第12話 ある狼の物語 Ⅱ
馬車を見送ったマーガレットはすっかり山を下りるのが遅くなってしまった、陽はまだ高いが傾いてきている、急がねば日暮れまでに麓の町までたどりつけないだろう。
マーガレットは直ぐに、パン屋の主人に教えてもらった西の山道へ入っていった。
その山道は道が細く、馬車一台がやっと通れるほどの道幅で、地面はしっかりと固められた道ではなく、ここを通る僅かな人の足で踏み固められたような、デコボコとして歩きづらい道だった。
お屋敷育ちのマーガレットにとって、この悪路は大変に不慣れで、彼女は転ばない様に慎重に進んだ。
かなり歩いた筈だが、未だ町は見えてこず、なだらかな下り坂が延々と蛇行して続いているばかりだった。
くたびれて空を見上げると、陽はもう落ちかけていた。
このままでは暗い森で夜を明かさねばならない。
伯爵令嬢として育ったマーガレットに、野営など出来ようはずもない。
彼女はなんとしても夜になる前に町に辿り着かねばならず、重たい足を懸命に前へと進めた。
しかし苦労虚しく、無情にも日は暮れて、辺りはすっかり暗闇に包まれてしまった。
闇の中に響くのは自分の足音と、虫たちの声、それに時折フクロウのささやく様な微かな声が聞こえてくるだけ。
途方に暮れながらも少しずつ歩みを進めるマーガレット
「あ…っ!」
暗闇の中、道の窪みにうっかり足をとられて転んでしまった。
ひどい怪我では無いけれど、落ちていた小枝に引っ掛けて足首を少し切ってしまった様だ。しかしこんな暗闇では手当ても出来ない、とにかく前に進むしか無いのだ。
しばらくの間、痛む足を引きずりながら進んで行くと、道の先からゆらゆら揺れる灯りが見えた。
灯は揺れながらこちらへ近づいて来る。
…人だ。
マーガレットは安堵した。
段々と灯りが近づくにつれ、人の姿もあらわになっていく。
それはランプを下げた痩身の男で、背が高く頬は少し痩せこけて病弱そうな顔立ちだった。
マーガレットは藁にもすがる思いで男に声を掛けた
「そこのお方、すみませんが、ここから町は近いでしょうか?私こんな暗闇で前も見えなくて困っているのです。よろしければ町まで連れて行ってくださいませんか?ほんの近く迄でも良いのです」
男は返事もせずマーガレットに近寄ると、ランプの灯りで彼女を照らし出した。
「…足を怪我しているのですか、血の匂いがする…」
照らし出されたマーガレットの足からは、ポタリポタリと真っ赤な血が流れており、歩いて来た道筋にも点々と跡を滲ませていた。
「あら、こんなに血が出ていたなんて、気づかなかったわ。ほんの少し切っただけですのに…」
「…町はまだ先です。そんな格好で夜道は歩けないでしょうね」
と、男が言うと
「けれど私お屋敷育ちで焚き火のおこし方はわからないのです。あなたがそのランプをくだされば町まで夜も歩き続けられるかも知れませんが…」
「……」
男は観念した様にため息を吐くと
「これを持ちなさい」
とランプを差し出した。
マーガレットは笑顔でランプを受け取った。
「ありがとう。恩に着ます」
すると男はマーガレットをひょいと抱き上げた。
「!!」
マーガレットがびっくりしていると、男はマーガレットの荷物まで軽々と持ち上げた。
こんなに細身のこの男の、一体どこにこんな力があるのだろうかとマーガレットは大層驚いた。
「あなたが足を切った枝は、血を固まりにくくする樹液を出す木の枝です。このままその美味しそうな血を滴らせながら夜道を行けば、野犬や狼に食い殺されるでしょうね。」
「まぁ、それは恐ろしいわ」
「ならば、しかたありません。今晩はうちの納屋に泊めて差し上げましょう。」
「とても助かります。ありがとう」
抱えられて少し降りた先に小屋が見えて来た。
ぼんやりと暖かな灯りを内に閉じ込めた小さな山小屋。屋根からのびた煙突からは細く煙が立ち昇っており、とても暖かそうに見えた。
男は扉の前でマーガレットを下ろすと扉を開いて
「どうぞ、お嬢様」と促した
「ありがとう。でもその前に貴方の名前を教えてくださるかしら?私の暮らしていた町では、名前も知らない殿方のお家には軽々しく上がってはいけないの。」
男は少し黙ってから
「なら、残念だけれど一緒には入れないな。私は外で眠るから君は中で好きに過ごすと良い。今晩だけはこの家は君の持ち物だよ」
そう言って出て行こうとする男を見てマーガレットは慌てて引き留めた
「待って!ごめんなさい、今のは嘘よ!」
「……」
男は相変わらずの無表情でマーガレットを見下ろした。
「おかしな言い方をしてごめんなさい。親切にしてくださって本当に感謝しているの。私はただ、恩人の貴方の名前を知りたい、それだけなのです」
「……」
何処か遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
男はひとまず中へ入る様にマーガレットを促して、扉を閉めた。
「…申し訳ないことですが、私に名はありません。遠い昔に色んな名前で呼ばれていたことはありますが、今は、人に名乗る様な名など、無いのです」
マーガレットは不思議に思ったが、きっと名乗りたく無い事情があるのだろうと察した。
けれど恩人に名がないのでは、誰かに彼の話をする時にとても不便だと思いこんな提案をした。
「ならば、私が貴方に名前をつけてもよろしいですか?」
「…お好きになさいませ」
男には最早、名など必要無かった。
もう誰かに呼ばれる事も、誰かと関わる事も無いのだと思っていたからだ。
けれど、この悪意の無い少女の一夜の連れ合いとして、その場限りの‘山小屋の男’を演じる事を、断る理由も無かった。
「貴方の名前は‘フィリップ’どうかしら?素敵な響きでしょう?
私を拾い育ててくださった教会の神父様の名前なのです。
私にとっては貴方もまた、命の恩人ですから」
こうして男は、長い時を生きて来たその残りの時間を ‘フィリップ’ として過ごす事となりました…
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