幻想即興曲

 すると、さっきまでそれしか聞こえなかった車輪の音の中に、何やら軽やかな音が混じっていることに気がつく。次第にそれは大きくなって、しまいには車内は完全にその音で満たされた。ピアノの音だ。なんの曲だったか、たしか一度弾いたことのある曲だったけれど、もう遠い昔のことで、題名はわすれてしまった。

「即興曲第四番。嬰ハ短調。」

唐突に隣から少女の声がし、振り返る。たしかに空席だったはずのそこに、いつのまにか柔らかそうな髪をちょこんと二つに結った、小学生くらいの少女が座っていた。いろいろなことが起こりすぎて、本能が夢だと割り切ったのだろうか。自分でも驚くほどに私は落ち着いていた。少女を目にして私が一番最初に思ったのは、こんな時間に小学生が外を出歩いていていいのか、ということだった。

「どうして、こんな時間にひとりで電車に乗っているの。」

そう尋ねる私を、少女は首をかしげてそのきれいな瞳で見つめると、ぷいとそっぽを向いた。どうやら質問はなかったことにされたらしい。まだ床につかない足をぶらぶらさせながら少女は言葉を続ける。

「これ、私が弾いてるんだよ。ピアノ弾くの、好きなの。」

今度は私が首をかしげる番だった。しかしそれでも、楽しそうに目を閉じてピアノの音に耳を傾ける少女の横顔を見ていると、なぜだかまあいいかと思えてしまうのが不思議だった。しばらくの間そうして少女と一緒に地下鉄に揺られていると、ふいに流れていた曲がーーそう、即興曲第四番、嬰ハ短調が静かに終わった。そしてそれとともにアナウンスがかかる。

「まもなく、停車いたします。お忘れ物にご注意ください。」

電光掲示板は一貫して黒い画面を映し出すばかりだ。一体どこに停車するというのだろう。

 ゆっくりと車体が止まり、プシュゥッという空気音とともに扉が開く。開いた扉に身を乗り出してホームを確認するが、駅名の表示された看板などは見当たらない。するとまた軽快なピアノの旋律が遠くに聞こえてくる。今度は向こう側のホームに停車している電車からのようだ。ふと隣を見ると先程まで楽しげに足をぶらつかせていた少女の顔はうかない表情でこわばっていた。どうしたの、と声をかけようとした瞬間にはっとする。その唇はきゅっと噛み締められ、くすみのないその瞳はどこか一点を見つめていた。この少女は泣くのを我慢しているのだ、と気づいた瞬間、かけようとした言葉は喉元で消えた。

「ピアノ、好きなの。」

そう小さくつぶやいた声は震えていた。出発を知らせるベルが鳴る。そういえば私もピアノが好きだったな、と思った。こんなでも小さな頃は周りよりも少しばかり上手に弾けて、得意気になっていた時期もあったのだ。うつむく少女の小さなつむじになぜだかそんな昔のことを思い出す。私は見ていられなくなって、反対側のホームの電車を焦点の向こうに捉えながらこう言った。

「降りなくていいの。」

ドアが閉まります、ご注意ください、というアナウンスがかかり、また気の抜けた空気音とともにドアが閉まった。少女は今一体どんな顔をしているのだろう、と隣に目を向けると、そこに少女の姿はもうなかった。少女の座っていた座席を思わず手でなぞる。しかしそこには、ただざらりとした感触のオレンジの座席があるだけだった。

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