第8話 冬の始まり

 気を失った…と、思ってから僅か程経って、再び目を開けた。



夢を見たような記憶もなく、間もなくして目覚めたような感覚だったのに、窓の外はもうすっかり夜が明けきっていた。




あれほど辛かった頭痛と悪寒はすっかり消え失せ、嘘のように体が軽い。



スッキリとした寝覚めで体を起こすと、節々の痛みも消え失せ、生まれ変わったかのような心地だった。



 起き上がって気付いたのだが、ベッドに倒れ込む様に気を失った筈なのに、目覚めると、体はきちんと布団を被っていた。


 恐らくスミスが掛けてくれたのだろう…





本当に素晴らしい薬だったのだ。


毒を盛られたのではなどと疑った、自分の醜い心根が悔やまれる。



そう思いながらふと、机に目をやると、薬の小瓶は消えていた。


私の様子を見にでも来たスミスが片付けたのだろうか。


あれはきっと大切な薬に違いない。あんなに酷い症状だったにも関わらず、こんなに早く回復するのだから。




貴重な薬を奴隷の私などに分け与えてくださって、心底感謝の気持ちでいっぱいになり、私はスミスにまず礼を言わねばならないと思い、ベッドを抜け出した。



書き物机の上に置いてあるベルを、小さく鳴らしてみた。




私は行ける場所が限られているので、用事のある時はベルを鳴らしてスミスを呼んだ。



奴隷ごとき身分で、貴族に遣える執事を、このような形で呼びつけるなど…と、初めの頃は抵抗があったが、勝手は出来ぬし、何よりこれは旦那様のご命令だ。





  ベルを鳴らすと、間も無くしてスミスが来た。

いつも不思議でならないのだが、決して狭い屋敷では無いのに、よく聞こえるものだ…




 ー…コン、コン   …ガチャ…




 「…やっと、目覚めたのですね。」



 「?」



 やっと?確かに陽はもう随分高い様だけれど、たった一晩の事であるのに…



 そう思い私が不思議そうな顔をしていた事を悟ってか、スミスはこう続けた。




 「あなたは、三日三晩眠り続けて居たのです。」




 「…?!」




 三日も?!

体感ではほんの一瞬の様にすら感じて居たのに、そんなに長い間眠り続けて居ただなんて…




 「…申し訳ありません…」



 驚きでいささか混乱して、小さく謝る


 「…あの、旦那様はおいででしょうか?!

私などに貴重な薬を与えて下さり…その、感謝を申し上げねばなりません!」



 せっついて言う私に、スミスは片手の平を前にたしなめた。



 「いつもの部屋に食事を持って行きますから、まずは何か食べるといいでしょう。

 …旦那様は本日外出されています。お戻りは夕刻になるでしょう。

 お戻りになられたら、あなたが目覚めた事は伝えます。それまでは自室で大人しくしている事です。」



 「…はい」




 そう言うとスミスは先に降りて行った。



 ‘いつもの部屋’と言うのは、庭の見えるあの部屋だ。


 ここで暮らす様になってから私はいつも、決まった時間に、大体日に二食の食事を、そこで取らせて貰っている。



 もちろん一人だが、きちんとテーブルを与えられているし、食事だって質素ではあるものの、決して粗末では無い。



 本当にありがたい事だ。





 寝床を整えた後、少しして1階に降りると、いつものように既に食事が置いてあった。



 温かい豆のスープと、フカフカのパンがふた切れにチーズ、カラフェには水が用意されていた。




 ほんの少ししか眠っていないつもりだったけれど、実際は三日も飲まず食わずだったものだから、温かい食事を前に一気に空腹感を思い出した。




 私は、食事を与えて下さった神と旦那様とスミスに深く感謝をして、それをいただいた。





 食事に夢中になっていた所、ふと窓の外、目の端に何やら動くものを捉えて外を見やると、ハラハラと静かに雪が降っていた。


 通りで、薄ら寒い訳だ。





 地面にはらりと舞い落ちる雪は、まだ積もるほどにはなく、音もなく、吸い込まれる様に消えては、土をうっすらと色濃く濡らしていく。



 もうすぐこの土地は深い雪に閉ざされ、長い冬を迎える。



 私がかつて旅した土地にも雪が降る事はあったので、見ること事態は初めてでは無いが。この土地は随分雪深い地域だと、ここに来る途中奴隷商の荷馬車の中で、商人が街の人間と話しているのを聞いた記憶があった。



 この庭や、子供部屋から見る山並み、自室の小さな窓から見える全ての景色が、真っ白な雪に塗り替えられていくなんて、一体どんなに素敵だろう。




 食事を終えて私は自室に戻った。




 旦那様がお戻りになるのは夕刻…

スミスにはそれまでは自室にいる様にと言われたけれど、これと言ってすることがなかった。



 絵を描こうにも、お許しが無いし、キャンバスや絵具は高価なので気軽には使えない。




 仕方なく私は椅子に腰掛けて外を眺めた。



 雪はしんしんと降り続いている。

先程食事中に見ていた時よりも、多く降り出した気がする。


 この辺りによく生えている松の木が、この窓からも見えるのだが、木のてっぺんにふんわりと雪が積もり、まるで松が白い帽子をかぶっている様に見えた。




 それにしてもよく冷える…

 折角病が治ったのに、これではまた振り返してしまいそうだ。

 私は両腕で自分を抱きしめる様にして腕を擦り、何か羽織ろうと、頂いた服を漁った。




 スミスが持ってきた服は、ほとんど古くはあるものの、とても上等な品だった。

 こんな大層なものを、本当に私などが着ていいのかと、初めは恐縮したものの、着なければ捨て置かれるだけの物だと聞いて、ありがたく頂戴した物だ。



 何か暖かそうな物をと探していると、私が着るには随分小さい様な、子供の物と思われるジャケットが出てきた。



 

 驚いたのは、引っ張り出したそのジャケットが、左腕の部分だけがビリビリに破れていた事だった。

 何かに引っ掛けて破いてしまったのだろうか?

 いや、それにしてもこんなに無残になるなんて、もしそうなら相当の怪我をしただろうに…



 見たところそのジャケットは、あの子供部屋にあった服と同じ様な感じだった。



 ー…昔男爵の屋敷で飼われていた時、軟禁状態のアトリエの窓からよく中庭を眺めていたのだが、そこにはよく庭師の男が仕事をしていて、いつも一緒に居た庭師の息子が同じ様な服を着ていたのを思い出した。





 ジャケットの左袖は、袖口から肩にかけて縦に破けており、それはどう見ても、ハサミなどで切った様な跡ではなく、まるで乱暴に横に引きちぎった様なもので…


 何とも不気味だった。






 この洋服の持ち主は、果たして今、どうしているのか…




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る