第19話 ある狼の物語 Ⅸ
目を覚したリチャードはもう30歳になっていた。
そう、彼はあれ以来24年もの間眠り続けていたのだ。
彼が目を覚した時、フィリップはいつもの様に地下室のリチャードの部屋で椅子に掛けて本を読んで過ごしていた。
「…ん……?」
それはまるで、一晩の眠りから覚めたように余りに自然な動作だった。
フィリップは視界の端にのそりと起き上がるリチャードを見てあまりの驚きに、始めは声も出なかった。
24年も眠り続けていた彼は、陽の光を浴びていないせいか肌は血管が透けそうな程白い。
筋肉は殆ど付いていないし勿論食事もしていないので脂肪も殆ど無い。
ガリガリに痩せているのに何故か背ばかりが異様に高く、頭髪は覚醒の影響か、元の黒髪に混じって前髪の一房程だけが白銀色に染まっている。
眠っていてもボサボサと伸びる髪は、フィリップが定期的に切ってやっていたが、眠っている者の頭髪を切るのは容易では無いので、やはり彼の髪の毛はボサボサのままであった。
気怠げに起き上がった彼は寝ぼけ眼を擦ればフィリップの方へ向いた
「…父さん?おはよ……」
発せられたその声はすっかり大人のそれだった。
彼は自分の発した声に違和感を覚え、ふっと口元を押さえた。
今度はチラリと視線を落として自らの身体を見た。
「……?!…父さん?!何か僕おかしいよ!」
フィリップは動揺するリチャードを見てハッと我に返った。
「…お、落ち着けリック…!」
動揺する息子を宥めようと慌てて立ち上がった拍子に、座っていた椅子をガタン…と倒し、読んでいた本もバサリ…と床に落とし、けれどそんなものに構う心の余裕も無かった。
息子に落ち着けと正すも、己も十分に動揺しており、後の言葉がなかなか出てこない。
30歳の成人男性の体躯をしているのに中身は5歳の時から何も変わって居ない息子が、自分の身体に起きている不可思議な現象に怯え、父に助けを求めている。
しかし、24年も眠り続けた末に突然何の前触れも無く目覚めた息子に、父であるフィリップも、何処から如何説明したものかと戸惑うばかりだった。
リックは不安気に父の目を探るようにキョロキョロと視線泳がせた。
その瞳もやはり覚醒時のまま、本来人間ならおよそ黒や青である部分は見事に血のような赤に染まっていた。
「…リック、これから私が話す事を、落ち着いて聞くんだ。…いいな?」
フィリップは彼の両肩に手を置くと、その真赤な瞳を真っ直ぐに見詰め、ゆっくりと優しく、言い聞かせるように告げた。
父を見つめ返し、その静かな声に耳を澄ませばリックもまた落ち着いて、コクリと頷いた。
フィリップはリチャードにまず、眠りについた時の事を何か覚えているか?と尋ねた。
すると彼は暫く記憶を探る様に何か考えて、あの日を遡る様に目を伏せてポツポツと話始めた。
「…あの日は、夜怖い夢を見たんだ…
何か大きな生き物に追いかけられる夢で、何かは分からないんだけど、絵本で見たトロールみたいな、大きな影だったと思う…
其れで朝目が覚めてから、部屋が寒くてジャケットを取りにクロゼットを開けたら、部屋の外から足音が聞こえて来て…夢の中のバケモノが、僕を捕まえに来たんだ…
だから僕、怖くなってクロゼットに隠れたんだ。そしたら部屋の中に其れが入って来て…
僕の隠れて居たクロゼットを開いて…
其処から先はよく覚えて居ない…
とにかく怖くて身体が熱くて…あ、そうだ!」
何かを思い出した様に顔を上げると、リチャードは自身の左腕を見た。
一頻り調べ終えるとホッとした様になり
「なんだ、やっぱり僕夢を見てたみたいだ。」
「左腕が、如何したんだ?」
フィリップは、覚醒の事を思い出したのではないかと思い、神妙な様子で訊ねた。
「僕あの時凄く、身体中が熱くて痛くて、特に左腕は千切れそうな程で…夢で見たバケモノに腕を引き千切られたようだったんだ…
けれどほら、ちゃんと付いてる。」
リチャードは自身が覚醒したことなど覚えて居なかった。
この子に、このほんの5年しか生きていない幼子に、事の全てを、真実の全てを伝える事を思うとフィリップは胸が苦しくなった。
けれどもし隠しおおせたとて、あの“旦那様”…
ジャックが放ってはないだろう。あの男は自分たち人狼の親子のせいで最愛の姉が死んだと思っているのだ。事実そうなのだが…
そんな自分たちが罪を忘れて平穏に暮らすことなど決して許さないだろう。
フィリップはしばらく押し黙り逡巡した。
「父さん?…僕、何か良くない病気なの?」
不安そうにフィリップの顔覗き込む青年姿のリチャードを見て、彼は意を決した。
「リチャード、お前は24年の間…眠り続けていたんだよ…体が大人なのはそのせいだ。けれどこうなったのは病気のせいなどではない。お前は私の…
人狼の血を受け継いだせいで、こんな風になってしまったんだ…すまない……」
父からでた突然の告白の、一体どれ程を理解出来たのか、はたまた少しも理解していないのか、リチャードは何処か虚空見つめ押し黙っていたかと思うと不意にか細い声で零した
「……ぼく、狼なんだね…」
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