第17話 ある狼の物語 Ⅶ
ギルバートの叫びを聞きつけ、炊事場に居たエレンとメグがパタパタと階段を上がってくる足音が聞こえ、フィリップは我に返った。
「ギル?!どうしたの?アーティに何かあったの??」
エレンの声がもうすぐそこ迄聞こえ、この惨状を目の当たりにはさせられないと思い、フィリップは駆け上がってきた二人の前に立ちはだかった。
「フィル?どうしたの、そこをどいて、さっきの声は何?ギルとアーティはどこなの?」
悲壮な表情のフィリップを見て、ただ事でないと悟ったエレンは、フィリップを退けて先に進もうとする。
「駄目だ、君は見ない方がいい…っ」
苦しそうにそう洩らすフィリップに対し、エレンは強い視線を向け見つめると、その眼差しに耐え切れずフィリップが目を逸らした。
エレンはフィリップを後に、声の聞こえたリチャードの部屋へ駆けた。
フィリップの様子に戸惑い、後ろ髪の引かれる思いでメグもまたエレンの後を追った。
駆けつけたエレンは開け放たれた扉の先へ飛び込み、薄暗く冷えた部屋の中をぐるりと見回した。
あまりに動く物が無く一瞬視界を過ぎたが、クロゼットの前で膝を付いて居る大きな背中を見つけた。
「…ギル?」
どうしてそんな所で項垂れ、跪いて居るのか理解出来ず呼びかけるも、返事は無く、振り向きもしない。
「一体どうし……」
ー…ピチャ…
ギルバートの肩に触れようと近付いたエレンは、床を濡らす何かに足を踏み入れた、ピチャン…と水の音が聞こえ視線を落とすと、ギルバートの周囲一面が、まるで水溜りの様に濡れて居た。
薄暗がりに慣れて来た目が、段々とその黒くぬらぬらとした液体の正体を理解させた。
「………あっ…」
エレンは唯ならぬ予感がじわじわと上り詰める不快な感覚を覚え、早くなる鼓動に押される様に震え出す身体を必死に堪えた。
一縷の望みにでも縋る思いでギルバートの方へ視線を戻し、また一歩を踏み出した。
彼は項垂れた視線の先に何かを抱えて居た。
ギルバートは服の袖を黒い液体で濡らし、ぐったりと動かない其れを抱え、彼もまた、一点を見詰めたままに静止して居た。
「…っあ……アーサーーーーーー!!!」
エレンの悲痛な叫びが上がり、其処へ辿り着いたメグもまた、凄惨な部屋の中を見てハッと息を飲んだ。
無残に横たわる我が子を前に、声にならない悲鳴を喉に詰まらせるエレンの嗚咽を聞いて、フィリップは壁に額を押し付け、耳を塞いだ。
メグは二人の悲劇を前に動揺したも束の間、我が子の身を案じた。
「……リック…!」
部屋のなかを見回すもリチャードの姿は何処にも無い。
アーサーがあんな悲惨な目に遭って、一体我が子は無事だろうか…メグは震える足取りで部屋へ入ると、辺りを見回した。
ベッドには居ない…
カーテンの後ろも…
机の下も…
クロゼットには…
メグは何に対してか知れぬ恐怖で強張る身体を、ゆっくりとクロゼットへ向けた。
我が子を抱え、血溜まりの中で忘我するギルバートと、言葉にならない悲しみを涙と共に流れるままのエレンを越えて…
クロゼットの中に目を向けると、小さな足が見えた。
「………っ!」
その小さな足は、きっと我が子に違いない。
メグは恐ろしさに震える足でクロゼットに駆け寄り中を覗いた。
其処には意識無く倒れる我が子。
「……!」
メグはリチャードを抱き上げた。
彼の全身は脱力して意識も無い、けれど辛うじて浅い小さな呼吸が感じられ、メグはホッと胸を撫で下ろした。
しかし良く見てみると、リチャードのジャケットは左腕部分だけがボロボロに破けており、だのに怪我一つしていない様子。
ダラリと下がる小さな左腕を確認しようともたげると、その幼い指先にはどろりとした血液が、彼の倒れていた床には、まるで…“何かを抉った様な肉片”がボトボトと落ちていた…
メグは「ひっ…」と短く息を吸う様な声を漏らすと、そのまま気を失ってしまった…
翌る日の朝、メグはベッドで目を覚ました。
何時もの様に穏やかな陽光の差す窓辺を見て、昨日見た“アレ”は全て悪夢だったのではないか、と思い、身体を起こす。
ー…あぁ、朝食の用意をしなくては…
そう思い靴へ足を入れようと見遣ると、靴はまるで泥道を走ったかの様にどす黒く汚れており、靴を履こうとベッドから下ろした足にフワリとかかるスカートの裾も、同じ様に、黒い液体を吸い上げた様に、赤黒く、干からびていた。
「いやああああああ!!」
恐怖に顔を歪め、悲鳴を上げた
その声を聞きつけフィリップが駆けつけると、ベッドの上で蹲り耳を塞ぐ格好で泣いているメグを見つけた。
彼は泣き震える彼女の側へ寄ると、優しくその背を撫でた。
「…ねぇあなた…リックは無事なの……アーティは…一体どうなったの…あの子達にっ…何があったの…」
彼女の背を撫でていた手をピタリと止めると、フィリップは黙ってしまった。
メグは恐る恐る身体を起こし、彼を見た。
フィリップはまるで放心した様に床の一点を見つめ、その瞳からは音も無く涙を流していた。
「…フィリップ…?」
メグが彼の頬に触れようとした時、フィリップはその手を優しく退けると。
未だ涙に濡れた頬をそのままに
「リチャードは覚醒した。…その衝動に身体が耐えられなかったんだ…そして暴走したあの子の身体が……っ」
メグは、ふと全てを諦めたかの様に全身の力が抜けた様になり
「やっぱり…そうだったのね……アレは…夢では無かったのね…」
其れからの日々は、辛く、暗いものだった。
あの日からリチャードは昏睡しており、もう何日も眠ったまま…。
可哀想な幼いアーティは即死だった。
その死を受け入れられないエレンは、我が子の亡骸を一晩中抱き締めて泣いて夜を明かし、翌朝部屋を訪ねると、彼女は首を括って自害していた。
一晩のうちに大切な家族を無残な形で失ったギルバート。彼はリチャードがアーサーを殺した所を目の当たりにして居たが、其れをフィリップやメグに言う事は無かった。
最も、メグはずっと気を失っていたのだが…
エレンが死んで、妻と息子の亡骸を庭木の下に埋葬すると、ギルバートはメグの目覚めるのも待たずに屋敷を出た。
屋敷を立ち去る間際、全ての悲劇の発端は自分だと苦しむフィリップに
「…お前は何も悪くない…けれど、俺はもうここには居られない…クロエ様がもしお帰りになったら…留守を守れずに申し訳なかったと、伝えてくれ…」
振り返りもせずにそう呟くと、彼は屋敷を出て行った。
こうして、幸せの灯火の消え去った暗い屋敷では、苦しみと哀しみに苛まれ、疲弊した狼と、一向に目覚める気配の無い幼い人狼の子、心が病に罹った様に弱りゆく可哀想な女が、ただ死を待つ様に、日々を消化する様にいるだけだった…
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