に出すまいとしていたものまで曝け出してしまう。


「僕と……セックス……したくない……?」


「え?」


 透は怪訝な顔を見せる。当たり前だ、こんな浅ましい質問をするつもりはさらさらなかった。でも口に出してしまったが最後、感情がぽろぽろと流れ出ていく。


「本当は……僕と繋がるの……嫌なのかなって……オメガとセックスなんか……したくないんじゃないの?」


「は? いや、それは……」


 予期せぬ沈黙に、特大の涙が溢れてくる。不思議と嗚咽することはなく、ただただ、涙だけが溢れてくる。これは発情期で感情的になっているからだろうか ── 涙は止めどなく流れる。


「えっ……ありありなんで」


 理由を訊かれる前に掛け布団を足で蹴散らし、派手に部屋を飛び出した。自分の一挙一動をヒステリックだと思った。頭ではそう冷静に考えられるのに、心は暴走する。部屋着のまま、マンションの廊下に飛び出した。階段を全速力で駆け下りる。慌てた透が追い掛けてくる ── こともない。都会の喧騒が遠く聞こえる冬の夜に、階段をパタパタと駆け下りる足音だけが響く。



 ── 泣きそう、いや……泣いてるし



 透のことを意気地なしだと心の中で罵った。馬鹿野郎、僕を好きだと言ったのに。全然「僕」を好きじゃないじゃないか。それと同時に、自信過剰で、傲慢な自分に絶望した。だって僕は、透から紡がれるであろう否定と愛の言葉を心待ちにしていたんだから。透が急いで僕を抱き締めて、「どうしたの」と言ってくれるのを期待していたんだから。

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