Episode 3

 「ゆっくり休んでね」と微笑んで、静かに出て行った。扉の閉まった音が心臓に響く。胸の鼓動が速くなって、触れられたところが熱くて、それから ── 少し震えた唇が触れ合った瞬間を忘れられず、思考が絡まる。でも心のどこかで「嬉しい」と感じてしまう。あまりの恥ずかしさに毛布に顔を埋めた。

 透とキスをした。覆ることのない数分前の事実が、有を酷く高揚させた。


「と……る……とおる……ンッ ── 」


 名前を呼んだ。何度も呼んだ。息を殺して見つからないように、彼を求めた。彼の手で自分の有り余る熱を全て取り払ってほしい ── 彼の舌で ── 彼の ── そして有は気づいた。これは、呪いだ。透は有の身体に、彼を欲してしまう悲しい呪いを残して静かに去った。それは優しく、それでいて無慈悲な呪いだった。


「……こんなの……」


 自慰を終えて疲労に浸りながら、涙を流した。絶対に叶わない「透と番になりたい」という願いを、頭の隅からも追いやるように努力した。自分も透もアイドルだ、と言い聞かせた。有にはそれしかできなかった。

 有がオメガであることを知っているのは限られた人間だ。ファンも ── 芸能界も ── まだ知らない。アイドルである以上、知られたら何をされるか分からないからだ。それに現実リアルがあっても、ファンにはリアルを売らなければいけない。自分と透が番になるという「願い」は、天地がひっくり返っても有り得ないことなのだ。

 突如として襲ってくる眠気を受け入れて、少し休んだ。起き抜けには何か悲しい夢を見た気がしていたが、仕事に行くことを決めてからはすっかり忘れてしまった。


「ありあり……!」


 馴染みの店に顔を出すと、予想通り京本さんとメンバーが全員 ── 実際には有以外なので全員とは言えないが ── 揃っていた。有の突然の訪問に驚いた透がガタリと立ち上がると、テーブルの上の皿やジョッキが音を立て揺れた。慌てた様子で京本さんが抑える。


「有」


 振り返って有を見た藤嗣とうじが低い声で名前を呼ぶ。和泉澤藤嗣いずみさわとうじはリアライズの最年長で、年齢を明かさない方針だから有も他のメンバーも知らない。すごく若く見えるし、有は藤嗣のことを本当の兄のように慕っていた。その様子はよくファンの間でも話題になっていて、「なかいず」── 中野の「なか」と和泉澤の「いず」のペアを指すらしい ── と呼ばれている。


「藤嗣……! 藤嗣も来てたのか……!」


 最近ナレーションの仕事続きで忙しかった藤嗣に会えたことが嬉しくて、思わず背後から抱き締めた。「おお」と戸惑いながらも有を受け入れると、京本さんが微笑んで言う。


「中野……あんまり心配させてくれるなよ」


「本当にすみません、今後は気を付けます、京本さんにもスケジュール調整させてしまったと聞いて……」


 急いで頭を下げると、京本さんは顔を顰めて鬱陶しそうに手を振った。


「馬鹿、ちげーよ。この3日間、下手したらお前より透が死にそうだったんだぞ」


「ちょっ、京本さん何を」


 慌てふためき京本さんの口を武力行使で封じようとする透を見て、紀彦が笑った。


「西田はホンマに死にそうやったなァ」


 紀彦の金髪が楽しそうに揺れる。黒縁眼鏡をクイッと上げて言葉を続けた。


「でも西田が心配するのも当たり前やと思うけどなァ、金魚すくいのポイを破れるギリギリまで使っとったんやろ、有は。元々いつかは破れてしまうものなんやから……」


 紀彦の言葉選びは、遊んでいるようでどこか的を得ている。「その例えはないだろ」と笑いながらも、その場にいた誰もが、有の体調はリアライズの今後にとって重大な問題なのだと認識させられる。自然と静かになった店内で、透が俯いた状態で口を開いた。


「誰か……アルファが、番になっちゃいけないんですか。有の」


 心臓を掴まれたようだった。「番」という言葉が突如として透の口から発されたことに期待が膨らむ。もしかしなくても、透は ── 駄目だと分かっていても、止まらない気持ちが加速する。表情に出ないように堪える。


「番は、アカンやろ」


 紀彦の言葉が脳にダイレクトに届いた。その言葉を皮切りに、京本さんも口を開く。


「番の存在自体は、別に構わない。アイドルだから駄目なんて言ってらんねーからな、有の場合は体調が大事だから」


 救われたような気持ちだった。アイドルだから番を作ってはいけない ── 今まで自分を押し込めていた理由がなくなったことに、少しの戸惑いと大きな感動を覚えた。だが、次の言葉が有をまた奈落の底に突き落とした。


「だが歯型が残るなら絶対反対だ」


「歯型」


 慣れない言葉を思わず反復した有に京本さんは「そ」と軽く頷いて、専門家気取りで説明を続ける。


「番を作る理由は、フェロモン分泌が収まるとかそういうアレだろ。それはオメガのうなじのところにアルファがこう……歯型をね、それがどうやら、分泌腺に何らかの……とまぁ、つまるところ番を作る手段は駄目なんだよ。首にくっきり痕なんかあった日には、分かるだろ、中野の美しい身体はリアライズの宝なんだからな」


「そんなの……っ!」


 いきなり声を荒げた有に、その場が固まる。珍しい有の大きな声に口を大きく開けて驚く透 ── ギョッとしたように首を縮める紀彦 ── 落ち着いていた藤嗣は宥めようとするが、京本さんがそれを目で制した。今までにない真剣な顔だった。


「中野、お前が何を考えているのかは俺には分からん。でもな、言っておくが、お前はアイドルなんだからな! そこんとこ、忘れてんじゃねーぞ、お前が望んだことだろ」


 言葉に詰まった。というよりは、言葉を続けたところで自分が悲しくなるだけだった。



 ── 自分で選んだ道なのに



 ずっと「アイドル」であることを疎ましく思っていたことが、有を苦しめた。本当は、気持ちを伝える勇気がないだけの意気地なしだと気づいてしまった。自分のエゴイズムを呪った。今までの自分を否定も肯定もできず、「アイドル」であること ── 「オメガ」であること ── 透 ── 全てを持て余すばかりで、何もできない。


「……はい」


 振り絞った返事を聞いて、周囲がほっと息をついたのが分かった。透が何か言いかけたが、京本さんの陽気な言葉に遮られる。


「西田とノリは残れよ! 1ヶ月後の記念ライブの演出! そろそろ考えろ!」


 ワハハと笑いながら透の背中を平手でバシンと叩くこのマネージャーを、久しぶりに怖いと思った。店を出ようとして自分が何も飲み食いしていないことに気づいた。



 ── 5日は食べてない



 でも不思議と食べ物を求めない胃袋に安心した。今から何か食べでもしたら、不安で吐いてしまいそうだ。外に出ると、11月中旬だというのにうっすらと雪が降っていた。寒さに身を縮めて歩き出そうとすると、後ろから誰かに手を引かれた。


「……藤嗣」


 伏し目がちに名前を呼ぶと、両手を掴まれた。反射的に引っ込めようとしても、藤嗣の力強い掌にしっかりと包み込まれて離れられない。藤嗣が何か大切な ── とにかく何かを伝えたいのだと分かって、抵抗する力を緩めると、藤嗣は囁くように訊いた。


「有は、何を、悩んでる」


 不安げな瞳で有を見下ろす藤嗣に、自分が透けて消えかけているような気持ちになる。


「え?」


「有が何に悩んでいるのか……分からないんだ、俺には。オメガであることに悩んでるんじゃないんだろう? だったらアイドルであることに? でもお前がリアライズを大事に思ってることくらい……誰にだって ── 」


「藤嗣」


 思わず言葉を遮る。こんなに自分が筒抜けになっていると分からずに、押し留めた気になっていたさっきまでの自分を、馬鹿だと思った。じきに、京本さんにも ── 視聴者にも ── 透にも。怖くなって足が竦んだ。震える声で願いを口にした。


「今日……泊めてくれないかな……」


 自分の中身が全部、溢れそうだった。

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