第9話 手紙の主
私は手頃なジャケットを見つけて羽織った。
寒さは幾分か薄らいだものの、服を一枚重ねた程度ではそう変わるものではない。
いっそ毛布に潜り込もうかとも考えたが、先程の破れたジャケットがどうにも気になって仕方がなかった…
いただいた服の中から一枚だけ省いたその小さなジャケットを、私は改めて手に取って眺めてみた。
まじまじと眺めていると、奇妙な事に気が付いた。
そのジャケットは他の服と違い薄汚れていて、泥の跳ねた様な染みも付いている。こんなに破れている服だし、もう一度洗って着ようなどとは思わなかったのだろう。
それはわかるのだが、気になったのは、洗っていない筈のジャケットなのに、袖の破れた部分に一滴の血痕の様なものさえ見当たらない事だった。
一体こんな破れ方をして無傷でいられたのだろうか?
いや待て…ジャケットは予め脱いでいて、主のないジャケットだけが何らかの事故で破れたのだとしたらこれは成立するだろうか…
旦那様を待つ間、別段する事もなかった私は、偶然見つけたその不思議な品物が気に掛かって仕方がなかった。
次にジャケットの両端を開いて、服の内側を見てみた。すると…
破れた袖の内側に、毛の様なものが付いていた…
それは白銀色で硬く、人毛よりも太くて…まるで獣の毛の様に見えた。
それも一本や二本ではないのだ。
毛が付いていたのは主に破れた布の内側で、左部分だけだった。
獣毛に気を取られてジャケットを傾けた時、パサリと紙切れが落ちて来た。
どうやらジャケットの中に入っていた様だ。
黄ばんで硬くなったその紙切れは、無造作に四つ折りにされていた。
紙を破かない様に静かに開いてみると、そこには幼い子供が書いただろうか不揃いで歪な文字がつらなっており、こんなふうに書いてあった。
ー…ごめん、アーティ、本当にごめんなさい。
もしまた君に会えるなら、僕はどんな事だって我慢するよ。
リック
誰かに宛てた手紙だろうか。
この短い文から読み取れるのは、’リック‘が、‘アーティ’に対し、何かひどい事をしてしまい、それを許してほしいと言う様な内容に取れるが…
恐らく子供の喧嘩では無いだろうか?とも思ったが、‘もしまた君に会えるなら’だなんて、まるでもう二度と会えない様にも聞こえる…
それにこの悲惨に破れたジャケットである。
このジャケットの持ち主はもしかしてアーティとい言う少年で、リックと言う子が怪我をさせてしまい、それが思わぬ大怪我になり、お互いの親に会う事を禁じられた…と考えるのが普通だろうか?
ところがさらにジャケットの内側を何気無しに眺めると、そこにはネームの刺繍の様なものがされており、この様にあった
‘Richard,S’
ー…リチャード…
ここから察するには、手紙の書き手のリックは、アーティという人物に宛てたこの手紙を渡せなかった。
と、言う事だろうか…私は何となくではあるが、このジャケットの持ち主は恐らくあの子供部屋の元の住人だったのではないかと思い至った。
この古びた具合いも、下働きの者が着るであろう仕立ても、あの部屋のものとよく似ていた。
かつての持ち主が、今はどこに居るのか、果たして生きているのかさえも知れない事ではあるが、旦那様の従者の者には違いないだろう。
ならば私は旦那様に仕える者として当然に、この品を丁重に扱うべきでは無いだろうか。
その様に思い至り、私はジャケットを子供部屋に返す事にした。
スミスには部屋で大人しくしている様にとは言われていたが、決して出てはいけないとまで言われたわけでは無いのだし…
屋根裏から階段を降りて、バルコニーや応接間の前を通り過ぎ、さらに玄関の前を通り過ぎてその先の階段を登った。
子供部屋の扉を開くと、ひんやりとした空気が足元に流れてきた。
中に入ると、つい数日前まで毎日の様に通っていたというのに、妙な心地になった。
まるで部屋と私はお互いの事を忘れてしまったかの様であった。
中に足を踏み入れ、クロゼットに近付く。
今まで幾度か絵を描くために出入りしていたものの、中に入るだけで、家具には一切手を触れていなかった。
初めてその、半開きになったクロゼットに手を掛け、ゆっくりと手前に引いてみた。
ー…ギィ…
建て付けの木が鈍く鳴いて、ぎこちなく扉が開いた。
中の衣類はやはりそれ程多くは無かった。
私は幾本かの空いているハンガーを手に取りジャケットを掛けた。
元々掛かっていた衣服を少し動かして同じ様なジャケットの掛かっているところへ掛けようとした時
動かした元々のジャケットにも、ネームの刺繍が見えた。そこには
‘Arthur,T’
ー…アーサー。 それは、‘アーティ’の物だった…
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