ありがとう、僕の奥さん

 幼い頃から僕、ジョスラン・キニャールは病弱だった。

 今も健康体であると胸を張っては言えないくらいの、病弱一歩手前……、否、三歩程は手前であると信じていたい程度の健康を有していた。

 運動は苦手で、馬に乗れば翌日ではなく、馬から降りた直後から足の震えが止まらず、季節の変わり目には必ずと言っていいほど体調を崩し、それ故に外出も少なく陽の光が当たらない肌は青白く、運動量が少ないため小食で、と不健康への連鎖が続いている。

 僕の母も同じ様に体が弱かった。妊娠も出産も危ぶまれるほどには病弱だったそうだ。

 僕はそれを後から――母の葬儀が終わって随分経ってから――聞かされて驚いた。

 記憶に残っている母はいつでもやさしく笑って僕に接してくれて、寝込んでいる姿など見た事がなかったからだ。

 自分に似たせいで僕も病弱になってしまった、と母は嘆いていたらしい。

 そんな母はどうにかして死神の目を誤魔化せないかと、僕に女の子の恰好をさせた。今でもよく見られる風習だ。

 その甲斐あってか、僕は今も生きている。

 母は死神が魂を容易に刈り取れなくなると言われている七つまで生きたボクに安心したのも束の間、緊張の糸が切れたように倒れ、そのまま御空へと旅立った。

 七つになり、母も死に、もう女装をする必要がなくなったのにもかかわらず女装を続けたのは、母が選んでくれたドレスを手放したくなかったのと、鏡の中に母の面影を見つけたからだった。

 よく似てはいたけれど、わずかに違っていた髪の色からも、目の色からも目を逸らして、女装を続けていた。死んだ母が生きていたらこんなドレスを着ただろうか、こんなアクセサリーを身に着けただろうか、と想像して。

 僕を不憫に思った父は止めることなく、口の固い執事に協力するよう言い含めてくれさえした。

 成長するにつれ背は伸び、母とかけ離れていく容姿に嫌気がさした。それなのに体の線は細いまま、体も弱いままだった。

 結婚相手にレベッカを選んだ理由は候補の中で一番僕と背丈が近かったからだ。

 あとは家族との折り合いが悪いところも理由のひとつだ。万が一女装が彼女に露見しても、キニャール家から追い出すぞと脅せば口を噤んでくれるだろうと考えた。実家に帰りたくなければ黙っていろ、と。それでも実際にレベッカに女装を見られた時には気絶するかと思うくらいに心臓が暴れたのだが。

 気持ち悪いと罵倒されるか、距離を取られるか、はたまた弱味を握ったと強請ゆすられるか。

 戦々恐々としていた時間はすぐさま終わりを迎えた。

 レベッカは予想外な事に、協力を申し出てきたのだった。

 レベッカは肌の手入れの仕方や、アクセサリーや服の選び方など、自分の知識を惜しげもなく使って僕に似合う女装を提案してくれた。

 女装を続けていた理由を話しても、「それほどまでにお母様がお好きであったということでしょう」と慰めてくれた。「家族を亡くす悲しさはよくわかります」と共感してくれた。

 そう言ってくれたレベッカに抱き締められ、頭を撫でられ、情けない話だが僕は泣いた。

 レベッカは泣いてぐちゃぐちゃになった僕の顔を見て小さく笑い、やさしく涙を拭ってくれた。

 年上の男が年下の女性にとんだ醜態を晒した事に気付いたのは、泣き疲れてそのまま眠り、翌朝に目を覚ましてからだった。

 己の醜態に恥じ入り、頭を抱えて悶える僕をやはりやさしく宥めてくれたレベッカはくすくすと少女のように笑い、「大丈夫ですよ。お母様譲りの美貌にはひとかけらの曇りもありません」と少し外れた助け船を出してくれた。この時に僕はレベッカがたったの十八であったことを思い出した。

 初めてレベッカと同衾してしまったと思い至ったのは就業中のことで、直後に書類を書き直すはめになった。誓って、彼女に不埒な真似はしていない。夫婦であるのにそれもどうかと思うが。

 レベッカは僕の女装を手伝うようになってから表情が明るくなった。

 お茶会で女装に有用な情報を手に入れたとホクホク顔で報告してくれるし、買い物にも付き合ってくれる。

 食事もできるだけ一緒に取るようになった。夜は仲の良い姉妹のように髪を梳かしあったり、ハンドクリームを塗ってもらったり、スキンケアまでしてくれる力の入れようだ。

 その日あったことを話しながら同じベッドで眠るのが日常になりつつある。二回目だが、誓って彼女に不埒な真似はしていない。

 しかし、しかしだ。

 夫婦なのだから、色っぽい出来事のいの字くらいはあってもいいのではないだろうか。

 始めのころは家族以外にできた初めての理解者の登場に喜んで、なんの疑問も抱かなかったが、今の状況は若い夫婦として健全とは言い辛いのではないだろうか。

 そもそもの始まりが政略結婚だったのに何を今更、とも思う。

 けれど、毎日レベッカと顔を合わせて言葉を交わしているのに情が湧かないはずがない。いつでも僕に微笑みかけてくれるレベッカに心を動かされないはずがないのだ。

 何くれとなく協力をしてくれているのだから、嫌われていないことはわかる。好かれているだろう、とも思う。

 けれどそれが男として好かれているかどうかはわからない。

 なぜならレベッカの厚意に甘えた結果、今では彼女と過ごすほとんどの時間を女装で過ごしているからだ。

 これは大丈夫だろうか。もしや男として意識されていないのでは? 普段の一人称が私だからダメなのか? でも昔から使ってる僕もちょっと子どもっぽいし、思い切って俺、とか儂、とか使うべき?

 体といっしょであまり丈夫ではない胃のある箇所を押さえながら、僕はうめいた。

 傍に控えていた執事のエミールは僕をちらりと見ただけで、騒ぐことなく静かにお茶の用意を勧めた。なぜならいつものことだったので。お茶はもちろん鎮痛効果のあるものだ。

 エミールの淹れてくれたお茶で胃の痛みを和らげていると、軽やかな足音が聞こえてきた。

 この足音はレベッカだ。レベッカは足音までかわいらしい。

 控えめなノックの後に扉が開く。


「失礼します、少々お時間を取らせていただいてよろしいでしょうか」

「ああ、もちろん構わないよレベッカ」


 いつもより頬が赤く、興奮した様子のレベッカが僕のほうへずんずんと歩み寄ってくる。

 心の距離もこれくらいわかり易くなればなあ、とぼんやり考えていた僕にレベッカは一通の封筒を差し出してきた。

 宛名はない。が、封筒には見覚えはあるけれど、そうそうお目にかかれない封蝋印がその存在を主張していた。


「これは……」

「そうです。アドリエンヌ様からの招待状です!」


 アドリエンヌ様は現国王の妃、つまりは王妃であらせられる。いつの間にこんな方と縁を結んだのだろう。

 驚く僕にレベッカは楽し気に言葉を続ける。


「さあ準備をいたしましょう!」


 招待状には仮装舞踏会と書かれていた。


***


 バルナベ・デジールはワイングラスを回しながら会場を物色していた。

 今日は王妃が主催した仮装舞踏会で、誰も彼もが煌びやかな仮装に身を包んでいる。

 大抵の人間が仮装ついでに仮面をつけているので、顔もわからない者が多い。中には魔術まで使って自身の見目ばかりか、声すら変えている者もいるようだ。

 バルナベはそこまでの手間も金もかける気はなかったのでただの仮装だ。

 バルナベの仮装は古典の『海賊バロン』の主人公で、色男の自分にはぴったりだと自画自賛している。

 仮面舞踏会の要素も混じったこの会場では無礼講、つまりは身分などに関係なく一夜だけの関係を築けるということでもある。あちらこちらの物影で一夜の恋を楽しむ男女の姿が見える。

 バルナベもそのおこぼれにあずかろうとこれは、と目をつけたご婦人に声をかけた。

 後ろ姿でも美女だとわかる線のほっそりとしたご婦人だった。長身のバルナベよりもほんの少し低い背丈で、よほど高いヒールをはいているらしかった。


「今晩は、お嬢さん。良い夜ですね」


 バルナベの声に肩をはねさせ、振り向いたのは思った通りの美女だった。扇子で口元を隠す所作さえ美しい。

 蝋燭の光に反射する黒曜石のような髪がゆるりと流れた。

 その美しい髪を思わず手に取ろうとしたが、触れることは叶わなかった。

 困惑の表情を浮かべた夫人にバルナベは努めて人の好さそうな笑みを浮かべる。


「失礼。貴女の髪があまりにも美しかったものでつい手が伸びてしまいました。

 よろしければ私と少しお話でも。ワインをどうぞ」


 一夜限りの関係にするのはもったいない。名前を聞いておきたいぐらいだが、この会場でそれはルール違反だ。ぐっとこらえてワインを贈ったが、失敗した。

 美女は首を横に振る。

 美女の仮面の奥の瞳はゆらゆらと揺らめいていて、満天の星空の下、海にこぎ出したような心地であった。


「ワインはお嫌いですか? ではシャンパンは? 甘いもののほうが良いですか? あちらに美味しそうなデザートがありますよ」


 バルナベの言葉に美女は首を振るばかりで肯こうとはしない。

 バルナベはめげずに話しかけ続けた。


「素敵な髪色ですね。まるで夜の女神だ。髪型も貴女にとてもよく似合っていますよ。リボンも髪留めも貴女の魅力を十二分に引き出している。その黒い衣装は戦神イヅチに嫁いだ女神ルースですか? それとも妹神のイズナかな。異国情緒に溢れた素晴らしい衣装だ。貴女以上に似合う者などこの場にはいないでしょう」


 バルナベが臆面もなく誉め言葉を捧げると、美女は顔を扇子で完全に隠してしまい、か弱く肩を震わせている。


 ああなんて初心な反応だろう! この美女は誉め言葉に慣れていないのだな――


 微笑ましさから頬を緩めたバルナベの後ろから声が聞こえた。


「お待たせいたしました、旦那様!」


 だんなさま?


 バルナベは声の聞こえた己の背後を振り返る。

 綺羅綺羅しい美丈夫がバルナベに近付いて来ていた。

 髪を撫でつけ、一分の隙もなく白を基調とした軍服を着こなすその美丈夫はバルナベに笑いかけた――のではなく、バルナベの後ろにいた美女に笑いかけた。


「あちこちで知人に引き留められてしまって、遅くなりました。申し訳ございません、旦那様」


 バルナベを素通りして美女に声をかける美丈夫の声は女性のものだった。どこからどう聞いても女性のものだった。

 ギ、ギ、ギ、と錆びついた歯車のようにバルナベは首を巡らせる。

 女性が旦那様、と呼ぶならつまりそれは。


「いや、ちっとも待ってないよ、大丈夫……」


 バルナベの目の前にいた美女の口から発せられた声は紛れもなく男のものだった。それも、自分が知っている男の。


「僕も知人と話していたからね。暇を持て余していたという訳でもなかったよ」


 一瞬だけ美女と――ジョスランライバルと目が合ったが、バルナベはすぐに逸らした。

 ショックのあまり挨拶もせずにふらふらと頼りなく歩き出す。


 美女が男……。しかもライバル……。ウソだろ……。


 この夜、バルナベは寝込んだ。


***


「あの方、大丈夫でしょうか。あんなにふらふらとして。よほどお酒をお召しになったのですね」

「うん……まあ……そうなんだろうね……」


 レベッカに曖昧な返事をして、僕は心の中でバルナベに同情した。なにかと僕を目の敵にしてくるやつだったが、さすがにこれはかわいそうだった。


「ふふ、あの方には良い薬になったのではなくて? たまには弄ばれる側の気持ちを思い知れば良いのです」


 バルナベの背中を面白げに追っていた上品に笑う美女に僕は礼を執る。彼の素行は広く知れ渡っているようだ。


「お義兄にい様」

「いいのよ、楽にしてちょうだい。ここには王妃なんていないのだもの、ね?」


 後半だけは囁くようにして落とされる。

 レベッカにお義兄様と呼ばれた美女はレベッカと同じように男装をしていた。レベッカに聞いたところによると、戦神イヅチの仮装であるらしい。

 白を基調としたレベッカとは反対に、黒を基調とした軍服のところどころに女神ルースの白が入っている。王妃の姿勢の良さとも相まって、凛とした佇まいであった。

 今日の僕は戦神イヅチの妹神イズナの仮装をしているのだが、まさか王妃様がイズナ役ぼくの兄役だとは思わなかった。

 ちなみに、レベッカは妹神イズナの夫である男神ルーフェンの仮装である。二人とも役になりきっているようだ。


「恐れ多いのだけれど、今日だけはイヅチ様になりきろうと思って。貴方のこともイズナと呼ばせてもらうわ、ドレスがよく似あっていてよ、イズナ」

「は、はい、ありがとうございます、イヅチ様」

「うふふ、兄妹なのに様はいらないわ。気軽にお兄様と呼んでちょうだいな」

「は、はい……お兄様」


 戦神イヅチの仮装をした王妃は周囲から羨望の眼差しを集めていた。特に女性が多く、みな一様にうっとりと王妃をながめている。

 ジョスランは恐る恐る、そろそろと王妃イヅチの後方に目を向けた。

 王妃よりも背丈と横幅のあるルースの姿があった。王妃と同じく、恐ろしい程に背筋を伸ばし、威風堂々とそこに立っている。戦神イヅチ、その妹神のイズナ、その夫のルーフェンがいるのだから、ルーフェンの姉神であり、イヅチの妻である豊穣の女神ルースがいるのは当然といえよう。

 髪色はもとのままだが、おそらくは付け毛なのだろう。肩を超えた長さになっていた。女神ルースらしい繊細な飾りで髪を彩っている。ドレスもまた白を基調に様々な色の糸が使われ、豊穣の女神らしいドレスに仕上がっている。

 ドレスの上のその顔は。首から上は、威厳溢れる王のものだ。

 実は密かに髭を剃られてしまったのでは、と危惧していたが、そのままだった。よかった。ドレスに髭はどうなのだろうとは思わなくもないが。


「………」

「………」


 妻たちが仲良くお喋りに興じているので、残された夫達で会話をするのが自然なのだが、いったいなんと声をかけるべきなのか僕は迷っていた。

 無礼講とはいえ、下手なことを言えばうっかり不敬罪になりかねない。


「ええと、その……素敵なドレスですね」


 お似合いです、とは言えなかった。ミスマッチという意味合いでは正しいのだが。


「……君はよく似合っているな」

「お褒めに与り光栄です……」


 ちなみにだが、視線を集める王妃とは違い、王の方は皆から遠巻きにされ、視線も逸らされていた。


***


 仲睦まじい妻達は妖精や姫などに仮装した令嬢達に囲まれ、賑やかに過ごしている。

 そんな彼女達に放っておかれている夫、恋人、婚約者達は所在なさげにそれを眺めていたが、ようやく同じ境遇の人間同士で話を弾ませ始めた。

 ジョスランと王も話が弾んでいた。


「それでですね、庭師に聞いて彼女の好きだという花を贈ったのですが、反応は芳しくなく……。アクセサリーやドレスを贈っても同じで……」

「ふうむ」

「元々が政略結婚なのですから仕方ないとはいえ、その、……少しさみしく感じてしまい……。けして仲は悪くないのですが男として意識されていないように思うのです。二人きりの時に私を見つめる妻の目は熱心だけれど、女性が男に向けるものではないような……。どちらかといえば美術品に向けるような視線でしょうか」

「なるほど。たしかに君は線が細い。顔も綺麗だ。偶像アイドル化されているのかもしれんな。今夜の君の美しさなら奥方の気持ちもわかる気がする。

 こちらも生身の男であると理解してもらう必要がありそうだな。どうだ、髭を伸ばしてみては」

「伸ばしてみようと思ったこともあるのですが、毎日丹念に手入れをしてくれる妻には言い出し辛く……」

「なにそれうらやましい」

「え?」

「いや、何でもない。体質的に筋肉を増やす事も難しいとなるとやはり直接愛の言葉を伝えてみるのはどうだ? 恋文とかな。

 何を隠そうワシも熱烈なラヴ・レターで妻のハートをゲットしたのだ」

「! そうなのですね! 試してみたいと思います!」


 ジョスランから向けられる尊敬の眼差しに気を良くした王は上機嫌にワインを呷った。

 ジョスランはあまり酒に強くないのでワインに見えるが、中身は葡萄ジュースだ。


陛下ルースはお酒にも強いのですね。羨ましいです」

「ん? そうか? がっはっはっはっ。酒は飲めば飲むほど強くなるからな! デュモンめも潰してやったわい!

 我がルースの義妹ならばお前も飲めんとな! ほれ、飲め飲め!」

「は、はい……!」


 飲めば強くなれるのか……!


 と希望を胸にジョスランは渡されたワインを飲んだ。


***


「ううう……きもちわるい……」


 慣れない酒精を一度に大量に摂取したことで、僕は見事に気絶した。騒ぎになったそうだが、もちろん記憶にはない。気付けば馬車に揺られ、館への帰路を辿っていた。

 胸は不快に鼓動を打っているし、むかむかする。頭もまともに回らない。レベッカが心配そうな声音で何回か話しかけてくれたのだけれど、答える気がまったく起こらず呻き声が返事になってしまった。

 館についてベッドに寝かされても気分は良くならない。悪くならないのが救いだ。


「大丈夫ですか、旦那様」


 心配そうなレベッカが水を飲ませてくれた。


「うぅ~~……」

「エミールの話では時間が経てばよくなるそうです」

「うう……」


 まだまともに返事ができない。汗は出ているのに、ひどく寒い。


「コルセットがきつすぎたのかもしれません。申し訳ございませんでした、旦那様」


 なんとか首を振る。

 コルセットはきつすぎるということはなかった。世の女性はまともに食事が取れないほどに締め付けるのだと教わり、尊敬の念しか湧かなかった。

 今回は調子にのって飲めないものを飲んだ僕が全面的に悪い。だというのにレベッカは心配そうな顔をしたまま背をさすってくれる。

 館につくなり吐き、吐瀉物処理までさせてしまい申し訳ないのはこちらのほうだ。


「すまない、レベッカ……」

「慣れないお酒をお召しになったのですもの、仕方ありませんわ」


 レベッカがやさしすぎて涙が出そうだ。

 というか、出た。

 滲んだ涙をレベッカが細い指でそっと拭ってくれる。あれ、これ立場が逆では?

 逆のほうがいいなあ。レベッカが泣く状況とかちょっと想像できないけど。


「ありがとう、レベッカ」


 笑い返されてその笑顔に見惚れる。頬が熱くなった。


「よかった、顔色が戻ってきましたね。これならひと安心です」

「う、うん」


 僕の頬を撫でるレベッカの手がやさしい。水をもう一杯飲まされる。冷たい。

 その拍子に手が離れてしまった。当たり前だけど、さみしい。


「旦那様?」


 離れてしまったレベッカの手を握るとレベッカの瞳がまあるく瞬いた。かわいい。


「いつもありがとう。今日もすごく楽しかった」

「それはようございました。わたくしも楽しかったですわ」

 ……ええと、旦那様、手を……」

「君がお嫁さんでよかった。本当によかった。僕は国一番、いいや、世界で一番の幸せ者だあ……」

「あ、ありがとうございます……。旦那様、もう一杯お水を飲みましょうか」

「うん。でもね、いつも気になっていたのだけど」

「はい、なんでしょうか」

「旦那様じゃなくて名前で呼んでほしいな」

「なっ、名前、ですか」

「うん」


 ほわほわと浮かれた頭にある言葉を口から出せば、レベッカは瞳を少しだけ見開いて、それから困ったように眉尻を下げた。そんなレベッカもかわいい。


「……ええと……」

「ダメかな……」

「いえっ、ダメという訳では」

「やっぱり政略結婚だから……」

「そういう訳では! ただ、その、緊張してしまって」

「きんちょう……。僕がうまく君の緊張を解けないから……」

「いいえそんなことは決して! 旦那様はわたくしなどにはもったいないくらいの方ですわ!」

「レベッカはやさしいなあ……うう……」

「ええと、もうお眠りになったほうがよろしいですわ、旦那様」

「ヤダ。なまえでよんでくれたらねる」

「………」


 耳まで赤くなったレベッカはかわいかった。それはもうかわいかった。王陛下には申し訳ないけど僕のお嫁さんが世界一かわいい。


「………ジョスラン、さま」


 恥ずかし気に僕を見るレベッカに満足して、僕はベッドに沈み込んだ。

 レベッカを引きずり込んで。


***


 早寝したおかげか、目覚めはすっきりとしていた。

 だが気分は最悪に近い。幸い二日酔いなどにはなっていないようだが、それだけに昨夜の失態がしっかり、はっきりと思い出せた。

 嫌がる彼女に名前呼びを強制するなんて恥を知れ!

 頭を抱えてのたうち回りたい。壁に頭を打ち付けたい。しかしそれは無理だった。そんなことはできない。

 なぜならすぐ隣でレベッカが寝ているから! 昨夜の自分は何を考えていたんだか!

 いかにしてレベッカに気付かれないようベッドから抜け出そうかと四苦八苦しているうちにレベッカが起きてしまった。

 とろんとした瞳と視線が絡む。かわいい。


「お、おはようレベッカ」

「おはよう、ございます……」


 寝起きでぼんやりとしているレベッカはふにゃふにゃと無防備に笑う。こんなレベッカは初めて見た。かわいい。

 ぼくのおくさんがこんなにもかわいい!

 拡声魔動機を持って国中に自慢したいくらいだ。

 僕が幸せに浸っていると、頭が覚醒しきったらしい。ぱちぱちと瞳を瞬かせて、いつものきりり、しっかりとした顔付きになる。


「すみません、不躾でした」


 そう言って慌てて距離を取ろうとするレベッカを思わず止めた。止めてどうする気なの、僕。


「えっと、不躾とかじゃぜんぜんないから。むしろ私のほうがよっぽど不躾だったし、その、昨日は無理矢理名前を呼ばせてしまってすまなかった。君が嫌なら呼ばなくてぜんぜん構わないし、それから酔っ払って迷惑かけたのもすまなかった。ゆ、許してもらえなくても仕方ないと思うけど、出て行ったりしないでもらえると、その……とても嬉しいです」


 恥ずかしさと嫌われるかもという恐怖でレベッカの顔を見られない。俯いたまま早口に言葉を吐き出す。


「君には感謝してるんだ。僕の女装を見ても気持ち悪がらずに接してくれて、その上手助けまでしてくれて、昨夜の仮装舞踏会で僕が笑いものにならなかったのは君のおかげだ。君と王妃陛下が男装していたのも、陛下が女装していたのも君の発案なんだろう? これで僕の女装が露見したとしても次の仮装の練習だとか、王陛下もやっていたのだから、と言い訳が立つ。陛下のおかげで女装男装が流行するだろうから、僕の女装が原因でキニャール家が潰される心配はなくなった。ありがとう。君には感謝してもしきれない」


 かってに視界が滲んできた。情けなく鼻をすする。かっこ悪いな、僕。まだ酔いが残ってるのかな。


「僕は君を利用しようと思ってたんだ。女装がバレても脅せばいいなんて最低な事を考えていたけど、君はそんな僕を助けてくれた。侮蔑しないでいてくれた。笑いかけてくれた。自分でも変だと思っていた女装ことを君は否定せずに受け入れてくれた。僕は君が思うよりもずっとずっと君に救われているんだ。

 だ、だから、その、これからも僕のそばにいてくれると、すごく嬉しい。けど、君が嫌なら無理にとは……!」


 白くほっそりとした指がそっと僕の口に触れて口を閉じさせた。レベッカの指だ。

 急な接触に驚いて顔を上げると、頬を朱に染めたレベッカと目があった。


「あの、ジョスラン様。は……はずかしいです……」


 なまえ よんで くれた 。


「ジョスラン様の名前を呼ぶことは慣れなくて、まだ恥ずかしいのですが、けれど嫌ではありません。

 ここを出て行ってもわたくしに行く当てはありませんし、置いて頂けるだけでありがたいことですのに、ジョスラン様がそれを望んでくださるというなら、それは喜び以外のなにものでもありません。

 昨夜のことだってそこまで気になさることはありませんわ。ふだんしっかりと気を張られているジョスラン様のかわいらしい一面を知れて役得と言っても良いぐらいです。

 感謝、だなんて。それはわたくしがしているものですわ。始まりがどんなものであったとしても構いません。わたくしを選んでくださってありがとうございます旦那様」


 僕は幸せ者だ。真実、そう思った。

 感動のままレベッカの両手を手に取った。喉の奥が痛む。目の奥が熱い。

 声を出せば嗚咽がもれて止まらなくなるに決まっていたので、口を引き結んだまま、頬を赤くするレベッカを見つめる。

 そんな僕に微笑み返した。少しだけ困ったようにも見える微笑みだった。


「それに、隠し事をしているのはわたくしも同じです。

 わたくしの母はジェラール家で使用人をしていたのです」


 なんでもないように、今日は晴れましたね、と言うかのごとく、レベッカは己の出生の秘密を告げた。

 一瞬。

 一瞬だけ呆けた僕はレベッカを抱きしめた。勢いが付きすぎてぶつけてしまった胸がわずかに痛む。レベッカは痛い思いをしていないといいのだけど。

 貴族が使用人に手をつけるのは不愉快だが、よくある話だ。認知や公表されていないだけで、落とし胤なんて探せばいくらでも出てくるのだろう。

 不当に解雇された使用人、手を出された女、身籠った女、産み落とされた子ども達。

 彼らの行く末は暗いものばかりだとは言わないが、決して明るいものばかりではない。

 もしかしたらレベッカとは会えなかった可能性だってあるのだ。それどころか、レベッカは死んでいたかもしれない。


「今まで黙っていて申し訳ありませんでいた。もし生まれが気になるようでしたら――」

「君と会えて良かった!」


 レベッカを抱きしめたまま、叫んだ。

 生まれを、血筋を気にして離縁したりされたり、なんて貴族間ではよくある話だ。だからその先は言わせない。


「ジョスラン様」

「君を結婚相手に選べて、本当に良かった!」


 声を出した拍子にやはり涙がこぼれてしまった。


「君が僕の側にいてくれるのが本当に嬉しい。嬉しいんだ、レベッカ」


 ぼろぼろと涙が落ちていく。レベッカの肩口に吸わせてしまう。冷たいだろうな。申し訳ない。


「他の誰でもない、君が、僕は好きなんだ。誰よりも愛しいと思ってる。僕の、奥さんになってください。僕と家族になってください」


 もらった助言をひと欠片だって生かせなかった。情けない僕は鼻をすすって、ようやくレベッカから体を離した。

 そうっと覗いたレベッカは泣いていた。


「レベッカ……?」

「うれしい、です。ジョスラン様」


 レベッカの涙を拭うと、レベッカも僕の涙を拭ってくれた。


「あたしもジョスラン様が好きです。ジョスラン様と出会えてよかった。

 きっとそれ以上の幸せなんてないと思っていたのに、もっと幸せになれるなんて思わなかった」


 涙に濡れた瞳がまるで朝日を受ける海のように輝いていた。それからレベッカはくすりと笑う。


「ジョスラン様、もうわたしはあなたの奥さんですし、家族ですよ」


 レベッカはよどみのない動作で僕の頬に口付ける。僕もお返しをレベッカの頬に贈った。


「うん、そうだね!

 ありがとう、僕の奥さん!」






「若旦那様、奥様、そろそろ朝食の時間ですが遅らせますか?」

「すぐ食べに行くよ!!!」

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