第15話 ある狼の物語 Ⅴ

月日は過ぎてある日の午後、初めに陣痛を起こしたのはエレンの方だった。



町までは遠いため、用心に備え医師と産婆は1週間前から屋敷に住み込みになってもらっていた。




深夜、部屋の向こうに苦しげに呻くエレンの声を聞きながら、皆が暖炉の前で固唾を呑んで祈る中、ギルバートは特に落ち着かぬ様子で部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。




しばらくすると




ー…おぎゃあ、おぎゃあ




扉の向こうから赤子の泣き声があがり、メグとフィリップは安堵に胸を撫で下ろした。



一方のギルバートはといえば、彼は居ても立っても居られぬ様子で扉を開け放つと一目散に飛び出した。



緊張の糸の解けたメグとフィリップは、ギルバートのあまりの慌てぶりに、思わず顔を見合わせて笑った。





ギルバートに遅れて二人が部屋を訪ねると、赤子は落ち着いた様子でエレンの胸に抱かれ、ギルバートはその赤子を愛おしそうに覗き込んでいた。





 その幸せそうな家族の光景は暖かく、希望と幸福に満ち溢れ、

 この世の不浄などまるで知らぬ安らいだ光を体現した様な赤子と、それを見詰める二人の優しい眼差しは、正に幸せを絵に描いた様だった。




 赤子の額を優しく撫でながら、不意にエレンは目を上げてフィリップとメグを交互に見詰めた。


 その視線は最早昨日迄のエレンでは無く、瞳には澄んだ一筋の光が宿り、母としての覚悟を称えて居た。





 「今度はあなた達の番よ…」





 優しくも意志の籠もった語彙でそう告げるエレンの眼差しを受け取り、メグは心を改めて確信したのだ。


 自分はやはりこの子を生みたいのだと。




 メグは確信を反芻する様に目を閉じ、そっと自分の腹に手を当てがった。

 するとその思いに呼応する様にフィリップもまた、メグの手に、その大きな掌を重ねた。


 その温もりを確かに感じながらエレンを見つめ返すと。




 「ありがとう、そしてお疲れ様。」



 そう言って微笑み返すと、メグとフィリップは部屋を後にした。




 実の所、二人には不安があった。

 互いに口にはしないものの、互いに思って居た事だ。



 その不安は、喜びの影に何時も一雫の黒いインクをこぼした様な懸念を宿し、何時迄も拭えずに、また同時に、自然に消える事も無かった…





 それは、腹の子が、一体どんな姿で生まれてくるのか…という事だった。




 フィリップはこれまでの永い時間を、最初の100年は狼として、その後は狼と人間の姿を繰り返し、ここ数十年は人の姿で生きる道を選び、余生は人里からは離れるものの、理性的な生き方を好み、本など読んで過ごして居た。



 つまりこれまで、人間の女とそれ程永い時を共にした事もなく、その間に子を授かった事も無かったのだ。



 一方のメグもまた、獣人と出会った事さえ勿論ある筈など無く…



 二人は互いに口に出来ぬ不安を抱えつつ日々を過ごし、見つかる筈のない答えを探す様に置き所のない心を持て余して居た。



 そんな二人の想いを知ってか知らずか、腹の子は順長に成長していった。






 エレンとギルバートの間に生まれた子は男の子で、名をアーサーと名付けられた。



 アーサーは毎日元気に泣き、エレンは疲労もあるものの、愛しい我が子を甲斐甲斐しく世話をして過ごして居た。





  アーサーが生まれて1週間後の日暮れ時、遂にメグも陣痛を起こした。




 突然の痛みにその場に蹲り身動きも取れ無くなってしまった彼女を、最初に見つけたのはフィリップだった。




 「メグ!…メグ!!しっかりしろ!!」





 フィリップの声に気付き、近くの部屋に居たエレンは、直ぐに産婆を呼びに行った。




 それから数時間の間…




 扉の向こうからは時折メグの苦しげな声が聞こえた。


 エレンとギルバートは応接間でその時を待って居たが。

 二人は陣痛に苦しむメグもさることながら、メグのいる部屋の前から一歩たりとも離れようともせずに、もう何時間もじっと立ち続けて居るフィリップの事も心配して居た。



 廊下は冷えるからと幾度か声を掛けるも、彼はまるで、扉の向こうのメグの声しか聞こえて居ないかの様で、振り向きすらしなかった。




 そうしてやがて夜が明ける頃、メグが一層苦しげな悲鳴とすら思える様な声を上げた後に、生まれ出た赤子の産声が聞こえた…






 ー…ぎゃあ…おぎゃあ





 フィリップは震える手で扉を押し開けた…すると、その時正に白いタオルに包まれた赤子が、産婆からメグに手渡された所であった。



 メグは夜通しの陣痛と初産の苦痛にすっかり弱りきって居たが、その胸に赤子を抱くと、ほっとした表情を浮かべた、フィリップも恐る恐るベッドに近づく、二人は赤子を包んでいるタオルをそっとめくり上げた、すると…







 そこには、生まれたばかりの、真っ赤な顔をした、しわくちゃの人間の赤ん坊の姿が有った。





 二人は互いの瞳を見つめ合いながら涙を浮かべた。





 例えどんな姿で生まれてこようとも、きっと我が子を受け入れただろう。しかし、もし異形の子が生まれたとしたら…世話になった産婆や、自分たちを受け入れてくれたエレンとギルバートにも迷惑を掛けてしまったかも知れない事を、思わずには居れなかったのだ…







 こうして生まれたメグとフィリップの子もまた少年で、彼は“リチャード”と名付けられた。

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