第20話 ある狼の物語Ⅹ

ぼく、狼なんだね…



小さく呟いたその声は、意志もなく発せられたようだ。まるで生気がないようにさえ感じられた。




嘆くに違いない。自分が人間ではないと告げられて、冷静で居られる者などいない。



「僕……知ってたよ…」




不意の言葉にフィリップは一瞬時が止まったようになり、声も出せずに“何故?”と、問う様な視線だけを向けた。

それと同時に何か既視感の様なものさえ過ぎり。





「夢だと思ってた…


眠っていた時、夢の中でずっと母さんの声が聞こえてきてた…母さんは、


ーお前のお父様は立派な、獣の王様なんだよ

って…だから、その血を受け継ぐ僕もまた尊い存在なんだって……


その血に恥じぬ様、誇りを持って生きなさい……って………


ねぇ父さん、母さんは…もしかして、もう……」



苦しげに視線を逸した父を見て、リチャードは暗黙の内に察したように項垂れた。




「やっぱりそうなんだね…だって、僕もうこんなに大人の身体になってしまったし…母さん、夢の中で言っていた、僕が目覚める時、自分はもう居ないだろう…って」




悲痛な沈黙の後フィリップはリチャードを、まるで幼子を抱きすくめる様に抱いて髪を撫でた




「すまない、リック……全て私のせいだ…」




それからリチャードは、積を切ったように泣きじゃくった。内に秘めたその幼い子供の侭にわんわんと声をあげて。




長く泣き続け、もう一体何が悲しくて泣いているのかさえ分からなくなるほどに…



リチャードは暫くするとまた、まるで螺子の止まったからくりの様に唐突にパタリと気を失った。フィリップはまだ涙の筋の残る彼の頬を優しく拭うと、そっとベッドに横たえた。





明日の朝、ジャックが屋敷へ帰ってくる。これをどう説明したものか…本来喜ぶべきはずの息子の目覚めは、彼の存在を思うと悩ましい問題となった……




「一体、どうすれば……」




リチャードの寝息の聞こえる静かな部屋で独りごちては、乱暴に頭を掻いて溜息をついた。




翌朝、屋敷を訪れたジャックは何時もの様に出迎えるフィリップに目もくれず、スタスタと書斎へ足を向けながら問うた



「俺の留守中何も変わりはないな?」





何時もならば直ぐに“はい”と返答するフィリップが押し黙ったまま後を着いてくるので、何かを察したジャックは突然行く先を例の地下室、リチャードを幽閉している部屋へ向けた。



フィリップは相変わらず何も言わない。




部屋へ辿り着くとその歩みの勢い緩めぬままに扉を開けて中へ入った。



部屋の中は相変わらず薄暗くジメジメとしているが、変わらぬ様子で寝息を立てるリチャードを見遣り、ジャックはふっと鼻で嘲笑零して




「驚かすな。狼が1匹目覚めたのかと思ったわ



…………?」





言った後に、足元に落ちた本と、倒れた椅子を見て





「何があった」





急にピリリとした空気に変わり、振り向きもしないのに、ジャックが警戒している事を悟れば、フィリップは、先日あった事実をありのままに告げた。





ジャックは暫く黙ったまま背中で話を聞いていたかと思うと、徐に寝台へ近付き眠っているリチャードの顔を覗き込んだ。




フィリップは伏し目がちに足下に視線を落とした。リチャードの目覚めた事を知って、ジャックが果たしてどう出るか……



思考の終わらぬ内にジャックは踵を返し




「書斎へ行く」




とだけ言うと部屋を出て行った。






ジャックの出た後、眠る我が子の顔一瞥すれば、フィリップもまた彼を追って部屋を出た。



気もそぞろで書斎を目指す足取りは重く、階段を上がる度、沼から足を引き上げるような重たい感覚だった。





書斎の扉は半開きにされたままだった。


扉の前で足を止めると、もう開きかけているそれに向かって、“失礼致します”と律儀に頭を下げてから中へ入った。




入ってすぐに書斎の机の後ろ、窓辺に立っているジャックを見付けた。

彼は先程からそうだった様に背を向けて窓の外を眺めているものだから、此方側からその表情を窺うことが出来ない。




机の近くまで歩み寄れば、“主人”の言葉の発せられるのを只待った。




 「…彼奴は、目覚めた時、如何だった。」




 「…自身の身体の成長に困惑していました…


 当時の記憶はほとんど無く、中身は5歳の子供のままでした…

 夢の中でメグから、自分は人狼の子であると聞いた…とも…



 母の死を知って泣きじゃくった後には、また深い眠りに…」





 「そうか、今日はもう下がっていい。彼奴が目覚めたら俺を呼べ。話がしたい。



 其れから、暫く此処に滞在する。表の馬車に一月後に迎えに来る様伝えておけ。」



 「はい、旦那様…」




 フィリップはジャックの食事の片付けなどの仕事を一頻り終えると、自室に戻る廊下を歩いていた。



 ふと、リチャードの眠る地下室の前を通り掛かると、カチャカチャと、何か金属の音が聞こえた。


 不審に思い階段を降りると、部屋のドアノブが音を立てて上下に動いていた。





 フィリップは懐から鍵を取り出すと扉を開けた。すると其処にはすっかり目の覚めたリチャードが



 「父さん!如何して鍵なんてかけてるの?僕、お外に出たい。」




 「…リック、此処は今あの頃と違ってもう、私達の自由にして良い屋敷じゃないんだよ…

今はジャック・スペンサー様という伯爵様が所有されていて、私達は其処に住まわせて頂いて居る身なんだ。

だから、あのお方のお許しがなければ外には出られない……


明日の朝旦那様にお会い出来るから、良い子にしておいで…」






「……わかった…」




そう言ってリチャードは肩を落とし、落胆した様子でベッドへ戻った。




「ねぇ父さん、今はまだ夜なの?僕、沢山眠っていたからちっとも眠くないよ」



「眠くなくても横になるんだよ、父さんも此処に居てやるから」





「うん…」





結局リチャードは一睡もせずに夜通し起きていた。

何しろ今まで20年以上眠っていたのだし、無理も無い事かもしれない。



翌朝フィリップは朝一番にジャックの書斎へ向かった。早朝にも関わらず彼も既に起きており、身支度を整えて居る所だった。


フィリップが部屋を訪ねるや、朝の挨拶も聞かずにすぐ様用を言い当てた。





「彼奴が目覚めたか、随分早い事で、好都合だな。地下へ行くぞ」




今度はフィリップが案内する形で先導し、地下室へ向かった。





扉を開けるとリチャードはベッドに腰掛けてぼんやりしていた




「…リッ…いや、リチャード、旦那様にご挨拶なさい。」




リチャードは父の呼び掛けにピクリと反応すると、我を取り戻したようにあたふたと立ち上がり二人の前へパタパタと駆けて来て





「だ、旦那様…っ……僕、僕はリチャード・スミスと申します……えと、どうぞ宜しくお願い申し上げます。」




辿々しい挨拶を終えると、リチャードはもじもじしながら、父と旦那様をチラチラと交互に盗み見た。



二人の大人が中々反応しないものだからもどかしそうにしている。

やがてジャックが一歩前に踏み出すと片手を差し出して




「俺はジャック・スペンサー伯爵、お前の母マーガレットの弟に中たる者だ。つまりお前の叔父だ。


叔父というのは知っているか?血縁の者ということだ。


つまり俺とお前は少なからず一族であると言えよう。」




「……はいっ」



リチャードは嬉しそうにジャックの手を取り握手を交した。

ジャックは表情こそ変えぬものの、瞳の奥には何処か暖かささえ見えるようだった。



フィリップは、あのジャックが、まさか息子に叔父であるなど名乗るはずも無いと思っていたものだから、大層驚いた。

嫌悪しているとさえ思っていた…だのに息子に向けられたその眼差しには、拒絶する様な悪意は感じられなかったのだ……




「リチャード」


旦那様が口を開いた




「今暫くお前には此処に住まってもらう。窮屈だろうが耐えて欲しい。父から聞き及んでいるだろうが、お前には半分狼の血が流れている。


安全が確認できるまでは堪えてくれ。後で書物を持たす。眠っていた間の知識を学ぶように。」





ジャックは言い終えると返事も聞かずに部屋を出た。


残されたフィリップは息子に向き直ると




「すまないな、リック。辛いだろうが堪えてくれ…」




「大丈夫だよ、父さん。僕頑張るね」




リチャードは前向きに勉学に勤しんだ。眠る間も惜しんで…というか、あの目覚めからリチャードは、まるで失った時を取り戻すとでもいうように、今度は一睡もする事無く過ごした。




それから暫くしたある日、旦那様が、屋敷に一人の奴隷を従えて帰ってきた…




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