第11話 ある狼の物語 Ⅰ

      今を遡る事30数年前の事…



 とある町外れの丘の上に、地元の盟主である‘スペンサー伯爵’の邸宅がありました。





 伯爵の邸宅には、厳格な主人と、心優しい奥方、それに愛らしい二人の子供たちが暮らしていた。




 屋敷には数人の執事やメイドがおり、伯爵夫妻も子供達も何不自由のない暮らしを送っていた。




 二人の子供たちはそれぞれ、ジャックとマーガレットという名で、姉のマーガレットは年頃の16歳。弟のジャックは歳が離れていて、彼はまだ5歳だった。




 マーガレットはもう嫁の貰い手もあってもいい年頃だったが、実はこのマーガレット、伯爵の実子では無かったのだ。




 マーガレットは生まれたばかりの頃、教会に捨てられていた孤児だった。当時スペンサー夫妻には子供が出来ず、毎日悲しみに暮れる妻を不憫に思った伯爵が、孤児のマーガレットを家族に迎えたのだ。



 こうして養子に迎えられたマーガレットは、心優しく清らかに美しい娘へと成長していき、町でも評判であった。

 ゆくゆくは彼女と結婚するものがスペンサー家を継ぐのだと。



 町では男の子を持つ親たちが、うちのせがれこそはと色めき立ったものだった。




 ところが、マーガレットが9つの頃、夫妻の間になんと男の子が誕生したのである。



 これがジャック。彼こそが正統なスペンサー家の跡取りである。



 町の者達は掌を返す様に、今度は女の子を持つ親たちが、うちの娘こそと色めき立った。




 当のマーガレットはと言うと、自分の素性も立場もよくよく理解しており、それを卑屈に思ったり、ましてや誰かを恨むなどということもなく、生まれて来た歳の離れた弟を大層可愛がり、ジャックもまたそんな姉を、両親よりも大切に思っていた。



 奥方はマーガレットの事を実の娘の様に溺愛しており、家族は一見幸せそうに見えた。


けれど、伯爵だけは違っていた…




 跡取りに、待望の血の繋がった実の息子が生まれたのだ…

血統を重んじる伯爵は、こうなると素性の知れない養子のマーガレットのことが邪魔になってきた。



 どうにかして娘と縁を切りたかった伯爵は日々思案していた…



 そんな事とは露程も思わずに、マーガレットはますます美しく健やかに成長していった。そうして彼女が17の誕生日を迎えた日のこと。



 伯爵は家族皆を集めてこう言った。



 「お前たち、喜びなさい。マーガレットに縁談の申し入れがあった。」



 「そんな、相手は一体どんな方なのですか?」



 奥方は大層驚いた様子で尋ねた。



 「相手は山二つ越えた町のバートン子爵だ。」



 バートン子爵は奥方に先立たれ独り身となった方で、歳は60をゆうに越えていた。まして子爵。



 血統や爵位を重んじる伯爵がスペンサー家よりも格下の爵位のバートン家にマーガレットを嫁がせると言うのだ、これには奥方も黙ってはいなかった。



 「貴方、そんなの酷すぎるわ、マーガレットは私達の…いいえ、私の大切な娘なのですよ?!」




 必死に訴えようとする母を制してマーガレットは母の手を両手で優しく包み込むと、静かに言った。



 「お母様、私を今まで本当の娘の様に可愛がってくださってありがとう」



 次にマーガレットは、戸惑う小さなジャックの頭に優しく手を乗せて



 「ジャック、母様を大切にね。貴方はこのスペンサー家の正統な後継者なのだから、父様についてしっかりと学び、立派な当主になるのよ。」




 幼いジャックにも、もう二度と姉に会えないだろう事は察しがついた。

そしてまた、まだほんの子供の自分にはどうする事も出来ないのだという事も同時にわかってしまった。



 三人が悲しみに暮れる中、一人心の内でうまくいったとしたり顔を浮かべる伯爵。




 マーガレットは父の方へ向き直ると、心を決めて



 「お父様、ありがたいお申し出、喜んでお受けいたします…」


 そう言って頭を下げた。





 「よろしい。迎えの馬車は明日の昼に着く。それまでに必要なものを揃えておきなさい。後で部屋に手伝いをやる」




 「…そんな…そんなに早く…」



 奥方は泣き崩れた。

 伯爵は、元より断らせたりなどさせないつもりだったのだ。マーガレットは母を優しく抱きしめた。



 「向こうに着いたら手紙を書きますね…だからそんなに悲しまないでください、お母様…」



 夜が明けた頃、屋敷の前には馬車が止まっていた。




 「…なんだ、迎えは昼のはずでは?まぁいい。マーガレット、支度は済んでいるな?馬車に乗るんだ」




 マーガレットは悲しむ母と弟、そして屋敷の者たちに別れを告げると、馬車へと乗り込んだ。



 しばらくして一つ目の山を越えようかというところで、突然馬車が止まった。



 不思議に思っていると、御者の男が馬車の扉を開けた。



 すると、子爵の迎えの馬車のはずなのに知った顔の男が覗いた。



 男はスペンサー家の統治する町の住人だった。




 男によれば、屋敷のメイドとして奉公に出していた娘が昨日血相を変えて家にやってきて、マーガレットの事を相談に来たのだという。


 男の家はパン屋を営んでおり、マーガレットも幼い頃からジャックを連れてよくメイドと共に買い物に訪れていた。



 男にとってみれば、マーガレットは幼い頃から知る自分の娘も同然で、屋敷へ奉公へやった娘もマーガレットには随分良くしてもらったと言っていた。


そんな娘が、見知らぬ土地のよく知りもしない老人の所へ嫁がされるなど、黙っては居れなかったのだという。




 「お前さんが本当は子爵のもとへ行きたく無いというならば、この鞄とパンを持って何処か遠くへ行きなさい、この山を西へ下ると小さな町があるから、一先ずそこへ寄るといい。


 けれどもし、子爵の元へ行ってもいいというのならば、ここで待っていれば、迎えの馬車は必ずこの道を通るから、そこで馬車に声を掛けなさい…」




 自分たちにはこんなことしかしてやれないが、こんなに優しい娘が、考える間もなく連れて行かれるのはあまりにしのびなかったのだと、男は悲しげに言った。



 マーガレットは、親切にしてくださりありがとう、とパン屋の男に礼を言うと馬車を降りた。




馬車を降りたあと、近くの道端の倒木に腰掛けて、マーガレットは思案した。



本心では子爵のところへなど行きたくはない。けれど、自分が行かなければ誰かに迷惑がかかるだろうか…



昨夜父は言っていた…




マーガレットは、執事長と父が書斎で話しているところを偶然聞いたのだが、それによれば…


「バートン子爵は老い先も短くもう望むものは何もないと言う。

ならば若い娘一人増えたところで何の問題もなかろう。

我がスペンサー家には、娘など初めからいなかった。そうなるのであればあとはどうだっていいことだ。


バートン子爵には身寄りの無い娘を一人、面倒を見るようにと申し付けただけだ。


 なに、物分りのいいマーガレットのことだ、すぐに察して大人しく余生を子爵の元で過ごすだろう。」



つまり私さえ居なくなれば、弟と母は変わらず幸せに暮らすことが出来るのだ…




 しかし、何もせずこの場を離れれば、バートン子爵の使いが屋敷を訪ねてしまい、誰かが私を逃した事がお父様にバレてしまう…



 自分を逃してくれたパン屋の親子が何か酷い目に遭わされてはいけないと思い、心優しいマーガレットは、子爵の馬車が通るのを待つことにした。


もしそれで、説明しても逃がしてもらえなかったとしても、それは仕方の無い事と、抗うつもりは無かった。


 しばらくすると馬の蹄の音が聞こえてきた。



 マーガレットは馬車を止め、父からの書状を渡し、ことの全てを話た。 


 迎えに来た使者の老夫はよく出来た人で、事を把握すると、バートン子爵にはきちんとその旨をお伝えしますから、どうぞお行きなさいと言った。



 しかしマーガレットにはまだ気になることがあった。

自分が逃げる事によって、子爵に何か迷惑がかからないかと心配していた。



 しかし老夫は静かに首を横に振り



 「バートン子爵には世継ぎもなく、誰かに残す程の財産もありません。

子爵は静かにこの世を後にし、その後残りの財産の全てを、教会で暮らす貧しい孤児達に寄付する手筈になっているのです。


今更何か起ころうとも、失うものなど何もありはしません。それより若いお方、貴方は自分の未来を大切になさいませ。」



 と、そう言うと老夫は、懐から金貨の入った袋を出し



 「これは子爵が大切なお嬢様をお預かりする代わりにスペンサー家にお納めするはずだった金貨です。少ないでしょうが、これからの貴方の為にお役立てください。」



 子爵は自分の元へ寄越されるのが、哀れな伯爵家の養子の娘である事を知っていたのでした。




 マーガレットは、会った事の無いバートン子爵にとても感謝し、子爵がどうか幸せな余生を過ごせる様、心から祈って居ますと伝えると、来た道を引き返していく馬車を、見えなくなるまで見送った。






 マーガレットは知る由もないが、この時見送ったあの老夫こそが、バートン子爵その人だったのである。

 

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