第18話 ある狼の物語 Ⅷ
あの哀しい事故から一体、幾日、幾月の時が経ったろうか。
リチャードは全く目覚める気配が無い。
まるで目覚めるのを拒んでいるかの様だ。
彼はもうずっと眠ったままだけれど衰弱している気配は無い。
其れも人狼故だろうか…
一方のメグは、眠っている時と食事等する時以外は、日がな息子から片時も離れずに、小さな手を握って過ごしていた。
時折何事か小声で囁きかけては、彼の髪をそっと撫でてやり、
聞こえているのか如何かも知れないのに本を読んでやったりしていた。
メグはすっかり痩せて、弱っていた。
フィリップは彼女の痛々しい姿を見ても尚、自分にどうする事も出来ない。その事が悔やしくてならなかった。
自分と出会わなければ、メグにも、そして優しいあの家族にも、こんな悲劇は訪れなかっただろう…
ある日の事、こんな山奥の屋敷であるのに、その扉を叩き訪ねる者があった。
不思議に思いながらもフィリップは扉を開けた。
ところが開いた扉の先には誰も居らず、心が弱っている故に幻聴でも聞こえたかと目を閉じれば自分に呆れるように首を振って“こんな所へ来る物好きなど居はしない”と自らに言い聞かせ踵を返そうとした、その時…
「此処に、マーガレット・スペンサーと言う人が居るはずだが?」
不意に聞こえたその声に視線を落とすと、其処には一人の少年が居た。
少年は未だ幼い容姿であるものの、何処か大人びた雰囲気を纏っていた。
年の頃は13~4程のその少年は、身綺麗にしており、何処かの貴族の子息である様に窺えた。
「…マーガレット……?」
フィリップは幾分か頓狂な調子で少年に聞けば、少年はその堂々とした風のまま言った
「俺はジャック・スペンサー伯爵だ。マーガレットは俺の姉にあたる。此処より遠くある領地を収めているが、姉を探しこの地を訪れた。
此の近くの町医者から、此の屋敷にいつからかマーガレットという身重の女が住んでいると聞いて立ち寄った。
もし居るならば会って確認させていただきたいのだが?」
フィリップは戸惑った。
彼女の家族ならばと思う反面、あの頃実家の者に見つかりたくないと逃げ出した日を思い出したからだ。
けれどこんな状況である。彼女は人間と、家族と暮らす方が最期は幸せかも知れない。
其れに彼女はもう…
恐らく長くは無い…
「…メグなら、二階に居る…どうぞ、案内しよう…」
フィリップは力無く答え少年を屋敷に迎え入れると、重い足取りで手摺りにすがる様にして階段を上がった。
外は未だ雪深い冬に閉ざされており、屋敷の廊下は一層冷え冷えとしている。
暫く進むと、リチャードの眠る部屋が見えた。
あの凄惨な事故のあった元の部屋はもう、誰も立ち入れない様に外から板を打ち付けている。
彼が今居るのは、元は客間だった所だ。
ーコンコン…何時もの様にノックをするが、しかし何時もの様に返事も無い。
ゆっくりと扉を開くと、メグは何時もそうしている様にベッドの側の椅子に腰掛けて、未だ目覚める事のない愛しい息子の手を握りながら、何事か囁いていた。
「メグ…君に、お客様がお見えだよ…」
そう声を掛けても彼女はまるで聞こえていないかの様で、少しも反応しなかった。
フィリップの後ろに居た少年が声を上げた
「…マーガレット姉様!」
すると、先程までポツポツと呟いていた囁きが止んで、メグがリチャードの手を静かに置いた。
彼女はゆらりと椅子から立ち上がると、ゆっくりと扉の方を向いた。
ジャックは彼女の余りの変貌ぶりに胸を詰まらせる思いだった。
美しかった稲穂の様な金色の艶やかな髪は、もうずっと櫛も通していないかの様にパサパサとして、潑剌と美しかった肌は病的に青白く、ほんのり桜色のさした様だった頬は痩せこけて、首筋も一層細く、張り出した鎖骨は青白い肌に暗く影を落としている。
羽織りから覗く骨張った枯れ枝の様な腕は
見るだに痛々しく、優しい指先もすっかりカサカサに荒れていた…
「…ジャック…なの?」
此処数ヶ月、半分死んだ様だったメグの瞳に僅かに光が差すのを見た。
「姉様…マーガレット姉様…何て痛ましい姿に……
一体何があったんです?」
ジャックはメグに歩み寄ると、その今にも折れてしまいそうなか細い手を優しく包んだ
「ジャック…何も無いのよ、ただ私が疲れてしまっただけなの。
…そんな顔しないで頂戴…
あぁ、お母様とお父様はお元気かしら?」
メグは無理に笑顔を作ると話を逸らそうとした。
ジャックは其れを察すると、直ぐに本題を突き付けた。
「姉様、俺は貴女を迎えに来たんだ。こんなところにいては体に良くない。
父様は貴女を追いやって直ぐに亡くなった。心臓の病気だった…
俺は其れから後継者として勉強に励み、今はスペンサー家の当主として居る。
父様が亡くなってから、俺はずっと貴女を探していたんだ…
どうか俺と一緒に帰ってください…母様も待っている…」
ー…あぁ、そうだ、彼女は帰るべきなのだ。こんな悪夢は忘れ去って…余生は静かに幸せに過ごしてほしい。
人の一生は短いのだから…
フィリップは再び一人になる事よりも、こんな弱った彼女を見ている方が余程に辛かったのだ。
だから、ジャックが現れた事は彼にとって神の救いにさえ思われた。
するとメグは寂しげに視線を落として
「…そうなの…お父様がお亡くなりに……
ジャック、とても立派になったわね…あなたが居れば、スペンサーの家も、お母様もきっと安心ね…
私は帰らないわ。」
ジャックは驚き
「どうしてですか姉様!!」
と、声を荒げた
しかしメグは静かに言った。
「あなたの事も、お母様の事も、1日たりとも忘れた事はないわ。
けれど私の今の居場所は此処なの。愛しい彼と、可愛い我が子の元なの。
二人を置いて行くことなど考えられないわ…
ごめんなさいね…私を見つけてくれて、有難う…」
ジャックは歯噛みするとバッと振り向きフィリップを睨みつけた。
「…お前、姉様をこんなに苦しめて…あまつさえ繋ぎ止めるなど…俺は決して許さないぞ…!」
幼い子供と思えぬ殺気を孕んだ視線を受けて、反射的にフィリップは狼の血が疼き、その瞳が金色に光を帯びた。
彼の妖しく光る瞳を見てジャックは一瞬たじろいだ。
「お前…人間では、ない?…」
フィリップはハッとして視線を逸らした。
「人外が…姉様を誑かしたのか!!」
怒りに震え今にも飛びかかりそうな殺気を纏うジャックにメグが
「お願いよジャック…そっとしておいて…」
窶れた頬を涙で濡らしながら、メグは震える唇で訴えた。
その晩、フィリップはこの小さな伯爵に洗いざらい全てを話した。自分が何者であるか、眠り続けている息子と、庭木の根元に眠る親子の事も…全てだ。
幼いジャックが、一体何処までを理解したかは定かではないが、彼はその後領地と屋敷を行き来しながら過ごし、黙ってメグを見守った。
こうして数年の後、メグは遂に息を引き取った…
残されたジャックは、甥にあたるこの半獣人の小さな怪物を憎めども、しかしメグの面影を残す其れを眺めては殺す事も出来なかった。
メグの最期の遺言は、リチャードを守り育てることだった。我が子が目覚めた時、母は貴方を確かに愛していたと伝えて欲しいと…
メグ亡き後ジャックはフィリップに、リチャードを地下に幽閉するようにと命じた。
自分が生きているうちは二人をこの屋敷に住まわせてやると。
しかしまた何時ぞやの様な凄惨な事故が起これば、たとえ亡き姉の最期の願いだったとしてもお前達を生かしおきはしないだろうと…
フィリップは、残されたたった一人の家族を守る為には、従うより無かった。
そうして長い年月が経ち、あの頃まだ幼かったジャックももう立派な青年となった頃、遂にリチャードが目を覚したのだ…
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