Episode 2
この世界には、決して覆ることのない優劣が存在する。アルファ 【 α 】 ── ベータ 【 β 】 ── オメガ 【 Ω 】 から成る絶対的な階級のピラミッド。
アルファはとても優秀で、誕生する家系も含め将来が約束された支配階級だ。
中間層という面でも、能力においても、極めて通常と言えるのがベータ。人々の大多数をこの性が占めている。
そして、下位層のオメガ。圧倒的少数 ── 能力も劣っており ── 発情期が存在する ── 下等だと忌み嫌われ、社会的に冷遇される性である。
オメガは主に発情期に入るとフェロモンを分泌する。それはパートナーを持たないアルファやベータを無差別に誘惑し、
だから僕は、オメガの星になりたかった。
酷く滑稽な悪夢を見た。
曲がり角を進んで、どこか知らない家に着く。いくらインターホンを押しても、家主が玄関に出てくる頃にはまた同じ曲がり角に立っている。家主 ── よく見えなかったが有には透に見えた ── は、幾度となく訪れる目に見えない訪問者に心底、苛立っているようだった。「僕だよ」と叫びたくても、声が出なかった。傍から見ると喜劇のようなその光景でも、今の有にとっては紛れもなく悪夢に違いなかった。
耳鳴りがして目を開けた。いつもの寝室。抜け落ちていた記憶の破片がカチリと音を立てはまった。俺は、
急いで起き上がろうとすると、頭が錘のように重たかった。無理に立ち上がろうとした途端、鈍器に頭を殴られたような痛みが襲ってその場に音を立て崩れ落ちた。頭蓋骨が痛みと共鳴しているような、酷い頭痛。心なしか呼吸も落ち着かない。床に打ちひしがれて痛みに耐えていると、慌てた足音が寝室の扉を開けた。
「ありありっ……! 何やってんの……!」
高い背丈 ── 明るい茶髪 ── 見慣れた姿は有を安心させる。なんでいるんだろう。透はすかさず有の脇の下に手を入れて軽く持ち上げると、ベッドに連れ戻した。
「まだ寝てないと」
「今……何時……」
譫言のように口走ると、透は口に人差し指を当て「しーっ」と微笑んだ。美形だな、と思った。僕を「容姿端麗」と言うのであればきっと、透は言葉に表せないくらい美形だ。
「仕事のことは、気にしないで。ありありには休む権利があるんだから」
「でも……」
「今日の仕事は代わりにノリが行ってくれたから、安心して。眠った方が ── 」
「今日……? 今日の仕事……? 僕、オフだと、思って」
そこまで話して、荒くなっていた呼吸が自分の知らないリズムに急変した。ゴホゴホと咳をすると、透が慌てた。
「ありあり……っ!」
有の背中をさすって、「よしよし」と呟くと、ゆっくりと話し始める。
「ありあり……あの日から3日間ずっと眠ってたんだよ……眠り姫みたいに」
「!」
呼吸と一緒に落ち着いてきた思考が、ぐるぐると回り出す。発情期のこと、抑制剤のこと、それから仕事のこと。仕事に穴を空けたことがしっかりと理解できた。
「ノリ」というのは、
まさか自分が丸3日も眠るとは思っていなかった。確かに今までにない服用量だった。でも、起きたらきっと仕事に行く時間になるくらいだろうと思っていた。有はそういうところは上手くできていた。自分がしなければならないことをミスしたことはなかった。
「そんな……」
「ありあり、大丈夫?」
優しく心配した顔を見せる透をよそに、有の思考は良くない方向へと傾いていった。俺がオメガじゃなかったら、こんなことにはならなかった。俺は「できる」のに、どうしてそれが「できない」んだろう。それがアルファとオメガの違いだと言われてしまったら、それまでだ。オメガであることに意味を見出していたはずのに、こんな思考になること自体が有を焦燥に追いやった。どうする、このままではみんなとステージに立てなくなってしまう。どうする、どうしよう、嫌だ。
「有」
低く鎖骨の奥に響くような声が、有を揺さぶった。はっとして顔を上げると、背の高い透が屈むこともせず、まっすぐに有を見下ろしていた。「ありあり」ではなく、「有」。怒っている、と直感が告げた。
「どうしてこんなことしたの」
透の手には、銀のシート。薬が包装してあるはずのその全てが、汚く開けられて空になっていた。紛れもなく有がやったことだ。思わず俯くと、透は手の中のそれを音を立て握り潰した。次第に語気も強まる。
「ありありの薬がまだ切れる時期じゃないことくらい、覚えてるよ。俺はアルファなんだから」
胸が、痛い。
「ありありは抑制剤が合わない体質ってことも、ちゃんと分かってるし、仕事に影響させたくなかった気持ちも、分かってるつもりではいるんだけど ── 」
結論に向けて加速していく彼の声が、怒りながらも優しさに溢れていることが有を悲しい気持ちにさせた。彼は膝を折ると、有の袖口を引き寄せて手を握った。驚いて顔を上げたが、透は目を合わせてくれなかった。
「夜中に帰ったら、部屋が明るくて。起きてるのかなと思ったら……ありありの手すごい熱くて……でも眠ってるし……」
啜り泣くように話す透に、亡くなった母親と同じものを感じた。自分が守ろうとしていた人は、知らない間に自分のことを守ってくれていた。守られていたのは僕の方だった。そんなことも分からないで、僕はなんて馬鹿なんだろう。
「怖かった」
死んじゃったらどうしようと思った、と蚊の鳴くような声で続けた。透をとても儚いものに感じた。きっといつかこの人は、僕から離れていくのだろうと思った。あの ── 夢みたいに。
「透、ごめん。ごめんな」
有の透の柔らかい髪を撫で、指先で少し梳かした。癖のある毛が美しかった。
「もう……大丈夫だから……」
透は有から離れようとしない。
「透」
名前を呼ぶと、目が合った。明るい茶髪に似合わない漆黒の瞳がぐらりと揺れた。彼の瞳に映るシルエットが別人になる日 ── 手を伸ばせば届く距離が離れていく日 ── 想像して涙が浮かぶ。今日の自分は、人と接するには少し感情的すぎる。
「独りにしてくれないかな」
上手く笑えている気がしなかった。貼り付けたような笑顔を見たはずなのに、いつもなら何か言ってきそうなのに、今日の透は何も言わなかった。その代わり、少しだけ寂しそうな顔をした気がした。
秒針が刻むように、僕らの間の時間は流れていく。ゆっくりと距離が縮まっていく。本当はきっと、ほんの一瞬のこと。でもそれは僕にとって、柔らかなビロードに指でなだらかな曲線を描くような忘れられない感覚。そして ── 熱の籠もる吐息。
その日、初めてのキスをした。
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