第23話 消えた絵画 Ⅱ

旦那様ももう一人のリチャードを持て余しているようだった。

地下からの退室時、僅かに見せた嫌悪と戸惑の表情を、此方もまた見逃さなかった。


親に対する皮肉めいた捨て台詞、感情の籠もらない物言いと態度


仮にも自身の片割れである“リチャード”を引き合いに脅すなど…心ある人間の所業とは思えない…


父として複雑な心境であった。

何方も可愛い息子であるのに違いない筈なのに、どうしてもあの”狼”を受け入れられない自分が居たのだ。自身も嘗ては只の野蛮な獣だったというのに。


人間の世界に関わり過ぎたのかも知れない…


けれど今更元には戻れないのだ。

獣であった頃になど…




無言で自室に引き上げた旦那様に朝食を持って行くと、ノックして部屋に入るなり、窓の外を眺めていた彼は振り向きもせずに唐突に発した。



「お前はアレを息子と思っているか」




「……はい。」



僅かばかり躊躇った事を多少恥じたものの、自身とてあれに会うのは初めて…いや、ああして個として対話した事は初めてだったのだ。


受け入れたくとも信じ難い事の戸惑いの方が勝ってしまった…


其処から出た“間”を、旦那様は問い詰める事無く。受け入れたのか、単に聞き漏らしたのか…彼は触れることなく続けた



 「リチャードが嘗て使用していた子供部屋を、ギルバートに描かせようと思っている。


 幼い頃過ごした場所を見れば、彼奴も少しは…母や友を想い、人間らしくなるのではないか…」



 其れは彼にしては珍しく自信のなさそうな、問いかける様な話し方だった。


 主人の心許な気な発言に、苦心して下さっているのだろうと思えば、此方もまた言葉少なに返した。



 「はい、宜しいかと存じます…」



 数日後、再び仕事を終えて戻ったジャックはギルバートを呼びつけると、子供部屋を案内した。


 其れから暫くの間、毎夜地下室を窺うも

 “もう一人のリチャード”は1度も姿を現さなかった。

その事が返って不気味に思えてならない…私は眠る事も侭ならず、夜は地下室で過ごす事が多くなっていた。


眠っている我が子を、椅子に腰掛けて眺めて過ごすだけの日々が続いた。




 そうした数日の後、彼は突然に現れた。



 夜半深く、今夜も何事も無いのだな、と察すれば、うつらうつらと微睡み掛けていた時の事…



 寝台の組みつぎがギシリと鳴った音に呼び起こされて視線を上げると、リチャードは長い脚を組んで座り此方を見ていた。


 その容貌は、白銀髪に毒々しい真赤い眼の“彼奴”

だった。

 此方が未だ寝ぼけた視線送っていると



 「やぁ親父殿。眠いならばどうぞゆっくり休んでいて?

 オレはその間に少し散歩にでも行かせて頂くよ…」



 地下室の鍵を狙って居るのだと察すると直ぐに警戒し


 「旦那様との約束だ。お前の安全が確認出来るまでは此処から出す事は出来ないと言った筈だが」



 「オレの事少しも信用していないあの人が、一体いつになったら出してくれると言うのさ?



 オレはもうねぇ、ウズウズしてるんですよ…


 もう成獣だ。一人でも生きていけるのに…」



 「お前が成獣だろうと、中のリチャードは未だほんの子供で人間なのだ。


 野に放つなど言語道断だ」



 応酬の最中、上階で微かな物音が聞こえたかと思えば、私より先にリチャードが反応した。


 声を潜めて居ると、リチャードは野生の狼の様に開いた眼でじっと扉を見据え、低い唸りを上げた。



 唸る獣に威嚇する様な眼差しで制すると、様子を見に階段を上がった。


 途端にパタパタと逃げ出す様な足音が聞こえ、旦那様では無いと察した。

 扉開ければ微かに残る絵具の香り。



 ギルバート…他の場所へ出歩く事を禁じていたと言うのに…



 然し未だ、リチャードを見られた訳ではない。

 明日は約束の絵画を仕上げる日だ。

 様子を窺い次第、旦那様に報告するとしよう…



 地下へ戻るとリチャードは

黒髪に戻り眠って居た。ほんの少し安堵すると、明日の事を思い多少滅入る気分に頭を振り、自身も今晩くらいは自室で少し休もうと、部屋を出た。




 翌日の昼過ぎ、屋根裏にギルバートを迎えに上がった。


 扉越しに声を掛けると“今伺います”との返事を聞き、書斎で待つと告げて旦那様の元へ戻った。



 ところがいつまでたっても来ない。


 旦那様は机に肘を突いたまま微動だにしないが、少し苛立ちの見える声音で



 「スミス、もう一度ギルバートを呼んでこい」


 と静かに言った。



 「…かしこまりました」



 迎えに行くと、ギルバートは屋根裏入口の階下で倒れていた。



 「…! ギル?!

 どうした、しっかりしろ!!」



 抱き起こすと彼は気を失っており、真っ青な顔色と異常な程熱い体温、今にも止まってしまいそうなか細い呼吸を必死に繰り返している状態だった。



 取り柄ず応接間のソファに寝かせると、旦那様に知らせた。


 目が覚めたら呼べとの事で、承知すると再び応接間に戻り、ギルバートの目覚めるのを待った。



 …只の奴隷の少年だ。


 思い入れなど何も無い…けれどどうしようもなく放って置けない気持ちになるのは、この少年がギルバートという名を授かったからだろうか?


 其れとも鼻腔を突く絵具の懐かしい匂いのせいだろうか…


 思考したところで詮無い事と思いながらも、何処かで理由を探して居たのかもしれない…


 この子を救っていい理由を。



 暫くしてギルバートが目覚めると、動転して起き上がろうと無茶をするのを制し、旦那様を呼びに行った。




 絵の事を尋ねられると“分からない”と言う。



 訝しむ旦那様、然し確かに書き上げたと言う彼は、嘘をついて居る風では無かった…



 項垂れてフラフラと覚束無い足取りで自室に戻る背を見送った。


私はと言えば、旦那様が持っていけと渡して下さった町で仕入れたと言う薬瓶を眺め、暫し思案した後、アトリエに向かった。



 アトリエには奥に隠し扉が有り、地下へ続く階段へ通じて居た。


 この先には嘗て友人に教えられた小部屋があって、旦那様は勿論此処の存在を知らない。


 石壁の真っ暗な階段を降り切ると、手持の洋燈に照らされて古めかしい木製の扉が現れた。




 錆びた蝶番が嫌な音を立てる重々しい扉開くと、其処は永らく主人を失っていた“魔女の薬品庫”だった。



 埃に塗れた薬棚には、様々風変わりな瓶に薬や薬草、何かの干乾びた黒い物体や鉱石らしき物が入っていた。


 入って直ぐ扉の影になる位置に小さな観音開きのチェストがあり、その中にある薬瓶を一つ取り出した。



 此れはどんな病もたちどころに治す薬だと聞き及んでいる。

 旧友の話のよるところではとても貴重なもので、嘗ての主人オリヴァー様も、クロエ様の生成した薬の中で、この薬だけは売り物にしなかったと言っていた程だ。


 残念な事に私はこの薬品庫にある薬についてはこの小瓶の物しか知識が無かった。



 貴重な物とは重々承知して居るが、彼のあの弱り切った姿を見て、これを持ち出すときなのでは無いかと悟った。




 薬を渡し翌朝様子を見に上ると、ギルバートは寝台に突っ伏す格好で倒れており、まさかと思い駆け寄り抱き起こすと、表情はすっかり和らいで、呼び掛けても起きぬ程深い眠りの中にいる様だった。



 あれだけの高熱も随分引いて、呼吸も静かである事を確認すれば、寝台に寝かして部屋を後にした。




 気掛かりな事があった。



 ギルバートは絵を描き上げたがそれが何処にも無いと…



 そう言えば、昨日はギルバートが倒れたせいもあり、深夜リチャードの部屋に行って居なかった事を思い出した。


 昨夜は気もそぞろに夕食を置いて部屋を出たきりだった事を思い、地下室へ向かった。



 扉に手を掛けてゾクリとした…





 …鍵は、どうしていた?


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